ハース・マルチネスの『ハース・フロム・アース』 ~ Hirth From Earth - Hirth Martinez

 2015年10月6日、ハース・マルチネスが死去した。あの名盤『ハース・フロム・アース』のハース…と書けば、一定数の人には話が通ずるはずである。1975年にロビー・ロバートソンのプロデュースで、ワーナーから発売されたそのアルバムは、こと日本では伝説的な名盤として語り伝えられきた。1992年にCDリイシューされた後は、いわゆる渋谷系のミュージシャンに少なからぬ影響を与えてもいる。その人気を受けて、1998年には日本のドリームズヴィル・レーベルでハースのカムバック・アルバムが制作され、以後、来日公演も二回行われた。

 ただし、そうした再評価は日本のみの出来事で、本国アメリカでのハース・マルチネスの知名度はゼロにも等しい。ウィキペディアにも項目がないくらいだから、当然ながら、追悼記事がメディアに載ることもなかった。あるいは、日本でもハース・マルチネスとは何者だったのか?ということは、ほとんど知られぬままなのではないかと思う。というのも、1975年のデビュー・アルバム『ハース・フロム・アース』の発表時に、米ワーナーが配布したバイオグラフィーが出鱈目で、加えて、1977年の『ビッグ・ブライト・ストリート』発表後、彼は忽然と姿を消してしまった。このため、リイシューされた日本盤CDでも、ハース・マルチネスの経歴は発表当時のそれから更新されず、ランドリーで働いていた時に事故で片足を無くした謎の男とされていたのだ。

 実は1984年のロスアンジェルスで、僕はハース・マルチネスを探しに行ったことがある。その頃は僕もまだ、彼が片足であると信じていた。1975年にアナログ・レコードを買った当時の雑誌記事に、そう書いてあったからだ。ワーナーからの二枚のアルバムは愛聴盤だったものの、それ以後、消息を聞かなかったから、LAタイムスの日曜版のイヴェント欄にハース・マルチネスという名前を見つけても、それがあのハースなのかは確信が持てなかった。

 場所はヴェニス・ビーチの外れの自然食レストランだったので、バスを乗り継いで、行ってみることにした。夕方にレストランに着いても、客は誰もいない。仕方なく、カウンターでビールを飲んでいると、ギターを抱えた男が入ってきた。太ってもいなかったし、髭もなく、まして片足ではなかった。男は少し離れたカウンターに座って、やはりビールを飲み始めた。

 しばらくすると、店に客が入り始めた。十数人ほど入ったところで、男がテーブルを回って挨拶をし、ケースからギターを取り出して、マイクに向かった。聞こえてきたのは、まさしく、あのハースの声だった。

 休憩があり、カウンターに戻ってきた彼に、ファンであることを告げた。彼はリクエストがあれば何でも歌うよ、と言った。だが、残念ながら、もう時間がなかった。暗くなったヴェニス・ビーチからバスで帰るのは無理だ、車で拾いに行く、と言ってくれた友人が迎えにきたのだ。

 友人は僕より10歳ほど年上のLAタイムスの音楽記者だったが、彼はハース・マルチネスを知らなかった。ロビー・ロバートソンのプロデュースのアルバムが…と説明しても、まったく記憶にないと言う。彼はロサンジェルス育ちで、ローカル・シーンには詳しい人だった。翌日、デビューして間もないロス・ロボスのクラブ・ギグがあるから観に行った方がいい、と教えてくれたのも彼だった。しかし、そんな彼ですら、ハース・マルチネスは知らなかったのだ。

 ハース・マルチネスとロス・ロボスが同じ高校出身であることを知ったのは、ずっと後のことだった。ロス・ロボスの成功後、ロスアンジェルスのチカーノ(メキシコ系アメリカ人)による音楽の歴史を掘り起こす人達が現れた。アメリカでハース・マルチネスのことを語り継ぐのは、そうしたチカーノ・ミュージックの研究家だけだった。というのも、実はハースは1960年代の始めから、サム(サミー)・フィリップという名で活動していたチカーノのミュージシャンだったのだ。

 同じく60年代から活動するミュージシャンであり、チカーノ・ロックの研究家でもあるマーク・ゲレロによれば、ハース・マルチネスはイーストLAのガートフィールド高校で彼の先輩だった。そして、ロス・ロボスは後輩に当たるという。2010年に『ティーンエイジ・ハース』というタイトルで日本発売されたCDには、ハースがサム・フィリップ名義で60年代初頭に発表したシングル群が収められている。聞けるのは、いかにもビートルズ襲来前後らしいロックンロールやボブ・ディラン風のフォーク弾き語りだが、メジャー・セヴンスを使ったコード進行などには、すでに後年のハースに連なる感覚も見出せる。

