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ここで飲む幸せ

「鍋でもしようかと思ってるんだけど、食べにこないかしら。」

12/4の金曜日。仕事終わりにスマホの画面を開くと新規通知に行きつけのスナックのママからメッセージが来ていた。

メッセージが届いたのは20:00過ぎで、今の時刻は21:00少し前。俺は「今終わりました。行きます。」と返信をして、タクシーに乗り込んだ。

行き先を告げるとタクシーは勢いよく発進した。俺はシートに背中を預け、目を瞑る。

ここ最近、仕事が忙しくなって残業時間も増えた。唯一の楽しみはたまに行くスナックだけだ。

この店は俺が横浜に来たばかりの頃、偶然見つけた店で、とても居心地が良い。

店内にはジャズが流れているが、そこまで気取った店ではなく、ママも客に対してフランクに接してくれる。

しかも今夜のようにママが手料理を振る舞ってくれることがあり、そんな日は決まって食いしん坊の俺に連絡が行くのだ。

そろそろ店に来て半年になるが、俺はママの誘いを断ったことは一度もない。

今夜も舌と胃袋に鍋を迎え入れる準備をしながら、俺はタクシーに揺られていた。

急に外から大声が聞こえてタクシーが急停車した。

何事かと思って運転手を見ると青い顔をしている。そして震える声で「鼠捕りにひっかかったみたいです。」と俺に言った。

おいおいおい…勘弁してくれ。俺はもう鍋のお腹になっているんだ。ここで止められちゃ困る。

運転手が車窓から警察に免許書を見せ、何かやり取りをしていた。どうやら客の俺を目的地に送ってからまた戻って諸々の手続きをするらしい。

思わぬ時間のロスに、俺は露骨に不機嫌になったが、ここで俺が腹を立てても何も変わらない。俺の腹が減るだけだ。

当初予定していた到着時刻より大幅に遅れて目的地に着いた。

料金を支払おうとすると、「いや。大丈夫です。今回は私のせいで遅れたので。」と運転手が誠意のこもった声で言った。

俺としてはタクシー代が浮く分には嬉しかったので、ありがたく厚意に甘えることにした。

タクシーを降りて店のドアを開ける。ママが気づいて入口を見て、

「おかえり。遅かったね。鍋もう煮えてるよ。」

いつも通りの全く媚びない態度で俺に言った。タクシーが鼠捕りに引っ掛かったことを話すと「え゛ぇぇ!」と驚愕し、直後可憐に爆笑した。

一通り事の一部始終を話している間に、キープしていた俺のボトルを出して、鍋を小皿によそってもらった。

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寄せ鍋だ。白菜と鶏肉を口に運ぶと出汁の旨味が口いっぱいに広がった。

ロックで1杯作ってもらって、一口飲む。美味い。鍋にピッタリだ。

その後他の店で飲んできた常連の一団がやってきて、みんなで鍋をつついた。

初めて会う人もいたので、ママが俺を紹介してくれた。

ママは誰かに俺を紹介するとき、決まって俺の最初の印象がとんでもなく悪かったことを話す。

いきなり店にやってきて、横柄な態度でウィスキーは何を置いているかを聞き、全部紹介し終わる前に、じゃあそれ1本ボトルで と吐き捨てるように注文し、テーブル席にどかりと腰を掛けて連れとともに大声で話し始める。

そんな奴、俺じゃなくても印象が悪いだろう。

だがその後、俺が何度も店に訪れるようになったこと、カウンターで話してみると意外といい奴だったことをママは話す。

この店に来始めてから何度も同じ紹介をされているが、毎回俺はくすぐったい気持ちになる。

そしてママが俺のことを紹介した後は、いつの間にか他の客と俺は仲良くなっているのだ。

俺がこの店で気持ちよく飲めているのは、ママがこうして紹介してくれるおかげだ。

その後、常連の一団は河岸を変え、俺は店の閉店時間まで管を巻いた。ママが後片付けをしているときに

「どこか飲みに行こうか。アンタもくるでしょ?」

と誘われた。

俺は酒の誘いは極力断らないと決めているので、二つ返事で快諾した。

ママが片づけを済ませて店を閉めるまで、俺は今夜の楽しい会話を思い出し、フッと笑みを浮かべる。

こうして俺の金曜日の夜が更けていく。

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