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ギャルに「サムいっすよ」って言われた話

新宿歌舞伎町のバーに行った。
このバーはクラブっぽいムードであった。(クラブよく知らんけど)
大きい音楽、薄暗い空間、立ち飲み、前払い制。
つまりお酒を飲みながら初知りの男女がエロい気分でいても良いような空間であることは入店後まもなく悟れるようなお店だった。

どうしてそんなお店に福永が入店したかというと。
これはとある忘年会の3軒目の話なのである。

2軒目までは10名ほどの人間で飲み語っていたのだが、2:30頃に「よし、かいさーん!」という流れになった。

ほとんどの人がタクシーやレンタルサイクルで帰路につく。
その後ろ姿を見送って、家が遠い人間が3名だけ残った。
福永と、あと2人も同世代。

タクシー代もったいねえし、始発まで飲みますか〜ってことになった。

で、新宿のことはよくわからんし、2軒目までで十分な量のお酒を摂取して酩酊していたこともあって、まあぶっちゃけどこでもいいよね〜なんて話しながら歩き出した。
そんな最中に最初に目に入ったお店が、ここまで説明をしてきた「3軒目」なのであった。

さて、このバーの店内では自称イケメンの、実際にも顔の良い男が、チョリーッス系のノリで女に話しかけたりなどしていた。
喋りながら、女の体をぺたぺた触ったりなどしていた。
わんちゃん持ち帰りたい感が溢れ出ていた。
そのイケメンからだけでなく、見渡す限りどの男からも、わんちゃん持ち帰りたいという気分が滲み出ていた。

女たちはそういう男たちに面して、ややイヤそうにしつつも一応会話の輪を形成していた。随所に嘘なんかもつきながら、巧妙に。

福永は、会話というものには大別して2タイプがあると思っている。
福永は音楽家なので、仮に、こう呼んでいる。

「セッション型」の会話と「作曲型」の会話

セッション型の会話とは。
予めこの場って、こういうBPMだよね〜という空気を読み合い、ノリとボケとツッコミを織り交ぜながらスピーディに交わす即興的な会話劇場のことである。
大人数の飲み会の中央に君臨する巨大な輪で繰り広げられている会話は基本的にこれである。
クラスの陽キャがやっているのもこれである。

では、作曲型の会話とは。
BPMはどのくらい?キーはどうしよう?
こんなギターが入ったなら、こんなシンセをダビングしたらどうだろう。
物事の詳細にわたって、クソ丁寧に積み上げるタイプの会話である。
会話の性質上、4人以上の輪で行うのは基本的に不可能である。
BPMがずれちゃうから。
従って、飲み会の端でじめじめと行われている会話がこれである。
あるいはクラスの隠キャのコミュニケーション。

福永と話したことがある人は知っていると思うが、福永は「作曲型」の会話しかできない。
「セッション型」のコミュニケーション能力が壊滅的に乏しいからである。
こういうのをド隠キャと言う。

従ってかつてクラスの隅っこに居たし、今では飲み会の隅っこにいる。
角の方で2~3人の人間とじめじめ〜っとクソ丁寧に積み上げながら会話をすることが福永にとっての唯一のコミュニケーション方法である。
「極度の作曲型」と言っても良い。

で。
今いるこのバーは。
「極度のセッション型」のバーであった。

いや、初めましての人とどう話していいか全然わかんないんですけど!

どうやって話しかければ良いんだ。
ひたすらに狼狽しながら福永は周りを観察していた。

周りの人々にけしかけられて隣にいた女に話しかけたりもした。
しかし頭が真っ白で何を話して良いか全っ然わからんかった。

そもそも。女の子たちは基本的に野郎を煙たがっているように見える。
世間の貞操に準えても女の体を初対面でベタベタ触ったりしてはいけない。
いや別に、初対面でなかったとしても。
嫌われたくないし…。格好良いとも思えない。

いやーわっっかんね!
喫煙所に逃げ込む。
喫煙所の中には福永の他に男性が2名、女性が1名であった。

喫煙所で煙と一緒に安堵を吐きながら灰皿に向けて言った。
「いやー...なんか、すごいっすね。」
「自分はなんか全然こういうの慣れてないし馴染めないしで」
「よくこう、ガンガン話しかけられますね」

そんなようなことを言いながらニコチンを注入していたのである。

すると喫煙所にいた女性。
おっきい目をしたギャルみのある女性が、そのでけえ瞳で福永を眼差しながら、横からこう言ったのである。

「…いやでも、なんか『自分はそういう男じゃないっす』みたいな態度の男が結局一番サムいっすけどね?」

….!!

