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アクアリウム33

「そのままの意味なんだ。」力亜は僕の心を読んだように
そう言った。

抱きかかえている彼女を横目で見ると
「彼女には時間がなかったんだ。」と言った。

すっと、自分の足で立ち始めた彼女から美しい声が聞こえたのは
それからしばらくしてからだ。

「梶先生。驚かせてごめんなさい。どうしてもこういう形じゃないと
私、会えなかったみたいなの。今日の日をどんなに待ったことか。」

「先生って…。僕は親父じゃないんだけど。」

「まだ先の話なんだけど、私、事故にあってしまってね。
頭を強く打って、酷い大けがをしたの。病院に担ぎ込まれたんだけど
間もなく植物状態になってしまって。」

「まだ先の話?」何を言っているのか分からない。

力亜が口を開く
「彼女は未来から来たんだ。正確に言うと魂だけだけど。」

「そう。酷い状態でね意識不明だったんだけど、私。本当は魂だけは貴方の声が聞こえていたの。」

僕は間が抜けて顔で、自分に指をさした。

「毎日、病室に来てくれてね。きっと目が覚める。と励ましてくれたの。それから、先生の青春時代の話とか、昔の話をたくさん話してもらったわ。」彼女の顔はやや上気して、色味が増したように見えた。

「私ね、最後にほんの短い恋をしたの。そう、貴方に。だから
最後の願いを神様に伝えたのよ。」

「残念ながら、俺は神様じゃない。死神だ。」

「同じ事よ。神様のおかげで私。梶先生の生まれ育った場所。
よく行っていた水族館、それから子犬を埋めてあげたこの公園を
見ることができたわ。なにより、若い時の先生にこうやって逢えた。
すごく幸せよ。」彼女は見ている者が吸い込まれるような笑顔で
胸の前に両の手を置いた。

「俺は正体がばれないように、彼女の声を奪った。最後に解除したが。」

「そんな…。僕は医者になんて…。」

「なるんだよ。裕ちゃん。多くの人の命を救う名医に。
おかげで俺達は仕事の量が減って、感謝するくらいにな。フフフ。」

「私の名前は井上千鶴、どうか 憶えておいてね。」

「時間だよ。」力亜は空を指差していた。
気付かなかった。雨はすっかり止んでいて、そればかりか
星空がキラキラと光っていた。

「裕ちゃん。残酷なんだ死神は。でも、裕ちゃんと過ごした
2年間は、凄くよかったよ。今までの人間の中でもトップクラスだ。」

「今までの人間て、おい。どういう意味だよ。」

「そのままの意味さ。裕ちゃんが死ぬ時に担当になれたら、嬉しい。」

「力亜。」

「先生、どうかお元気で。」彼女の美しい声が聞こえた。

「あの、あの…。」うっすらと消えてゆく二人。


「リキアーーーー!!!」

すっかり消えていなくなってしまった。
ザーーーーー
すべてを打ち消してしまうような雨が、目の前を遮断する。
(さっきの星空は幻だったのか?)
そんな他愛もないことを考えている僕は、涙だか雨だか
分からない水を頬に流すままにしていた。

肩を叩かれた。

「不思議なことってあるもんだね。」牧さんが慰めるように言ってくれた。

「風邪ひくよ。店行こうか。」

僕は何も考えられなくなっていた。
僕は何も喋れなくなっていた。

「餅巾着食べる?」牧村はなるべく明るい声で
裕一に言った。

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