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「いいものは勝手に広まる」のを待っていたら、その前に人生が終わってしまう

『泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない』

これはボスニアという国に伝わる、ことわざのひとつだそうです。

今回読んだドキュメント 戦争広告代理店は、1990年代に起こったボスニアとセルビアによる民族紛争の舞台裏を描いたものです。

全部で400ページ以上あるし、1文字が小さいし、というかそもそもぼくこの紛争に関する事前知識がゼロだったんですが、面白かったのでまったく苦になりませんでした。

結果から言うと、ボスニアが勝ちます。

ただ、それはボスニア政府に支援を依頼された、とあるPR会社が暗躍していたからです。

本中では、どうにかしてボスニアを有利な局面に持っていこうとする、そのPR会社のあの手この手の戦略・戦術が詳細に記されています。


「本丸」ではなく、あえて「外堀」から攻めていく

その一連のPR会社は、ボスニア政府との契約終了後、全米PR協会の年間最優秀PR賞に応募しました。

結果、この一連のPR活動は『危機管理コミュニケーション』部門で最高位のシルヴァー・アンビル賞を受賞しています。

つまり、このPR会社はめちゃくちゃすごいPR会社なわけですが、本を読んでぼくが彼らに抱いた印象は『ものすごく外堀から固めていくなあ』ということでした。

今回のボスニアとセルビアの紛争におけるポイントは、『どっちがアメリカを味方につけるか』と言っても過言じゃありませんでした。

1990年代当時、アメリカは国際政治においていま以上に圧倒的なパワーを持っていて、『世界の警察』との異名がついていたほどです。

そして、そのアメリカでひときわ大きな権力を持っているのが、言わずもがな大統領です。

つまり、大統領に『こっちが正しいと言ってもらうこと=世界から正しいとお墨付きをもらった』ということになります。

なので、両国とも必死にアメリカへ『自分たちが正しいんだ!』とアピールするのです。

ただアメリカ大統領の元には、そういった陳情がボスニアやセルビアに限らす、毎日世界中から大量にやってきます。

そんななかで他の国や業界団体と同じようにお願いしても、アメリカ大統領には無視されるだけです。

そこで、PR会社はまず『野党』に照準を定めます。

野党は、国会で大統領や与党を攻める材料を常に探しています。

そこでPR会社は野党に対して『アメリカの大統領は、人権侵害のある紛争が行われているのにそれを見過ごしている』という情報を流します。

そうすると野党側から大統領や与党に向けて『あなたたちはモタモタしているけど、私たちはしっかりと対応していく。そんな私たちのほうが与党にふさわしんじゃないの!』というメッセージが発せられるのです。

