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自分の感性を出発点にする生き方。

社会にあふれる「べき」「ねば」

僕たちが生きる社会では「◯◯をするべき。」と「◯◯をせねばならない。」といった「べきねば情報」(勝手に僕が作った造語です。)が溢れています。

・みんな就職をするから就活をするべき。
・キャリアを考えるべき。
・結婚をするべき。

こうした社会に溢れる「べきねば情報」は気がつけば

・就活を始めないと取り残されている感じがする。
・キャリア形成をしないと将来が不安。
・周りのみんなが結婚をし始めているから自分もそろそろやばい。

などという「不安と焦り」に変化します。


「好きなことで生きていけばいいじゃん。他人と比較しちゃ駄目だよ。」なんて耳触りの良い言葉を言われたとしても、そんなことができれば最初から悩んでいないんだよ…、と感じてしまう。

でもそう感じるのは僕たちがきちんと生きている証拠です。


ここでの問題点は、いつの日から、自分の人生の出発点が自分自身ではなくて、社会の「べきねば情報」を通した目標に変わってしまっていることです。これを僕は「べきねば目標」と呼んでいます。(今思いつきました。)

べきねば目標

そんな社会の圧から押された出発を繰り返していると、ふとした時に「本当に自分は何をしたかったのだろう。」と疑問を持つタイミングが訪れます。

また、たとえ疑問を持てたとしても、「しょうがないか。」と、いつの日からどこかに落とし所をつけるようになってしまいます。これが世の中で言う”分別のつく大人”なのかもしれない。

そして一番怖いことは、「こういうもんだから。」と、そんな疑問すらも持たなくなってしまうことです。

心が生きていないと、疑問を持てなくなる。

一方で、子どもたちの様子を思い出してみます。彼ら、彼女らが「ねえお母さん、これなんで?」と聞くのは、彼ら、彼女たちが無知だからではなく、心が生きているから証拠です。

心が生きている状態では多くの物事に疑問を持ち、違和感を持つものに対しては「いやだいやだ。」と抵抗します。

大人になって疑問を持たなくなってしまうことは、知識が増え分別をつけられるようになったからではなく、心の状態に依存しているのではないでしょうか。


僕がよくご一緒させて頂いている二回りほど年齢が上の大好きな経営者の方がいます。その方は僕によく「金田くん、これどうゆうこと?」と聞いてくれます。

例えば自分が知らないSNSやファッションのことについてなど、その方が必ずしも明るくない情報に関しては「どうゆうこと?」「それってなんで?」と聞き、すぐに手元のメモに書き留めます。

その方を見ると「心が生きているな〜」と感じます。何歳になっても自分が知らないことに関して素直に「金田くん、これどうゆうこと?」と聞く姿は、心が生きている限り人はこんなにも輝きながらイキイキと人生を送ることができるのだと教えてくれます。


感性を取り戻す。

僕は人生の中で目標を持ちながら生きる素晴らしさを理解しつつ、社会が「べきねば情報」に溢れる現代になった今、人それぞれが持つ感性を改めて見つめ直すべきなのではないかと感じています。

ある種、「子どもたちの心」のような、心が生きていた時代の感性のあり方を取り戻すこととも言えます。これが達成されるときに、自分の人生の出発点はきちんと「心」に戻され、自分らしい生き方を取り戻すことができるのではないかと思う。

ちなみに自分らしい生き方とは、必ずしも大それた目標を持っている必要はなくて、「これやってみよう、あれやってみよう」と、心が次に向かおうとする状態であればそれで良いと思います。

このnoteはノウハウみたいな内容にはしたくないのですが、こういった抽象概念を可視化しながら紐解いていくことで、明日からの自分の人生に取り入れられるヒントを見つけていきます。


違和感を消していく。

違和感を消す活動

まず行わなくてはいけないと思うことが違和感を消していくことです。先ほど書いた通り、いつの日から社会の「べきねば情報」を浴び続け、「◯◯をやらないと…」という漠然とした不安や焦りが生まれます。

”頭ではわかっている”ことに対して、自分の心がついていかないことは「違和感」として感情に現れ始めます。「やらなくちゃいけないことはわかっているんだけど、なんか違うんだよ…」といった感情は誰しもが持ったことがあるのではないでしょうか。

この違和感を下記の4象限を使って考えます。このように見えるようにすると、上記で記載した「”頭ではわかっている”ことに対して、自分の心がついていかない」の正体がわかるかと思います。それは自分の心で感じているか、感じていないかのギャップから生まれていることが理解できます。

違和感の正体。

僕はこのギャップ(=違和感)を取りに行くことがまず大切だと思っています。これは何かを辞めることかもしれないし、何かを止めることかもしれないし、そして断ることかもしれない。

上の図のように、違和感は「心のお話」であるため、頭で考えるのではなく、心で感じている漠然とした違和感を取りに行くことが大切です

また、違和感に慣れすぎたために既にそこに疑問を持てなくなっている人もいると思います。(我慢がどうしても美徳となる日本ではこうした人は多いと思う。)そういったときは客観的な視点を入れてくれる知人や友人の力も借りてまずは違和感を再度認識できるようにしてみましょう。

