練習は人を、裏切ります

クラシックギターの名曲で「アルハンブラの思い出」という曲がある。

親指でアルペジオをしつつ、薬指・中指・人差し指でトレモロ奏法を行うというトリッキーな楽曲だ。
右手1本で全く別の2つのことを同時に行う。

福永がこの楽曲に出会ったのは…SNSなんかを遡るにおそらく2016年。

当時、元・栗コーダーカルテットの近藤研二さんのギターソロアルバムを端から耳コピして弾きまくるというのにハマっていた。
その中に、どう考えてもこれ1本のギターで弾けないだろ…という音が収録されていたのである。
アルペジオと同時にトレモロが鳴っている。2小節だけ。
…えーここだけダビング録音したんじゃないの?

真相を探るべく近藤研二さんのライブに伺った。
すると…確かに1本のギターでアルペジオとトレモロが同時に鳴っている…!ライブだからこれはもう、逃れようのない事実である。

しかしながら、右手をガン見していたにも関わらず、何が起きているのかよくわからなかった。魔法?
なにせ3拍子の2小節だけだから。BPMもゆったりな曲ではない。
一瞬で終了してしまった。

というわけで近藤さん本人に直接聞きに行った。
あれは何が起きてるんですか?魔法ですか?

するとクラシックギターにトレモロ奏法というものがあるのだと教えてくれた。
なんならその場で実演してくれて、ちょっとやってみ、と指導までしてくれた。
その時にトレモロ奏法に興味があるなら、と教えてくれたのが上記「アルハンブラの思い出」という曲である。
クラシックギターの中でトレモロ代表、という位置付けの曲。
作曲したフランシスコ・タレガさんは頭がおかしいと思います。
もしもまだご存命な世界線があったなら、サシ飲みしたい。
というのもタレガ曲はことごとく好きな曲ばかりで。

以降もこの曲のここがどう考えても不可能なんですが〜と質問したり、果ては近藤さん宅にお邪魔させていただいて、モイちゃん(猫)とぶち遊んだことまであった。どっちが猫かわからないはしゃぎっぷりを披露した。(その頃はまだウニちゃんはいなかった)
近藤さんの個人スタジオを見せてもらったりもした。
その「ああいう感じだった」という記憶は数年後の防音室作りにも役立った。
…こうして改めて書き並べてみると、若気って恐ろしいですね。26歳の福永は礼節をしらんのか、と思います。
その節は大変失礼しました。そしてすっごくお世話になりました。

クラシックギターにハマり出したのがまさにその機会で、以来ずっとクラシックなフレーバーに敏感なアンテナを持っている、つまりそういう楽曲が大好きだ。これは個人ギター史における転換点であった。

そういうわけで福永は近藤さんのことを「ギターの師匠」と勝手に呼んでいる。ご本人は多分、飄々とした感じで嫌がると思いますけども、身勝手ながら、その認識を改める予定は今後とも全くない、です。




以来、7年間。
寡多はあれほぼ毎日「アルハンブラの思い出」を練習してきた。

当時の小学1年生が今ではもう中学2年生になるとおもうとなんだか空恐ろしい気持ちになるが、今を持って福永はアルハンブラ〜をまともに弾けない。

なんならこのところ、練習すればするほど日増しに下手になっていく、という実感があった。

そしてついに、というか、先日。
右手の薬指と中指が「全く動かない」という症状が出た。
何か違和感がある、動きづらいと思いながら練習をしていたのだが、ある瞬間、突然、指がピタっと止まって全く動かなくなってしまったのだ。

ええー…

他の曲は普通に弾けるのである。
アルハンブラを弾こうとした時だけ、薬指と中指だけが全く動かなくなるのだ。

7年ですからね。莫大な時間を棒に振ったのではないかと焦った福永はグーグル先生に勢いよく文字を打ち込んでは、半ば検索窓に投げつける。

スランプ 科学
スランプ 原理
練習 するほど下手になる
練習 しなくても上手い人
プラトー
オーバーワーク

などなど。

で、いろいろわかったことがある。

簡単に言うと…練習は「裏切る」ものである。
練習は裏切らない、すごいやつはみんな努力をしている、という。
でも、そんなわけない。世の中はそもそも平等ではない。
生まれ持った資質は人それぞれだし、その差分は想像よりも大きい。
「その人にとって上手くなるように練習すれば上手くなる場合もある」という、たったそれだけが事実である。



