マイ・フューネラレル・ミックス2

 ザ・ロフトに通い詰めながら、礼文は恐ろしい勢いでレコードを買い始めた。ザ・ロフトでプレイされるようなダンス・ミュージックをすべてコレクションしようと。
 さらに同じ頃、礼文はさらにフランスから移り住んできたフランソワ・ケヴォーキアンという男と出会う。フランソワはドラマーとして成功するべく、ニューヨークにやってきたのだが、ダンス・ミュージックの胎動に触れて、DJへと転身した。ドラマーとして培った精密なリズム感をもとに、ディスコもファンクもロックもジャズもラテンも縦横にミックスするフランソワのプレイを見て、礼文はDJの持つ創造性を知った。
 一九七七年の終わりに礼文は東京に戻ってきた。その頃にはレコード・ハンティングはほぼ彼の人生のすべてになっていた。まだヒップホップもハウス・ミュージックの時代がやってくる前だったから、ブルックリンに行くと、後に途方もない値段がつくことになるR&Bやファンクの中古盤が、一ドル、二ドルで幾らでも買える時代だった。ダンサブルなグルーヴのある音楽なら分け隔てなく、どんなジャンルのものでも礼文はコレクトした。
 ニューヨークでコレクションした一万数千枚のアナログ盤は船便で日本に送られた。

 翌年の始め、ニューヨークで知りあった大久保俊彦という男が、少し遅れて、日本に戻ってきた。大久保もまた、人生をレコード・ハンティングに賭けた男だった。礼文より三つ年下の彼は務めていた輸入商社を辞めて、アメリカでレコード・ハンティング旅行をしている間に、礼文と知り合った。
 礼文は日本人らしからぬ大柄な体躯で、肩までの長髪だったが、大久保は髪を七三に分けた、スクエアな風貌の小柄な男だった。しかし、彼のレコードの買いっぷりは、礼文をも驚かせるものだった。
 マンハッタンのダンス・ミュージック・シーンの隣には、ゲイ・カルチャーやドラッグ・カルチャーがあったが、大久保はそれらには目もくれなかった。大久保がドラッグまみれになるのは、二十年も後の話だ。当時の大久保の興味はクラブよりもレコードショップだった。一九七七年の夏、大久保は二ヶ月間ほど礼文のマンションに居候し、何度か荷物を置いては、ボストンやフィラデルフィアの中古盤屋にレコードを買いに旅立っていった。

 大久保が礼文と違っていたのは、彼はそれが将来、大きなビジネスになる、と踏んでいたことだった。一九七九年、大久保は渋谷と恵比寿の間にあるマンションの一室で、トラベラーズ・レコードというレコード店をオープンする。海外買い付けによるレアなレコードを取り扱う中古盤店のはしりだった。礼文は大久保に三百万円の資本金の半額を出資した。
 それこそは九十年代に渋谷の街を制覇したと言ってもいいトラベラーズ・グループの始まりだった。
 初期のトラベラーズ・レコードは、ダンス・ミュージックよりもロックやブルーズが主体だった。しかし、八十年代半ばになるとヒップホップがやってきて、ハウス・ミュージックがやってきた。日本のDJ文化にも火がついて、レア・グルーヴの名のもとに、DJ達が六十年代、七十年代のディスコやファンクやジャズのヴァイナルを買い漁り出した。トラベラーズは次々に新店舗をオープンさせて、それに応えた。レア・ヴァイナルの高騰は、トラベラーズに莫大な利益をもたらした。
 大成功した大久保は、レコード・コレクターであることは辞めてしまった。「貴重なレコードを売るのをためらっていたら、ビジネスはできない」というのが大久保の口癖だった。
 一方で礼文は自分のためだけのレコード・コレクターであり続けた。レア・ヴァイナルの値段がどんなに高騰しても、彼にはたいした意味は無かった。彼は世界を気ままに旅しては、レコード・ハンティングを続けた。

 「マイ・フューネラル・ミックス」がいつ頃、作られたミックス・テープなのか、知る者はいなかった。それは礼文の妻のあずみにずっと前から預けられていた。礼文の二度目の妻であるあずみに残された遺言は、自分の葬式でそのミックス・テープを流すこと、そして、そのミックス・テープに使われたヴァイナルの入ったレコード・バッグを棺に入れることだったという。
 通夜から一夜明けた砧聖苑での告別式は、午前中ということもあって、参列者は数十人。音楽関係者は姿を消し、家族、親戚、古くからの友人がほとんどだった。しかし、大久保俊彦がシンガポールのディスコ、AERON(エアロン)のマネージャー、ヴィンス・チュウを連れて、現われた。シンガポールの国際空港の脇にディスコ、AERONがオープンする時、礼文はオープニング・ウィークのゲストDJとしてプレイしたことがある。
 といっても、礼文は自分はDJではない、と常に言っていた。実際、クラブでプレイすることは少なく、レギュラーを持ったことはなかったはずだ。八十年代には礼文はトミーズやトゥールズ・バー、第三倉庫などで時折、プレイしていたが、九十年代以後は何か特別なイヴェントに招かれる時以外は、ほとんどプレイしていない。本当のDJはフランソワ・ケヴォーキアンのような男だ。彼のような創造的なプレイを自分は出来る訳ではない。礼文はそう考えていたようだ。
 しかし、ダンス・ミュージックが最も刺激的だった時期を実体験している礼文のプレイは、やはり特別だった。誰かが真似できるようなものではなかった。そもそも、伝説のレコード・コレクターが一体、何をスピンしているのか、小西康陽でも、小林径でも、須永辰緒でも、矢部直でも、沖野修也でも、橋本徹でも、半分も言い当てるのは無理だった。
 AERONのオープニング・ウィークには世界中から蒼々たるDJ達が集められたが、ヴィンスから相談を受けた大久保が日本から推薦したのは、六十六歳になる出井礼文だった。AERONのコンセプトを考えれば、日本人で最初にプレイすべきなのは、礼文しかありえない。大久保はそう考えたのだった。

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https://note.mu/kentarotakahash/n/n78acf6b9c2ec

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