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インバウンドマーケティングは善なのか?

『ほぼ日』で毎日文章を書き続けている糸井さんが、20年で初めてその原稿を書かないまま寝てしまったらしい。

そのことについて、これまた週日は毎日noteを書いている古賀さんが、今日のnoteで取り上げていた。

そのなかで、最近ぼくが考えていることについて、とてもヒントになる文章があった。

フリーになってからの数年間、若いころのぼくは「一度も営業したことがない自分」を、どこか誇りのように思っていた。(中略)
けれどもそれは「頼まれ仕事」ばかりに時間を取られているということでもあり、少しずつ磨耗する自分を実感するようになった。(中略)
頼まれ仕事が殺到するフリーランスは、早い話が「便利に使われている」だけなのだ。

ぼくの肌感では、昨今は非常に「インバウンドマーケティング=完全に善」という風潮を感じる。

つまり、電話やメール、飛び込みなどを通じてこちら側から相手に仕事をもちかけるの(アウトバウンド)ではなくて、逆に向こうから仕事を提案してもらえる状態(インバウンド)が理想的ということだ。

この意見自体に、異論はない。むしろぼくだって、アウトバウンドよりもインバウンドのほうが、仕事の仕方として美しいと感じている。

ただ、そこで思考を止めて「インバウンドマーケティング=完全に善」とするのも、なんか違うなというふうに思っていて、最近そのあたりについて考えていたのだ。

そんな折、数日前のこれまた糸井さんのインタビューが、ぼくのなかでは響いた。

依頼があれば一晩寝て、僕がその相手から言われたのと同じ言葉で「一緒にやろうぜ」と言えると思えれば、引き受けようと決めたんです。

『糸井重里「なぜ、未来がそんなに不安なの?」』より

糸井さんは、おそらく毎日とんでもない数の仕事の依頼がきているはず。

言うなれば、インバウンドマーケティングの最高峰のようなひとだ。

そんな境地まで達したからこそ出てきた上記の言葉なのだろうけど、インバウンドマーケティング=完全に善とうのは、やはり改めたほうがいい。

大前提として、インバウンドを基本とした仕事の仕方は理想的だ。というか、理想的かどうかは置いておいて、インバウンドのない仕事は、そのひと自身の仕事の質を見直す必要がある。

ただ、そこから単に相対的に好みのひとや企業を選ぶ作業だけ繰り返してると、中長期的には「消耗」しか待っていない。

これってやっぱり、「相手に頼まれたから」という理由が起点となって仕事をしていると、その時点で「お互いそのひとと仕事をしたい度」が、相対的に頼まれた側のほうが低くなってしまう。その仕事に対するインセンティブが、相対的に低くなってしまう。そして、その仕事に対する責任が、究極のところでは持ちづらくなってしまう。

そして、「頼まれ仕事」には、必ず「締切」がアンハッピーセットでつきまとう。

これは、「他人の時間を生きている」ということの証左にほかならないし、このことが結果的に古賀さんのいう「摩耗」を生んでしまう。

だからじゃあどうすればいいのかというと、やっぱり糸井さんの言うように、「仮に頼まれなかったとしても、そのひとと一緒に仕事をしたいか」ということを突き詰めて考える必要がある。

そうすれば、「締切」があるからその仕事をしようではなく、その仕事をしたいから、というインセンティブで、その仕事に取り組むことになる。

そして、仕事の質、責任についても、究極のところで「頼まれたから」という逃げ道の頼ることがなくなり、とことん最後までこだわれる。

インバウンドマーケティングは、基本的に美しい。

特に、これから「広告」がプロダクトそのものに組み込まれていく時代において、その重要性はさらに増す。

だけれでも、そこから受け身で選ぶ作業を繰り返しているだけだと、そこに待っているのは「消耗」だけ。

最初のきっかけはインバウンドでも構わない。けれでも最後の決め手になるのは、「このひとと仕事したい!」という、アウトバウンドな気持ちだ。


明日は、さらに議論を進めよう👇


★Twitterにサマリー→noteに詳細の流れもやっと違和感なくなってきた


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