元を正すならおそらく小学校4年生。
百人一首を3つだったかな、授業中に暗記して、教壇の前で先生に暗唱できた人から休み時間に入れる…だかなんだか、そんなような国語の授業があった。

福永は当時、なんか自分はまわりのクラスメイトに比べて記憶力が悪いな、と感じていた。

その予想は、その日の授業で確信に変わった。

家で覚えてこい、なら、できる。
その分必要な時間を使えば良い。
自分が暗唱できるようになるまでゆっくり繰り返せば良い。

しかしながらその日の授業で、リアルタイムで、自分が百人一首を3つ暗唱するまでの速度が周りと比べて極めて遅いということが明らかになる。

福永の休み時間は他のクラスメイトに大きく遅れをとってスタートしたことを覚えている。

その点について先生に質問をしたことがある。
なにやら福永はまわりのクラスメイトより記憶力が悪い気がするのですが、そしてクラス1勉強ができる佐藤さん(あだ名は「辞書」)はとりわけスポンジのように吸収するように見えるのですが、これはどう考えたら良いと思いますか?

先生の回答は以下である。
人間の脳みそにそんなに差異はない。できるように見える人たちは常日頃から努力をしている。福永も同じように努力をすれば、できるようになるはずだ。もっと頑張りましょう。

小学生なりに不満は残ったが、まあでも世の中そういうものっぽいということで仮に理解をした。

その認識をさらに助長したのは漫画である。
主人公は基本的には敵キャラよりもスペックがショボい場合が多いのだが、修行なり努力なり友情なりで、命からがら、最後には勝利をもぎとる

初めからスペックがあった敵キャラでなく、血も涙も流しながら努力に文字通り心血をそそいだ主人公は、いつだって最後の最後に報われるのだ。

スペックがある人間は慢心に陥りやすく、努力をする心理的ハードルが高い。チャレンジャーの方が努力はしやすいはずだ。

その意味で…先生のいう「人間の脳みそにそんなに差異はない」…正確には、差異はあれど総合して考えればある程度平等にまわっていく。

ここで福永の、だいたいの方針が固まったように思う。
基本スペックが低い分、他者よりも物量をこなす
不器用であることを全面的に受け入れることでチャレンジャーマインドを喚起して、その物量を苦と思わず克服していくことで力を積み上げるタイプ。
そういう人間としてやっていこう、と無意識下に礎を添えたのである。


それから20年以上経ったある日、30代の福永は、福永の部屋で、友人と対戦ゲームをしていた。
そこで目撃してしまったのである。

福永はこのところ約半年、そのゲームにおいて「こんなふうに動けたらもっと強くなれるのに」という課題を設定して、日々練習していた。

そのことを友人に話すと、なるほど、と相槌を打った上で、その動きを福永のゲーム機で練習し始めた。
そして2時間後。彼はその動きを実戦で使いこなせるほど、ほぼ完璧にマスターしていたのである。

半年と2時間。
その効率は…単純にプレイ時間を計算すると180倍。
いや、福永はまだできていないのだから…「少なくとも180倍以上」

…180倍以上習得の早い人間がいる。

そして福永は横で、リアルタイムでそれをみていたのである。
あっという間に福永は「コツを尋ねる生徒側」になったのだが、尋ねても尋ねても、感覚的な回答ばかりで…一般性はなかった。
つまり彼にとっては「その感じでやればできちゃう」「正直説明するのは難しい」のである。コツに普遍性はない、彼だからできるのだ。

そして。
180倍ってのが…2時間だからまだ良いとしても…
単純計算で1年、彼が練習をしたらどうだろう。
福永がそこに追いつこうと思えば、180年以上かかる計算だ。
福永は180年後には亡骸である可能性が極めて高い。