そんなことを言われたら、大統領もなにかしらのアクションを起こさないといけません。

PR会社は、そういった野党からの”圧”を起点に、大統領に記者会見でボスニアのことを触れてもらったり、ボスニア政府との会談に応じてもらうように仕掛けます。

最終的にアタックしたい『本丸』ではなく、まずは本丸が出てこざるを得ないように『外堀』から攻めていく戦術は、さすがだなと思いました。


メディアに報道「させる」のではなく、メディアが報道「したく」なるように

PR会社の大事な役割のひとつは『自分たちのイメージする姿で、メディアに取り上げてもらうこと』です。

ただ、メディアにそのまま『こんな風に取り上げてくれ』とお願いしても、そんな要望は聞き入れてもらえません。

メディア側にも、メディアとしての矜持があるからです。

メディアは基本的にPR会社からの連絡を警戒していると、本中でも書かれていました。

ただ、結果的にメディアはこの紛争を大きく取り上げ、かつそのほとんどがボスニア支持の論調で報道されることになります。

なぜか。

そこには、PR会社の様々なテクニックがありました。

たくさんあるんですが、印象に残っているのものをいくつか挙げると、まずは『単独インタビュー』です。

常にメディアは、頭の片隅に『他社を出し抜くこと』を考えています。

そんな状況で、PR会社から『あなたのメディアに、ぜひとも単独インタビューをしてほしいのですが』と言われれば、悪い気はしません。

同じ話を、例えどのメディアにも持ちかけていたとしても。

あとは記者会見をするたび、ボスニア政府に新しい声明を発表させました。

たとえ新しい情報がなにもなくても、『声明』というパッケージをしてあげれば、会見に集まった記者たちも記事が書きやすくなるからです。

もちろん、こういった細かいテクニックが効力を発揮するには、PR会社からメディアへの『小さな努力』の積み重ねがあってこそです。

たとえば、PR会社は毎回、ボスニア政府の人と会見をしてくれたジャーナリストに、お礼の手紙を書いていました。

また、各メディアには毎日朝と夜の2回、紛争に関する細かい情報が1枚の紙にまとめられてファックスで送られていました。

そのファックスの大半は、読まれずに捨てられるものかもしれません。

けど万が一、そのメディアがボスニアや紛争に興味を持ったとき、すぐに取材して記事を書けるように、そのファックスは送り続ける必要があったのです。

こういった小さな積み重ねと高等なテクニックのおかげで、紛争を取り上げた記者はみな、本中では異口同音に『私はボスニア紛争を取り上げる価値があると思ったから記事に書いた。そして、ボス二アが正しいと自分の頭で判断したから、ボスニア支持の論調で書いた』と述べています。

メディアに報道させるのではなく、いかにメディアが自分の意志で報道したいと思ってもらえるようにするか。

PR会社の大事な能力のひとつです。


メディアとPR会社の「共犯」

ここまでは『メディア』と『PR会社』が、ある一定以上の距離感がある前提での話でした。

ただその一方で、両者は『共犯』の側面もあります。

『世の中に話題を提供したい!』という根本の動機は、同じだからです。

たとえば、世界の支持がボスニアへ大きく傾いたひとつのきっかけとして、『強制収容所”っぽい”ものをセルビアが持っている』という報道がありました。

ただ、実際にそれがあったのかどうかはいまでも闇のなかで、その写真がたまたますごい残酷そうに見える角度で撮られていただけという可能性も、本中では示唆されています。

たしかに、PR会社は毎日メディアへ情報を送り続けていました。

しかし、実際に現地へ赴いて取材に行き、最終的に記事を書いたのは各メディアの意志によるものです。

PR会社は『セルビアが強制収容所を持っている』という報道に対して、肯定も否定もしません。

しかし、ただの『捕虜を捉えておく場所』と『強制収容所』では、世間でのイメージがまったく違います。

『強制収容所』という言葉は、ドイツのホロコーストを想起させるからです。

これは世界、特にドイツにとっての消し難い過去として深く根付いているので、報道が出たときのインパクトがすごく大きくなります。

また、こっちの例は確信犯の要素が大きいんですが、途中、PR会社の戦術のひとつとしてとある『キャッチコピー』を徹底的に流しました。

それは『民族浄化(ethnic cleansing)』なんですが、これも明らかにドイツのホロコーストを彷彿とさせます。

そしてメディア側も記事の見出しで、毎度のように『民族浄化(ethnic cleansing)』を使います。

これもそうしたほうが、読者が記事を読んでくれやすくなるからです。

そして、こうしてボスニア支持の世論が世界中で出てくると、メディア側も一気にその方向へと傾きます。

『様々な歴史的経緯を踏まえた、複雑怪奇な民族紛争』よりも『ボスニア=正義、セルビア=悪者』という二項対立という報道の仕方のほうが、読者は理解しやすいのです。

『世の中に話題を提供したい!』という両者の思惑が、どんどん現実世界の複雑な状況を、簡素に、過激にしていくこともあります。

『メディア』と『PR会社』との間には、そういった暗黙の『共犯関係』もあるのです。


カメラや記事の外にまで意識をやると、国際政治も面白くなってくる

ぼく、政治への興味は2年前くらいがピークで、当時は本気で国家公務員や政治家というキャリアについて考えてたんですが、いまではすっかりその興味も失せてしまいました。

『失望』が主な要因だったんですが、この本を読んでまた政治、特に国際政治に興味が沸いてきました。

国際政治を『世界最高峰のPR合戦』だと捉えれば、めちゃくちゃ面白いなと。(不謹慎だったらすいません!)

