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「メリットがない」ということの強さ

『投資するお金と時間に、見合わないんだよなあ...』

行きたくない飲み会やご飯の誘いを『ごめん!その日は予定が合わない!』と断るときの、一昔前のぼくの心のなかだ。

ただこの前、めちゃくちゃ優秀な友人とふたりで飲んでいるときに、「なんでこの前の飲み会に来なかったの?」と聞いたら同じ言葉が返ってきて、一瞬なにかを言おうと思ったけど、その友人の気持ちも痛いほどわかるので『なるほどね〜』としか言えなかった。

こういう考え方の人、少なくないと思う。

というか、ぼくだって前よりは少なくなったというだけで、そういう思考回路でものごとを判断する機会は、いまでももちろんある。

そこになにかしらの(金銭的・情報的な)メリットはあるのか』という観点で判断する引き出しは、誰だって持っているはず。

ただ、ぼく自身はそういう基準でものごとを見る回数が、ここ半年〜1年くらいで漸減している。

きっかけとしては、去年1年間インターンをしたのと、それから地元の兵庫に帰ってきたことが大きい。


東京で「人脈作り」に奔走していた日々

インターンをするために東京に住んでいたとき、めちゃくちゃいろんなセミナーやトークイベントに参加した。

関西に帰ってきてから実感するけど、東京はそういう場がめちゃくちゃ多い。

そういう場に来る人の目的は、もちろんそのセミナーやトークで話される『内容』もあるんだけど、それとは別で『人脈作り』というのも兼ねている。

そこに集まっている人たちは『セミナーやトークのテーマ』というフィルタリングがかかっているので、同じ業種だったり、同じような価値観だったりすることが多い。

それで、だいたいそういうイベントの最後にはちょっとした懇親会があるので、そこでお互いに名刺を交換する。

ただこの名刺交換の9割8分くらいは、後に続かない。

ぼくの場合にだけ限定して言えば、その理由は『ぼくが相手に提供できるメリットがない』からだ。

なにかしらの突出したスキルがあるわけでもないし、誰かとのパイプを持っているわけでもない。

また機会があればご飯行きましょう!と言ったところで、じゃあ実際会ったときに何話す!?となってしまう。

当時交換した名刺は、もう全部捨ててしまった。


めっちゃ話したのに、なんも話してない飲み会

1年間の休学期間を終えて、去年の9月、ぼくは兵庫に帰ってきた。

東京に行く前は台湾に半年間留学していたから、地元に腰を据えて生活をするのは、1年半ぶりくらいだった。

『ごめん!いま兵庫におらへんねん!』と断っていたご飯や飲み会の誘いを、久しぶりに『行ける!』と返信できる日々を送っている。

一旦東京での『メリットが命、無駄は死』みたいな暮らしを経た後に、地元の友だちとご飯を食べながら思ったのは『誘う・誘われるに理由のいらない関係性の貴重さ』だった。

ぼくが東京のイベントでFacebookを交換した人に、いきなり『ご飯行きませんか?』とメッセージを送れば、その末路はだいたいは未読無視か、奇跡的に日程が決まってもドタキャンが関の山。

ただ、地元に帰ってきていきなり『ご飯行こう』と誘ってもらって『OK!』と返す自分がいるし、また逆に『ご飯行こう』の5文字だけで『OK!』の承諾をもらえる自分もいる。

そして実際に会ったところで、毎回将来や哲学、世の中の情勢についての熱い話をするわけじゃない。

もちろんそういうときもあるけど、なんかいろいろ話していっぱい笑ったことだけは覚えているものの、なにを話したかは全く覚えてないときだってたくさんある。

そういう飲み会は、1年前のぼくなら完全に『ごめん!その日は予定が合わない!』案件だったけど、いまはその曖昧な記憶がものすごい多幸感に変換される程度には、柔軟な思考回路になってきた。


いま『コミュニティ』が流行っている背景

そういう意味では、いま何かと批判の多い『学校』も、『損得のない関係を作る場』としてなかなか貴重だなと思う。

学生時代にぼくたちが一緒にいたいと思う人の要素は、『一緒にいて落ち着く』とか『話が面白い』とか『かっこいい・かわいい』とか、一見お金の匂いがしづらいものばかりだ。

それは、学校の主目的は『交流(人脈作り)』ではなく『勉強』なので、一緒にお弁当を食べたい人がビジネス的な損得ではなく、単純な好き嫌いによって左右されるというのが理由としてある。

あと、中学や高校時代のぼくたちは、メリットとか損得とかいう前に、そもそも(金銭的・情報的な観点からだと)何もできないというのもある。

(ちなみにアメリカのMBAスクールや大学のなかには、学校という箱で『交流』をメインの価値として提供するために、『優秀な人』と『お金持ち』を両方入学させるところもあるらしい。両者が将来、『起業家』と『投資家』というビジネスパートナーになるために)

『学校』というたまり場は、たまたま近所に住んでいて、たまたま同じような試験の点数だったというだけのガバガバなフィルタリングだけれども、さすがに3年間も同じ時間を過ごすと、『信頼感』は沸かざるを得ない。

そしてその信頼感が、『誘う・誘われるに理由のいらない関係性』へとつながっていく。

ただ、このままだと『ということで幼きころの友だちを大事にしよう!』という、なんとも可塑性の低い話になりかねない。

このブログを読んでくれてるのは、たぶん大半がモラトリアムの終焉を目前に控えた大学4年生と、社会人だからだ。

『いまさらそんなこと言われたって、どうすればいいんだよ!』である。

ということで、『オンラインサロン』だ。

結局、『コミュニティ』のバズワード化は『いまさらそんなこと言われたって、どうすればいいんだよ!』の叫びから生まれている。

ぼくも去年1年間働いてみて実感したけど、社会に出ると新しい『友だち(金銭的・情報的に損得関係のない人)』が本当にできない。

いや、『できない』というと語弊があって、これに関してはぼくの出不精が大いに関係してしまっている。

正確に言うと『意識しないとできない』だ。

それは最初に言ったように、社会人になるとどうしても目先の金銭的・情報的なメリットを求めがちだし(それはそれで大事!)、あと目の前のタスクに忙殺されて、単純に友だちづくりの優先順位が下がる。

ただ、それだとなんか寂しいよねっていうところで、出てきたのが『オンラインサロン』であり『コミュニティ』のバズワード化なんだと思う。


生きてるだけで丸儲け

もちろん、学生時代の友だちとなにか一緒に仕事ができたら、それはそれで最高だし、オンラインサロンのなかには『(ビジネス的な)成果』をKGI的に置いてるところもある。

ビジネスの起点を『人』にするのか『事業』にするのか、それは人それぞれで正解はない。(この人と一緒になんかやりたい!か、こんなことをやりたいんだけど、誰かいい人いる?か)

と、ここまでの今日の話は、最近ぼくがボンヤリと思っていることを書いたので、書けば書くほど文章としてのまとまりを失ってしまった...

長々といろいろ書いたけれど、最近とりあえずぼくが思っていることは、別にその飲み会での時間が将来的に1円にもならなくたって、近況報告や面白かった映画やドラマの話しかしなくたって、めっちゃ喉ガラガラなのに何を話したのかすらもう覚えていなくたって、『誰かと過ごして一緒に笑ったという時間と記憶』は、人生においてプライスレスな幸福だなということ。


▼東京でのほろ苦い『イベントで知り合った人となんもなかった』話は、こっちでも詳しく書いてるのでぜひ読んでください!


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