詰み、である。


先ほど「チャレンジャーの方が努力をしやすい」「端からスペックを持つものは慢心しやすい」と書いたが、それは単なる希望的推測というものだろう。

実際確かに、そういう傾向はあることはあると思う。
器用な人、生まれ持ったスペックが高い人はなにしろ、0点→80点の部分が人よりも早くできる。
人よりも早くできると、気持ちが良いものである。褒められるし。
ところが後段。80点→100点の部分は実に面倒な作業である。
これは何かを極めようとしたことがある人ならみんな知っていると思う。
80点→100点の間が、最も時間がかかり、成長を実感しにくいゾーンだ。
器用な人はこのゾーンに身を置くよりも心理的に「他の分野」へ移ろいやすい。
新しいことを始めれば、また0点→80点の過程で他の人よりもスピーディに成長し、褒められて、気持ち良くなれることを知っているからだ。

しかしこれは単なる傾向に過ぎない。
世界は広いし多様である。

中には超ハイスペックに生まれた上に、練習が楽しくってずーっとやっちゃうっす、みたいな人がいーーっぱいいるのだ。

希望的推測と書いたのはそういうことである。

自分は不器用である。
ただただ不器用である、ってだけでは不平等と理不尽を感じていたたまれないので、不器用には不器用なりのメリットがあるはずだと考える。

努力さえすれば自分の不器用さのメリットを最大化できる。
物量で上回れば、慢心した器用な人にいつかは追いつき、追い越せる。

つまり、単に心理的な平穏を保ちたいためのライフハックであった。

器用なのにさらに努力も厭わない人、なんてのがいっぱいいる。
それが現実である。


中学校の頃、クラリネットを練習していた。
吹奏楽部に所属していたのだ。
吹奏楽部は音楽の中でもわりあいクラシカルな思想がしっかりとまかり通っている部分があって、福永は若干パンクスなところがあるので、いただけないなと思う風習も多分に含んでいた。まあ中学生だしね。

まあそれはよいとして。
吹奏楽部では「弾けないフレーズがあったらBPMを半分以下にしてでも正確なフォームで吹く練習をしろ」と指導されていた。
これはクラシック界での練習の基本方針である。
当時「いや歩くのと走るのでフォームも必要な筋肉も違うのに、遅いBPMで吹いたって早いBPMで演奏できるようになるわけないだろ」と思った、というのが福永の感想である。

思ってはいたのだが、中学に上がる頃にはすでに不器用を自覚していたので、先人のいうことを一度は忠実に守るスタンスで練習をしていた。

この練習方法はつまらない。遠回り感がある。
部員もそういう練習をきっちりやるタイプとサボるタイプに分かれていた。
きっちりやったグループが上手で、サボっている人たちはへたくそ、なんてことはなく、結局は個々人のスペック次第というふうに見受けられた。

同じように「フレーズをごく短く区切って繰り返し練習せよ」というものもあった。
これもまたかったるいというか、一息分のフレーズをしっかりと吹き切る方が単純に練習として気持ち良いのだが、クラシックの世界ではそれは是とされないようだった。




高校時代、軽音楽部に入部した。
福永はクラリネットをギターに持ち変え、でもクラシック出身(?)なのでそういう、つまらない地道な練習を繰り返していた

そんな中、周りのギターキッズたちは基礎もくそもなく、いきなりバキバキの早弾きを練習する。
なにしろそっちの方が楽しい
地道な練習はつまらない。
さらには…モテる。早くてかっけえフレーズを弾けた方がモテる。

福永はパンクスなところがあるので、早いフレーズが弾けたからなんやねん、音楽はスポーツじゃねえんだぞ、表現ってのがあるだろう、とかなんとか思ってイライラしていた。まあ高校生だしね。
でも。そんな彼らをみて悔しい気持ちでもあった。モテたい…。

基礎練もしないで、バカバカ曲ばっか弾いて、正直細かいとこは荒いんだけど、それでも学校の他の人はそんな細かいとこは気づかないから、正直モテる。
どんどん褒められる。

クラシックではああいうだるい練習をさせられる、そういう苦難を超える方が偉いと思ってた、けど、事実、曲をバンバン練習した方が上達も早いしモテてんじゃん。
軽音の風土に狼狽しながら福永は吹奏楽と軽音のハイブリットのようなメンタルでもって楽器を練習する人間となる。

ちなみに上記の「クラシックでは〜」の太字の1文が今思うに「練習に裏切られる奴」の特徴をめっちゃくちゃに凝縮した状態になっている。
後述するが、これはめっちゃポイントである。



