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責任は「取る」ものでなく「果たす」もの

はたして監督がクビになることで、責任を取ることになるのだろうか?
という思いもある。
自分が辞めたくらいで、きっと責任は取れない。
取れるわけがない。
(『稚心を去る』より)


日ハム・栗山監督が著者の『稚心を去る』を読みました。


きょうはその感想、最終回です。

第1回:「目先の結果」と「未来への投資」、大事なのはどちらか?
第2回:「人生のターニングポイント」なんて存在しない
第3回:「セオリー」の使い方


『責任を取って辞めます』という発言は、日々いろんなところで聞きますよね。

首相(最近はないか)、社長、そして監督。


その人がトップとして組織なりチームなりを指揮したものの、思うような結果が出なかったので、『責任を取って』辞めるという行為です。

あとは、トップ自身が辞めなくても、なにか不祥事などが起きたときに、周囲が『責任を取って』辞めろ!という声もよくあがります。

最近だと、吉本のゴタゴタがあったときに、大崎会長や岡本社長の辞任を求める声が、よくあがっていましたよね。


ただ、まえから思っていたんですが、『辞める』って、その人にとって楽な選択肢っていう側面もあります。

ぼくが成績不振のためにトップの座を辞任したという経験がないので(=そもそもそんなに人様の上に立っていないので)、あくまでも想像の範囲内ですが。


一番苦しいのは、トップとして率いているチームなり組織なりの結果が出ていないときです。

一番大変なのは、トップとして率いているチームなり組織なりが、結果を出すことです。

『辞める』という選択肢は、そのどちらでもありません。

辞めてしまえば、もうその成績不振のことについて考えなくよくなります。

自分のあとにトップになった人が、必ず結果を出すとも限りません。


本当にそのチームのことを考えたときに、自分が退いたほうが絶対に最善だと心の底から思っているなら辞任したほうがいいですが、もしそこに少しでも『投げ出したい!』や『本当はまだまだできるのに!』という気持ちがあるのなら、辞めるという判断は『逃げ』という見方もあります。


だからぼくは、栗山監督の下記の考え方のほうが健全だと思いました。

『辞める』という行為自体が、絶対的に良いとか悪いとかどちらかっていうことはないです。

大事なのは、その決断に至るまでの思考のプロセスだなと。

だから、そんなへこたれている場合じゃないのだ。
「今度は必ずやってやる」と思えば、また頑張れるし。
責任は「取る」ものではなく「果たす」もの。
「果たす」ことが、指揮官の責任だ。



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