マイ・フューネラル・ミックス

 その棺桶は最近、流行しているコラボ・コフィンだった。棺桶そのものはイギリスのエコ・コフィン社がデザインしたものだ。
 棺桶の側面には空に向けて細い茎を伸ばしていく植物のイラストレーションがぐるりと描かれている。蓋の部分には円盤を組み合わせた幾何学模様が。このデコレーションを施したのはイラストレーターのアルフォンソ北岡。こうしたアーティストとのコラボレーション棺桶を生前にオーダーしておく人々も増えてきた。Tシャツ感覚と言ってもいいかもしれない。エコでアートなコラボ・コフィン。

 前日、港区の増上寺で行われた通夜には三百人ほどが集まった。中には日本のクラブ・ミュージックの創成期を彩ったDJ達が数十人はいたかもしれない。今ではでっぷりと太ったり、禿げ上がったりして、かつての面影をまったく失っている者達も少なくなかったが。
 お焼香をした後に通されるお清めの食事の場は、あたかも、五十代から六十代に差し掛かったそんなDJ達 ~ 彼らの多くは現役を退きつつあったが ~ の同窓会の様相を呈していた。広間は百人は入れる広さだったが、帰ろうとする者が少ないので、次第に混雑していった。彼らが帰らない理由、帰れない理由は、そこにサウンド・システムがあり、故人のミックス・テープがプレイされていたからだった。
 ウーレイのミキサーとマーク・レヴィンソンのアンプとクリプッシュのスピーカーが広間には設置され、スチューダーのオープンリール・テープレコーダーが回っていた。プレイされているのは故人が生前に作ってあった「マイ・フューネラル・ミックス」。
 目をつぶって聞いている者もいれば、曲が繋ぎかわる度に、宙を仰ぐ者、首を振る者、何かを囁き合う者もいた。何か次の予定があっても、テープを聞き終わらないうちにその場を去るのははばかられる雰囲気だった。

 二〇一三年九月十八日に没した故人は、出井礼文(いずいれぶん)という男だった。たぶん、彼は一般にはDJとしては知られていないはずだ。どちらかといえば、エッセイストとしての彼の仕事の方が世の中には知られていたが、それも今ではどれほど人々の記憶に残っているかは疑わしい。
 しかし、一九八〇年代の半ば、クラブとかDJといった言葉自体がまだ耳新しかった時代に、彼は別格の存在だった。その時点で、彼はすでに伝説のレコード・コレクターとして、知る人ぞ知る存在だった。

 出井礼文は一九五〇年に東京の文京区湯島で生まれている。父親は高名な日本画家の横山義寛だが、そのことを知る人は少ない。ふたりの姉を持つ長男だった礼文は十代で母方の祖母、出井幸穂(いずいさちほ)の養子になった。大きな資産を持つ祖母からの相続を一代飛ばして、節税するためだった。横山家、出井家はいずれも金には困ることがない家だった。少なくとも、あと一、二代の間は。
 礼文は父親と同じく美術を志し、武蔵野美術大学を卒業後、ニューヨークの美術大学に留学したが、ほどなくドロップアウト。不法滞在者となった。しかし、彼は働く必要がなかったので、当局に摘発される危険も少なかった。
 ドロップアウトした理由は、自分が美術に大きな興味を持てないことに気づいたからだった。気づくのは遅過ぎたが、それは父親の存在が大き過ぎたからだ、と礼文は自分に言い聞かせた。かわりの何かを持ち帰って、祖母を納得させられれば、それでいいだろう。七十年代半ばのニューヨークは、そう思わせるに十分な刺激的な出来事にも満ちてもいた。
 パフォーミング・アートに興味を持ったのをきっかけに、礼文は次第に美術よりも音楽に傾倒していった。当時のニューヨークでは、一方にはパンク・ムーヴメントがあり、ラモーンズやテレヴィジョンやトーキング・ヘッズが産声をあげていた。そして、その一方にはアンダーグラウンドなダンス・ミュージックの胎動があった。それはまだほとんどメディアにも取り上げられることのない胎動だったが。

 一九七五年、礼文はサンフランシスコからニューヨークに移ってきたひとりの男と知りあう。アーサー・ラッセルというクラシックの教育を受けたチェロ奏者だったが、彼は現代音楽やパフォーミング・アートにも精通していた。ニューヨークに移住後、アーサーはジョン・ケージやローリー・アンダーソンと親交を結ぶ一方で、ダンス・ミュージックの世界にも深く入り込んでいった。
 アーサーを通じて、礼文はアンダーグラウンドなダンス・ミュージックの存在を知る。そして、アーサーとともに、デヴィッド・マンキューソの主宰する伝説的なプライヴェート・パーティー、ザ・ロフトに足を踏み入れた時、礼文の人生は変わった。

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https://note.mu/kentarotakahash/n/n557fc11c8b19

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