福永はどうやら「一番サムい男」なのであった。


一応つまんない弁明をしますと、福永はスカしていたわけではないのだ。
単純に先に述べたような能力不足
セッション型の会話が壊滅的に下手くそなために緒が掴めなかったのである。

しかし。
お目目のでかいギャルからしたらそんなことはどうでも良い。
お前みたいのがいると白けるんだよ、ということであろう。

福永には女性たちは野郎を煙たがっているように見えたし、おそらくは実際に煙たいとも思っているだろう。

しかしここにはここの様式美がある。
男が女に話しかけ、それを女が煙たがる。
この様式はこの空間においてのストーリーの根幹なのである。

これはディズニーランドに例えるとわかりやすいのではないかと思う。

「現実的に考えてぇ〜ミッキーって着ぐるみだよねぇ〜」
って言ってくるやつとディズニーに行っても全然面白くない。
んなこたぁみんなわかってるんですよ。
でも、夢の国には夢の国なりのストーリーの根幹がある。
夢に没入できるところにディズニーの真価がある。

ここでは現実を現実として受け取ることを良しとしない。
「現実を虚構に置き換えること」をエンタメとして消費する空間なのだ。
(こういう分析がサムい、ってことなんでしょうけどね…)

男が女に話しかけ、煙たがられていないといけないのである。
自分そうじゃないっすけどね〜とか、自分嫌われたくないっすみたいなウジウジした現実主義者みたいなやつがいるとこのバーのジッパーが透けて見えてしまう。
着ぐるみを想起させるようなコミュニケーション方法(コミュニケーション能力)のやつはサムいのである。


80後~90年代は大・ナンパブームであり、性が舞台装置化した時代と言える。
その背景には3つの流れがあった。

1.秩序の時代(戦後、勧善懲悪が流行る)
今現在の秩序がいい感じ〜と思っており、それを守る・整える・発展させることがモチベーション

2.未来の時代(宇宙戦艦ヤマトとかが流行る)
今現在の感じには飽き飽きしてきたけど、きっと未来には「良い感じ」が待っていると信じて、テクノロジーの発展やより良い未来に向けてモチベーションを保つ

3.自己の時代(エヴァンゲリオンとかが流行る)
未来に大した希望はないことがわかり、とにもかくにも自分自身を守り抜くために現実でも虚構でもなんでも使って保ち続けることがモチベーション

ナンパブームの背景には「未来の時代」→「自己の時代」への移り変わりがあった。
つまり、輝かしい未来に期待できないのであれば、今ここにある現実をエロなりドラッグなりなんなりで虚構化してしまおう!という発想である。

ちなみにこの時に「セッション型のエロトーク」に馴染めない層が発生した。今回でいう福永みたいに。

それで、ナンパとオタクの2極化の時代を迎える。

当初ナンパ(とか援交とか)はキラキラした1軍男女のものであり、オタクはジメジメしているので差別の対象であったが、時代とともに「過剰な行いってイタイよね〜」という風潮が加速した。

ナンパも段々「イタイこと」になってきた。

それで現在は1億総オタク時代と呼ばれている。


こんなような分析を本で読んだことがあるのだが、今回体感したのはまさにその、フィールドワーク的な実体験であった。

福永はあの、キラキラした1軍男女のやっている軽妙なセッション型エロトークに参入する資質を持っていない。
あの場において福永は90年代に差別の対象でありながらも、現実を虚構化することができずに、虚構を現実化することで飢えを凌ぐ「オタクたち」のちょうど生き写しなのであった。

郷に入っては郷に従え、という諺がある。
歌舞伎町のバーに入ったらそこには治外法権的な空気がある。
ディズニーランドに入ったらそこには治外法権的な空気がある。

それって着ぐるみですよねぇ?は、ルール違反。
レッドカード、退場なのである。

つまり、極論。
実際問題どうだから、というのは、人間にとってはめっちゃどうでも良いのである。実存に"意味"はない。
ここにどんな潮流の「ファンタジー」が流れているのか。