この違和感を消していく活動というのは、言い換えれば心に余白を作っていくこと活動とも言いかえられます。また、これはもしかしたら「分別がつく大人になる」ことを辞めることなのかもしれません。

人生の中で「これぐらいでいいか。」というのをやめてみて、少しずつ取り除くべきことに意識を向けてみる。一つだけ頭に入れたいことは違和感はいつだって正しいということです。あなたの違和感はあなたの味方であり、そこに社会や他者の意見を入れないでください。

自分の違和感を信じてあげてください。


好奇心で遊ぶ

好奇心を高める活動

次に大切だと思うことが好奇心を高めていくことです。社会の「べきねば情報」から人生を出発させるということは、ある意味では目的が決まっている状態になります。冒頭で書いた、

・就活で言えば内定をもらって会社に入ること。
・キャリアで言えば昇進をしたり、自分の経験を増やすこと。
・結婚で言えば入籍すること。

これらは全て「べきねば目標」であり、そこに向かって行動が作られてしまいます。

好奇心を高めていくときには、こういった目的合理性を無くすことが大切です。「合理性」とは「理にかなっている」「理由がある」ということです。つまり目的合理性を無くすこととは、理由が無く、ただやりたいからやってみる。何となく気になるからやってみる、ということです。

こちらの好奇心を高める活動はファーストステップにあった違和感を取り除く活動よりも、実は難しいことのように思えます。それは違和感は比較的、認識をしやすい感覚だと思う一方で、”分別がついてしまった状態”になると、何に自分の好奇心が向くのかがわからなくなってしまうからです。

言うなれば「わたしって何がやりたいんだっけ。」という気持ちです。

この問題には抜本的な解決策はなく、少しずつ心をほぐしていくことが必要になると思います。凝り固まってしまった心を、子どもたちが持つような柔らかい状態に戻していく。

巷で溢れている「やりたいことの見つけ方」などの類の本は、このほぐしていくというプロセスの重要性を説く内容が少ないと感じており、「これをやれば見つかる。」と言い切っている状態が、僕には疑問に思えます。

この「心をほぐす」という活動は、右利きの人が左手で橋を持つようなものだと思っています。簡単に想像つきますが、右利きのあなたが左手で箸を持つとぎこちなくなってしまい、最初は食べ物を持つことすらもできないでしょう。

ただ毎日まいにち繰り返すことにより、左手で食べ物を持てるようになり、ついには右手と変わらない状態で左手で箸を使えるようになるでしょう。

このように一筋縄ではいかない、でも毎日行うことで着実に進んでいくことを意識することが大切です。


心をほぐすためにする「敢えて」

では具体的にどのようなことをすればいいのでしょう。実は心をほぐす活動は日常の些細なことからできます。例えば僕がよく行うのは「寄り道」です。

学校に通っていたり、会社に通うようになると、おそらく多くの方がいつも同じ道を通っているのではないでしょうか。そしておそらく、それは目的地への「最短ルート」として使っている道だと思います。

今は知らない土地でもアプリひとつで目的地までの最短ルートを出してくれる時代になりました。つまり遠回りすることが難しい時代になってしまったと言えます。効率的とも言えるし、何だか心が動きにくい世界になってしまったなあとも感じます。

だからこそ、日頃から敢えて違う道を歩いてみる。知らない道を歩いてみる。幸い、日本は他国に比べ圧倒的に安全な国です。こっちの道を行ったら危険、なんてことは少ないと思います。

ちなみに僕は海外の旅行中であっても最短ルートを見つつ、敢えて違う道を選んでいます。「この先は何があるんだろう。」と心をくすぐられる時間になりますし、予想外の新しい発見に出会わせてくれることにつながっています。そして何より自分自身の好奇心に従って生きる面白さを教えてくれます。


日常でつくる「敢えて」

結論、この「敢えて」の繰り返しが心をほぐす作業に繋がるのではないでしょうか。こう考えると、様々な場所でこの「敢えて」は使うことができるんです。

例えばコンビニなんかに行くとき、いつも自分が選ばないような飲み物を敢えて選んでみる。僕で言うとほとんど水しか飲まないので、定期的に敢えて新商品のものに手を出したりします。

他にも
・敢えていつも行かないような場所に行ってみる。
・敢えていつも読まないような本を読んでみる。
・敢えて自分が会わないような人に会ってみる。


余談ですが、この「敢えて活動」は、僕がとにかく目的思考、効率思考になってしまっていることに気がついたことから始まりました。ちなみにはじめて僕が「敢えて」行ったことは「パチンコ屋さん」に行くことでした。ギャンブルは僕の人生では縁がなく、正直なところ行きたいと思ったことはありません。

おそらく自分のことを知ってくれている友人は、僕が”そんなキャラじゃない”と思うでしょう。でも、その「キャラじゃない」ということがミソだと思います。

朝からパチンコ屋さんに並んでいる行列を見たときに「絶対に自分のキャラじゃないし、なんか面白いかも。」と思って、パチンコ屋さんに行ってみたのでした。(ちなみに僕がパチンコ屋さんに行ったのはそれが最初で最後。)