 それらのシングルは、ハース自身が設立したインフィナイト・レコードから発売された。1945年生まれのハースは14歳にしてミュージシャン・ユニオンに加入し、十代後半には自分でレーベルを持ち、プロデュースした他のアーティストまでリリースしていたのだ。レコーディングはワウワウ・ペダルの発明者で、初期のマザーズ・オブ・インヴェンションのギタリストだったことでも知られるデル・キャッシャーのスタジオで行っていたという。

 60年代に最も成功したチカーノ・ロックのバンド、ミッドナイターズの1965年のシングル「EVIL LOVE」は、ハースの書いた曲を取り上げたものだった。ハースはダンサーやコメディアンとともに、ラス・ヴェガスのホテルでラウンジ・ショーを制作したり、ピアニスト、ギタリストとして、様々なセッション活動をしたりして、ミュージシャンとして身を立てていた。レイ・チャールズ、ジョー・パスなどのビッグネームとの仕事もあったようだ。

 しかし、そうしたハースの経歴を一切隠した形で、ワーナーは『ハース・フロム・アース』を発売した。それはチカーノ・ミュージシャンとしての長い経歴が、マイナス・イメージになるという判断があったからだろう。ボブ・ディランが発見し、ロビー・ロバートソンが手掛けるシンガー・ソングライターの新星として、ハース・マルチネスは売り出されねばならなかったのだ。

 兵役で音楽活動を中断したハースは、レーベルをたたみ、曲を書き溜めていた。そして、ある日、LA郊外の楽器店、ノーマンズ・レア・ギターで、ボブ・ディランにテープを手渡すチャンスを掴む。ハースが家に帰ると、ロビー・ロバートソンから電話がかかってきた。テープを聞いたディランはハースの書く曲に驚き、すぐにロバートソンにそれを聞かせたのだ。

 ディランとロバートソンのお墨付きが付いた新人のデビュー・アルバムに、ワーナーが法外な予算を拠出したのは想像に難くない。『ハース・フロム・アース』のレコーディングがどれほどゴージャスなものだったかは、クレジットからも窺える。

 スタジオはサンタ・モニカのヴィレッジ・レコーダーとマリブのシャングリラ。ヴィレッジ・レコーダーは1970年代にスティーリー・ダンが拠点としたスタジオで、1974年にはボブ・ディランとザ・バンドがアルバム『プラネット・ウェイヴズ』をレコーディングしている。シャングリラはその『プラネット・ウェイヴズ』を手掛けたエンジニアのロブ・フラボーニが独立して、建設したスタジオで、『ハース・フロム・アース』もフラボーニがエンジニアを担当した。

 シャングリラでは1975年にザ・バンドが『ノーザン・ライツ・サザン・クロス』をレコーディングしているが、『ハース・フロム・ハース』はそれより早い時期のスタジオの最初の録音の一つと思われる。だが、ロビー・ロバートソンは『ハース・フロム・ハース』にガース・ハドソン以外のザ・バンドのメンバーを起用しなかった。ハースの曲はロック・ミュージシャンがバックアップするよりも、もっと洗練されたプロダクションを施すべきと考えたのだろう。それはディスコやフュージョンが注目を集め始めた1975年に、彼がプロデューサーとして成功させたいプロジェクトでもあったはずだ。

 そのために起用されたアルバムの第二のプロデューサーとも言えるミュージシャンがいる。コンポーザー/アレンジャーのラリー・ファロンだ。ファロンはホーンとストリングスのアレンジを担当。ニューヨークでポップス、ジャズ、R&Bなどを幅広く手掛けてきたファロンとロビー・ロバートソンがどこで繫がったのか分からないが、ヴァン・モリソンの『アストラル・ウィークス』のアレンジを聞いて、ロバートソンが依頼したのかもしれない。

 冒頭の「アローン・トゥギャザー」や3曲目の「ジンジ」に聞ける宇宙的なシンセサイザーもファロンによるものだが、そのプログラミングにファロンはニューヨークからロバート・マゴーレフとマルコム・セシルを呼んでいる。1973年のスティーヴィー・ワンダーのアルバム『インナーヴィジョンズ』で脚光を浴びたチームだ。彼らは壁のようなモジュラー・シンセサイザー・システムを持ち込んだに違いない。