26歳。アルハンブラの思い出と出会う。
うおーこんなの弾けたら…かっこよすぎる…と涎が出た。

早速練習をしていく。
ゆっくりのBPMで丁寧に確認しつつも(その苦行を乗り越えた方が偉いので)つまらなくなったらそれをやめて(器用な人たちはみんなサボるのが上手なので)曲を流れで弾いて気持ちよくなる。

自分は不器用だからとにかく物量を。Youtubeみながらでも、なにかしながらでも、とにかく指をトレモロの形で動かしまくる。
そしたらいつかは上手くなるでしょう。という寸法。
練習は裏切らない。

一番上で紹介したナルシソ・イエペスの演奏はBPM200くらいである。
美しく、爆速で、表情豊かだ。

とんでもなく荒々しく、そして弱々しい演奏ではあるものの、福永は今年に入ってからBPM180まで上げて練習をしていた。
なんとかそこまで、指が回るようになったのである。
頑張ったなあ。

しかしそのー、全然、魅力的な演奏じゃないのである。

高校当時批判していた、スポーツみたいな早弾き。
それと何が違うんだ?

モノの試しに…BPMを140に落としてみた
すると…全然弾けないのである。140はこれまでに通過してきた、練習してクリアしたモノと思っていたが、久々にBPMを落としたらなんか遅過ぎて弾けなかったのである。

次の日は135に下げてみた。
130、125、120…
練習すればするほど全然弾けなくなった。
どう考えても昨日より下手である。あれー。

BPM100。そして。
ついに、指が全く動かなくなったのである。
BPMでいえば、0。



7年間。
毎日だんだんに積み上げてだんだん上手くなったつもりであった。
しかし、実際には。全然弾けてなかったのである。

幸い、というか、一晩寝たら指はまあぎこちないなりに動くようにはなった。
それじゃあ困るんですけど、もうこれは事実なのでどうしようもない。
動かないよりはまだマシである。

なぜ、練習は福永を「裏切った」のか。

現時点での考察を書いていこうと思う。
端的にいうと、福永がしていたのは練習ではなかったかもしれない、ということである。



努力は実るもの。練習は裏切らない。
成長曲線にはプラトーという停滞期があるので、停滞したのちに急成長する。だから、苦しくても諦めてはいけない。

中学の卒業文集に福永は、本気でやってできないことはない、「できるまでやる」のが本気だから、と書いた。

そう、多分、そういうマインドが小中学校の頃から徐々に蓄積され、となっていたのだ。

よく言えば頑張り屋さん。きちんといえば脳筋バカ

自分は不器用なので、とにかく物量で勝る
180倍以上の習得効率を見せつけられて疑念に浸ることになった、ごく最近まで、これが基本方針であった。

…まず、これが、全然ダメである。

やったらやった分成長するわけではない。

「成長"するように"練習した分」×本人のスペック=成長

である。
いっぱいやりゃあ良いのではなく、努力をすれば良いのでもない。
もちろん苦労を我慢すれば良いのでもない。
「演奏できるように」練習する。

まあ文字にしちゃうとクソ当たり前、ですよね。

器用な人たちをみるに、彼らはサボるタイプが多い
もちろんめっちゃ例外だらけだとは思うんだけど、だるいこと、つかれること、つまんないことをやらず、面白えと思うことに時間をかける。

ここでいう「演奏できるように」というのにはメンタル面のケアも含まれている。
反復練習をすれば、きっといつか上手くなる。
…これは脳死特攻な考え方。裏切るタイプの練習方法だ。
その練習はフレッシュか、飽きて鈍化してないか、楽しいか、刺激的か。
今は何が課題で、どうしたらクリアできそうか。
常々考え、工夫を凝らさないと意味がない。

とある実験において。
1m先にボールを投げ入れるテストをする。
その前に数日、被験者には練習期間を設ける。
A群は1m先にボールを投げ入れる練習をひたすらする。
B群は1.2m先と0.6m先にボールを投げ入れる練習を交互に行う。