それからと言うもの、自分が行かない場所を定期的に「敢えて」選び、足を運んでみる習慣ができました。

もちろん、この「敢えて」の活動も目的が無くて良いと思っています。発見もしなくて大丈夫です。感想もなくて大丈夫です。何か見つかれば「ラッキー!」ぐらいに思っておきましょう。

目的を強いて言うならば「敢えて」を行うこと自体が目的です。


「敢えて」をやると世界が広がる

「敢えて」は世界を広げる。

一説によると人間の行動の90%以上が無意識で出来上がっていると言われており、私たちの日常は想像以上に習慣で出来上がっています。

「敢えて」を意識するということは、普段、無意識的に生きてしまっている自分の日常に新しい発見を取り入れてくれます。「次の”敢えて”は何にしようかな。」と考えることは、日常の延長線上では気が付かない物事に気づかせてくれます。

日頃からたくさんの「敢えて」をやってみましょう。

そうすることで心に新しい刺激が訪れ、忘れていた自分の感情の高ぶりや、気持ちの変化に段々と気がつけるようになります。


感性を高める。

感性の高め方

・違和感を消していくこと
・好奇心であそぶこと

この2つの活動をぐるぐると行い続けることが、感性を高める生き方だと思っています。1日、2日で何か変わるものではありません。だけれども少しだけ日々の生活に織り交ぜることによって心はほぐされます。

現代では、何度も記載している「べきねば情報」があることにより、こうした感性を活かすことなく、まず目標を建てなければいけない状態になっていることが生きにくい社会の一つの要因だと感じます。

そうして、なんとなく不安になってしまったり、なんとなく満足感を感じられない日々になってしまうのではないでしょうか。

こうやって偉そうに書いている自分もまだまだ社会の「べき」「ねば」に引っ張られることが多くあります。それぐらい社会の引力は強いです。

でも振り返ると「何かいつも面白いことをやっていますよね。」と言われてきた自負もあります。それはこの2つのサイクルを毎日すこしだけ取り入れているからかもしれないです。


目標は見つかればラッキー!

それから僕は誰しもが目標を持たなければいけない社会ってちょっと息苦しいなあ。。なんて思ってしまいます。それは生きているだけで100点満点だからです。

目標は見つからなくても100点満点。

”べきねばフィルター”を通した目標を建てるぐらいならば、ただ生きているだけで良いと思います。

目標は見つかればラッキー!


言葉に頼りすぎない。

先日友人と話している際に「これってやった方が良さそうなんだけど、なんかカッコ悪いんだよね。」と話していました。

この「なんかカッコ悪い」という表現が僕には妙にしっくりきて、大人が取り戻すべき感覚なのではないかと思います。

言語化してしまえば、やるべきことはあるんだけど、それってなんかしっくりこない。なんか自分の生き方としてはかっこ悪い気がする。そんなことを感じる力です。

大人になっていくと語彙力が高まっていったり、中途半端に「言葉」を覚えてしまうために、言葉にできない感情に対してモヤモヤしてしまい、ときに体力や精神力を奪われます。

だけどそもそも感情が先にあって、言葉が後にあるわけです。言葉は自己理解を深めたり、他者とのコミュニケーションを取る上で重要なツールではあるものの、全ての感情を担ってくれるわけではありません。

あの時、友人の「なんかカッコ悪いんだよね。」には言葉では表しきれないけども、心で感じている何かが反応していたんだなあと思います。


子どもたちは、自分が好きなおもちゃを見つければずっとそれで遊んでいます。逆に少しでも気に入らないものがあれば「いらない!」と言って見向きもしないことが想像つくと思います。

それは何が自分にとってかっこ悪く、何がかっこよ良いのか判断できている証拠です。僕ら大人だって、同じように感性で生きても良いのではないかと思う。心だけは奪われてはいけない。


おわりに。

途中で「ノウハウみたいな内容にしたくない。」と書いたのは、この「感性を高める」というテーマ自体が僕自身がすごく好奇心を掻き立てられるテーマであって、何かノウハウ化するために考えているわけではないからでした。

目標はA地点からB地点まで最短で連れていってくれるかもしれませんが、それによって人生の”何か”が失われている気がしてしまう。

もちろん、目標を持って行動する人はそれは一つの生き方として素晴らしいと思います。僕も今まで要所要所で目標を意識して、切磋琢磨した経験もあります。ただそれによって心を奪われることは絶対にされたくないと思って生きてきました。

きっとこれからも、社会の「べきねば情報」たちは、わたし達を追い詰めるでしょう。そんなとき、次は心で戦ってみる。人の感性というのは誰しもが持っている、そして誰にも奪えない最強の武器だと思うからです。


僕もまだまだ社会の「べきねば情報」に囚われている一人だと思います。だけど一人でも多く、人の感性を応援し合う仲間ができたら嬉しいなと思います。長文お読みいただきありがとうございました!


金田謙太


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