 アルバムのリズム・セクションは二組。ラス・カンケル&ボブ・バウチャー、スパイダー・ウェブ・ライス&チャック・レイニーだ。前者はロビー・ロバートソンが手掛けたニール・ダイアモンドのアルバム『ビューティフル・ノイズ』にも起用されているが、後者はラリー・ファロン人脈だろう。スパイダー・ウェブ・ライスはキング・カーティスのバンド出身のR&B〜ジャズ系のドラマーで、ラリー・ファロンが手掛けた1972年のラベルのアルバム『ムーン・シャドウ』でもチャック・レイニーとコンビを組んでいる。

 ファンキーな「ジンジ」や「ザッツ・ザ・ウェイ」といった曲がそのスパイダー・ウェブ・ライス&チャック・レイニー組なのは間違いない。そこでのチャック・レイニーのプレイは彼の歴代名演の中でも特筆すべきものだ。その強靭なリズム・セクションの上では、総勢40人にも及ぶホーン&ストリングスがうねっている。こうした大編成のレコーディングはラリー・ファロンの監督のもと、ヴィレッジ・レコーダーで行われたものと思われる。

 ロブ・フラボーニは土臭いロック・サウンドのイメージが強いエンジニアだが、少年時代からフィル・スペクターが拠点としたLAのゴールドスター・スタジオに出入り。その後、ニューヨークのレコード・プラントでアシスタント修行しているから、精密なオーケストレーション録音もお手の元だった。かくして、西から東からプロフェッショナル達が集まり、その誰もが経験したことがないようなレコーディングが進められたのではないだろうか。

 ロビー・ロバートソンはアルバム制作にあたり、300曲にも及ぶハースの曲の中からベストのものを選び出したという。ハースが最も敬愛していたのはボブ・ディランで、他にはハリー・ニルソンなどにも影響を受けたというが、音楽的にはハースははるかにワイドレンジでもあった。『ハース・フロム・アース』にはブルーズ、ジャズ、ラテン、フォーク、カントリー、さらにはブラジル音楽の要素も覗かせる多彩な曲が並び、ハースのヴォーカルもクリス・モンテスのようなソフトな歌声からドクター・ジョンのようなダミ声まで七変化する。その幅広さは彼が十代の頃からあらゆる音楽を仕事とするセッションマンだったことに由来するのかもしれない。

 そんなハースの曲に、ロビー・ロバートソンとラリー・ファロンが知恵を絞り、贅を尽くしたサウンドを付け加えた。そして、過去に例を見ない、未来的なシンガー・ソングライターのアルバムが完成した。しかし、発表された『ハース・フロム・アース』に対する反応は、恐ろしいほどに静かだった。ハース本人以上にそのことに失望したのは、巨額をかけたプロジェクトの責任を負うロビー・ロバートソンではなかっただろうか。彼の新しい領域への挑戦は、完全に失敗したのだ。

 ハースはもう一枚、アルバムを制作する契約をワーナーと残していたようで、1977年にジョン・サイモンのプロデュースによる『ビッグ・ブライト・ストリート』を発表する。だが、やはり何も起らなかった。1984年に僕がヴェニス・ビーチでハースを発見した時、彼は7年ぶりに人前で歌うと言っていたから、セカンドの発売後、失意から音楽活動を続けられなくなっていたのだろう。

 ハースがアメリカで売れなかった理由は、彼の歌があまりにも孤独で、夢想的で、楽観と悲観の間を揺れ動くばかりの敗北者的なものに映ったからかもしれない。ボブ・ディランはそこに自分にはないものを見て、惹かれたのだろうが、メディアも一般のオーディエンスも付いては来なかった。

 売れないレコードの後を追う者は、誰もいない。ロビー・ロバートソンとラリー・ファロンが組むことも二度となかった。『ハース・フロム・アース』の音楽は、ハース自身にとっても、二度と手が届かないものだった。しかし、それは最初から運命付けられていたことのようにも思われる。『ハース・フロム・アース』は常識ではあり得ない、インポッシブル・サウンドをめざしたプロジェクトだったのだ。だからこそ、それは発表後40年が過ぎても、まだまだ新しいリスナーとの出会いを待っている未来の音楽のようにも感じられるのだろう。

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