テストの結果、B群のほうが高い精度を身につけることができた。
テストは1m先に投げ入れる、というフォーマットであったにも関わらずだ。

例えば反復練習一つ取っても、そこに新鮮さがあるかどうかで習得の度合いは変わってくる。脳は慣れれば鈍化するからである。

Youtubeで世界史の勉強をしながら指ではアルハンブラを演奏する。
一見、一石二鳥に思えても、工夫も集中もない反復は無意味だ。

どうも人間はマルチタスクに快感を得るようになっているようだ。
狩猟民であった時代の遺伝子が関係する。常にマルチに周囲の物音に気を配り、集中しない、散漫な状態でいるが生存戦略だったから。

しかし、こと練習においては飽きることなく、新鮮に、ずーっと集中して、指と脳の神経の差分をしっかりと埋めようと試みるのが大切である。

武井壮さんは、さまざまなスポーツ・競技をしてそのどれでも一定以上の活躍するにあたって、単に個別の技能を習得しようと思えば…人の後ろに並んで順番待ちをすることになる、と語る。
そしてそれは、かったるくてつまらない。

すでに膨大な時間、技術を得るために練習した人と対等に、もしくはそれ以上にポッと試合に出て活躍できるには、どうしたら良いか。

「目で見た動きをそのまま再現できる運動神経」という根幹を鍛えれば良いのだ。
ここが武井さんの工夫ポイントその1、と言えるだろう。

というわけで彼は各スポーツの技術を磨くのではなく、まずは丁寧に、自分の筋肉・身体を自分の思った通りに動かせる、という点にフォーカスした。
鏡を見ずに両腕を広げてみる。地面と並行だと思って鏡を見ると、案外歪んでいたりする。人間の認識と身体の動きには、そんな簡単な動きでさえ、溝があるものだ。その差分を取り除き、思い通り動けるようになる。

次に、お手本を目で見た時に、その動きを忠実に再現できる能力の開花に注力した。

そうして彼は今、各スポーツ・競技の技術面においては極めて荒削りでありながら、どんなスポーツでもすぐにコート内で活躍できる、と自分を評価しており、世間もそれを認めている。

…ここに器用な人たりうる、練習のコツを2つ見出せる。

1つ、まず、世間で言われる一般的な練習方法を採用するのではなく、自分が「いったいどうなりたいの?」という点をきちんと自分なりに考え、はじき出し、よくよく考えながら練習を行なった点。

2つ、だるい、かったるいと思うものには手を出さなかったこと。

特に頑張り屋とか真面目と言われる人はこの2つができていない。
世間で言われる有効で優秀な練習方法を採用する。
そしてそれがだるかろうとつまらなかろうと、頑張る。

なぜならそうした辛い、苦しい努力が…いつかは花開くから。
自分は不器用だけれど、いつかは追い越せるはず
だから。

頑張るのは偉いから。

…それじゃあ上達しないんですよ。
単なる脳死特攻型の練習は、上達を伴わない。

クラシックではああいうだるい練習をさせられる、そういう苦難を超える方が偉いと思ってた、けど、事実、曲をバンバン練習した方が上達も早いしモテてんじゃん。

上記の、ポイントであると言っていた、あの1文がどうダメだったか。
…もうわかりますよね。

クラシックの練習はだるい。そう思っている以上、フレッシュではない
脳はおそらく、練習の刺激に対してすでに鈍化している。
だるいなら、そんなことに時間を使っている場合ではない。
サボってでも、どうにかして楽しくてフレッシュになるように工夫をしないと弾けるようにはならない。

頑張るのは偉いし、努力は実るはずなので苦しいけど頑張る。
これはもう、脳みそを使えていない。工夫の放棄。

モテたいのか、弾けるようになりたいのか。目的がはっきりしていない
目的によって練習方法も大きく変わるはず。

そして他人と比較をしている。
適切な練習方法は、本来個々人の体と思想・目的・進捗に対して1つ1つ個別であり、自ら発見するしかないもの。

こういう練習をしていると、練習はいとも簡単に人を裏切る。

(しかも、モテない。)



福永は今BPMを100まで落とした状態で、曲をこまかーいブロックに分けて、右手の親指・人差し指・中指・薬指がそれぞれ独立して自由に動くにはどうしたら良いか、と工夫しながら練習を始めたところである。