ぼくが普段記事を読むことの多いスタートアップ、ベンチャー界隈でも、『PR』の重要性は日々語られていますが、国際政治でのそれは、文字通り『生きるか死ぬか』が懸かっているので本気度が違います。

その一言、そのひとつの判断で、本当に自国民の生活、ひいては世界が動くので、ビジネスの現場とは緊張感がケタ違いのはずです。

本中でも、PR会社の人がボスニア政府の人に対して、顔の表情から口調まで、ひとつひとつ丁寧にレクチャーしている記述がありました。

あとそれだけでなく、会談の際にはどこの出口から出れば、メディアではこんな映り方になるという計算をしていたとまで書いてあって、衝撃でした。

ニュースを見るときは、記事やカメラの外側まで意識を向けろ、書かれていないこと、映っていないことに注意を向けろとZOZOの田端さんがインタビューでよく言ってたんですが、やっとその意味がわかってきました。

ニュースでも政治の話が出てきたら耳を傾けるようになりましたし、これからはもう少し積極的に政治の情報もとっていこうと思います。


いいものは「勝手には」広まらない

最初にも言ったように、この紛争は結局『ボスニア=正義、セルビア=悪者』という図式になり、セルビア側(正確にはユーゴスラビア連邦)の国連追放という形で、幕を閉じます。

ただこの本の著者である高木さんは、この紛争に対して極めて中立的な立場を取っていて、本中でもどちらかの善悪について明言していません。

また、ぼく自身も生まれが1997年で、当時の報道のされ方がどうだったのかがわかりません。

ただ、本中の記述のみに頼るという注釈つきですが、ぼくの印象は『両方に落ち度がある』です。

両方ともお互いに攻撃し、攻撃されていました。

それでも世界が『ボスニア=善、セルビア=悪』という流れになったのは、ボスニア側がPR会社を使ったからです。

ここからぼくたちが学ぶべきことはなにか。

それは情報の『受け手』と『発信者』、両方の観点からあると思います。

まずは『受け手』として。

意識すべきは、その情報には常に『意図』があるということです。

すこし上のところでも書きましたが、ぼくたちはその情報の多くを新聞やスマホ、テレビといった『メディア』を通して摂取しています。

ただそのニュースの外側には、報じられていないたくさんの『意図』があります。

常にその『意図』を想像しながら情報に接することが、ぼくたちが情報に踊らされないために大事な心構えかなと思います。

そして『発信者』として。

それは『いいものは勝手に広まる』神話からの脱却です。

これに関してはもう自戒の念しかないのですが、今回の話が示す通り『真実はいずれわかる』と期待していたら、その『いずれ』が来る前に人生が終わってしまいます。

仮にボスニアとセルビア、両方に落ち度があったとします。

真実がそういった善悪のグラデーションのさなかにあるとき、それがボスニア側に振り切れたのは『PR力』の差でした。

ぼくたちの生活にも置き換えてみます。

日本は昔からものづくりの国として『いいものは勝手に広まる』神話が根強いと言われ、最近は特にSNSのおかげでさらに発見性が高まっていると言われます。

でも逆にSNSという『民主化されたメディア』が出てきたからこそ、同じような実力、同じような魅力の人、企業があったとき、そのツールをうまく活用して自分のメッセージを発信できる人の声のほうが、大きくなるのです。

静かに爪を研いでいる『同じくらいの実力』だったはずの人は、待っているだけではどんどん埋もれていってしまいます...。

『実力さえ磨いていればいずれ誰かに見つけてもらえる』『発信力だけあっても実力がなければそんなの欺瞞だ』ではなく、『実力』は大前提としてそれを『発信』していく必要が、ぼくたちにはあります。

『実力』と『発信力』は、『信用』という自転車の両輪としてどっちも回し続けることが大事です。

『泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない』。

ぼくがこの本を通して、改めて痛感したことでした。


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