サラリーマン養成学校と規範無き現代

ここ一、二年母校の名「一橋」と「マンキューソ」という固有名が不穏な脈絡で同時に現れることを目撃している。
この旧高等商業学校は大きな成功はないが旧財閥系企業の役員率日本一だと言われていたように日本の中では卒業生は経済的安定は約束されている結果、決して主体的決断の結果の倫理ではないが、ちょうどこの学校がある街の名「くにたち」が国分寺と立川の中間に位置することから安直に命名されたように、「なんとなく」穏便でリベラルな校風を誇りとすることができた。
ところがその古きよき時代が去り21世紀になり地球化現象に巻き込まれしかもまるでハズレ籤を引いたようにその劣悪さを背負い込むように、英語を母国語とするしか取り柄がなく博士号ももたない(たぶん)ブルックリン訛りでFwordをわめき散らすゴロツキの破廉恥な行いに対してははこのただ優秀でお行儀がいいでしかないプチ・ブル集団は全くなす術がなかったのは当然だろう。
大げさに言ってしまえば、20世紀の日本株式会社を粛々と支えて来た多少の教養があり、決して信条としてではないが、将来の安定が保証されているため、寛容であるエリート・サラリーマンを養成してきたこの学校は、日本経済の体たらくーもちろんこれには大いにこの学校の卒業生たちも責任があるがーと共に没落し(だって単に優秀だけなサラリーマンなどもはや不要)、それに見合ったたちの悪いあぶれ者を引き受けることになってしまい、それに毅然として対峙する倫理を持っていなかったため、人種差別行為をなすがままにさせ、自らを、やからと呼んでいい不穏な人物と共通の脈絡におくことになったのであろう。
そう、この一橋のマンキューソの恥ずべき発言を前にしての体たらくは、公権力である、この学校の卒業生の名古屋市長が表現の自由を蹂躙する発言者するなど、無造作に規範を無視する時代の現れなのだ。

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