BPM180で弾けたように感じていたのは、その速さの1連の動きを脳が単純に学習していたからである。
BPM170で弾けるようになったと思った日もきっとそうだったのだろうし、NPM160についにきたぞ、と思った日もそうであったに違いない。

だから久々にBPMをグッと落とした途端にフォームが崩れる。弾けなくなる。難易度は下がるはずなのに。
そしてついに脳が混乱して、指が全く動かなくなる。
無理に早く動かそうとしたせいで、指に余計な力が入っていたのだ。
そういう練習が癖を常態化して、普遍性のない、BPM180でしか弾けないフォームが体にこびりつく。
練習しない方がまだマシとさえ言える。

まずは受け入れる。BPM100まで「落とす」ではない。
福永がまともに弾けるのは現在BPM100まで、である。
これを心から受け入れる。
この7年が無駄だったのか無駄じゃなかったのかはわからないが、とにかくその地点から練習をスタートする。

なぜ7年も気づかなかったのか。
福永が妙に真面目で、努力を信じているからである。
世間的には美辞っぽいけど、それは全く違う。
もっと適切なサボり癖をもっていれば、こうはなっていなかったかもしれない。
単に脳筋を露呈したに過ぎないのだ。

信じるとか信じないとか、そういう話ではない。
常に考え続けることである。
今やっているこの動作がのちにどう影響するのか。
どうなりたいから、何をしているのか。

ここにいたり、クラシック(吹奏楽)の世界で
・ゆっくりと
・曲を短いパーツに区切って

練習しろと言われていたことに心から納得をした。

ゆっくり、短いパーツに区切ると、脳を働かせ、練習に工夫を加える余裕が生まれる。
指に余分の力が加わっていないか、具に検証できる。


脳は当然、正しいフォームも間違ったフォームも演奏した回数分習得する。
(その効率には人によって大きな開きがあるけれど)
変な力加減のまま曲が弾けてるっぽい感じを喜んで次々BPMをあげていくと…脳はその間違いを蓄積していく。悪い癖になる。

だから脳が健康に検証できるだけの余白を持ち、工夫を凝らしながら練習をする。

そしていまだからこそ…その作業は楽しい。
当時は「かったるくてつまらない」作業だったのだが。
つまり、当時と今で、適切な練習方法は異なる、ということになる。
同じ福永であっても、時期によって/メンタルによって、適切な練習方法は変わるのだ。



思えば180倍の習得力をみせたゲーマーの友人も。
高校時代、基礎練をせずに早弾きを習得してみせた部員も。

要は武井壮だったのかもしれない。
何か別の分野で練習の本質、習得の本質をしっていたり。
そういう風にコントローラーや楽器を操作するための、運動神経の基本が出来上がっていたり。
「スペックが高い」「器用」と散々書いてきたが。
生まれつきの体質というだけでなく、これまでの経験がなんらかの素地となり、習得を助けていたのかもしれない。

…限りなく「生まれつきの才能」「生まれつき器用」という言葉と不可分な感じもするが、一口に才能・器用と言ってもさまざまな要因が考えられる。

習得は、結構奥深いものである。



というわけで。練習は人を裏切る、という話でした。

裏切られはしたのだが...。
こういう、これまでの自分の常識・思想をひっくりかえす、あるいは無意識に常態化していた自分の特徴に気づく機会、そう捉えれば。

これは裏切りでもなんでもない、練習の成果という風に捉えることもできる。

無駄だったのか。無駄じゃなかったのか。
まあそれはどっちでもよいとしても。

アルハンブラ、弾けるようになりたいですね。



本日はこれでおしまいです。

以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
気に入った方は「購入する」ボタンで投げ銭をよろしくお願いいたします。
頂いた¥100は、音楽活動・音楽探求に大切に使わせていただきます。

(確認方法がわからず最近気づいたのですが…ギターケース、設置してからこれまで意外なほどさまざまな方に投げ銭をしていただいておりました。まだまだ計数千円、されど。馬鹿になりませんよね。本当にありがとうございます。応援として嬉しく受け取っております。受け取り金額の下限ってのがあるのでまだ受け取りはしませんが…いつかもう少し溜まったら、こんなふうに使いました、とご紹介したいな、と考えています。)

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