それが人間の本質である。
…人間、とかいうでけえ主語がいきなり登場する理由を解説してみたい。



「もしも時間を止められたら何したい〜?」

んー例えば。
好きなだけゴロゴロしていたって罪悪感がない。
楽器やゲームを練習すれば、精神と時の部屋だ。
締切に襲われることもない。
エッチなことだってし放題である。

…と、時間を止める妄想って、福永の知る限り結構ポピュラーなものである。誰もが一度くらい、そういう妄想をしたことがあると思う。

じゃあ今からサムいことを言おう。

時間とは…そもそも相対的なものである。

例を出して詳しく説明をする。
熱帯雨林に住む狩猟採集民族たちは、時間の観念がめちゃくちゃ薄い。

熱帯雨林は
1.木が多すぎて、昼も夜もめっちゃ暗い
2.木が多すぎて、遠近感がほとんどない

今でも熱帯雨林に住む「ピダハン族」を調べた文化人類学者によると…
彼らを熱帯雨林から近所の見晴らしの良い湖に連れ出してみると、彼らは湖の向こうを指差しながら、驚くべきことを言ったのだった。

「あのめちゃくちゃ小さい動物は何?」

湖の向こうには牛の群れが歩いている。
我々はわかる。あれはめちゃくちゃ小さい動物ではない。
遠くにいるから、小さく見えるのだ。
それがわかると次のこともわかる。
「もしあの牛がこちらへ向かってきたら、だんだん大きくなる」

牛のサイズがだんだん大きくなっているのではない。
近いものは大きく、遠いものは小さく映ることを知っているのだ。
これが遠近感ってものである。

ところが彼らピダハンはほとんど遠近感のない(もしくは必要のない)熱帯雨林に住んでいるので、遠いものほど小さく見えるという認識を持っていなかったのである。

だから「湖の向こうにいる、あのめちゃくちゃ小さな動物は何?」となるのだ。

遠近感があると、未来を推測することができる。
牛が順調にこちらに向かっている様を見て5分後にはこの地点におり、このくらいの大きさで見える「だろう」と推測できる。
きっと30分後くらいにはここに到達しているだろう。その時、牛のサイズはこれくらいに見えているだろう…。

ピダハンは遠近感を欠くために時間感覚を持っていないのである。

これが「2.木々が多すぎて、遠近感がほとんどない」である。

1.木々が多すぎて、昼も夜もめっちゃ暗い
についてはここでは詳細を省くが、景色の移ろいもまた時間感覚を養うために必要な要素である。

これでわかることがある。
「時間」ってものが絶対的にあるわけではない。
あまりにも我々にとっちゃあ常識なので、疑うのが難しいのだが。
「モノが動く様子を相対化した時に発明される」のが「時間という概念」なのだ。

ここで冒頭の妄想を振り返ってみる。

「もしも時間を止められたら何したい〜?」

これはスーパービック矛盾であることに気づく。
時間とは物の動きに相対化して発明された概念であって
時間が止まる=全ての物の動きが止まる ことに違いないからである。

だから「時間が止まっていたらお前も動けねえよ」である。

で。

これはもう予め書いたことなのだが…
このツッコミは「サムい」のである。

時間が止まったらどんなエッチなことしてやろうかな〜
って考えてるのが楽しいのであって

「時間は相対的な概念なので、時間が止まったらという仮定は本質的に成り立ちませんよ(メガネクイッ)」
…じゃ、ねえーんだようるせえな!!なんだこいつぅーつまんな!

と、なります。なりますよね?

これがあの、お目目ギャルが言っていたことの拡大解釈となる。

この「時間を止めたら妄想」がポピュラーであることは、人間はそもそも合理的にものを考えて(感じて)いるわけではないという証明になる。
歌舞伎町のバーや、ディズニーランドはごく例外的であって、本当の「現実」は確かにあり、「常識」は確たる約束である…なーんて考え方がそもそも間違いなのだ。

この世界はどこまで行っても、歌舞伎町のバーであり、ディズニーランドなのだ。
大なり小なり、我々の世界はどこへ行ってもその場所なりのファンタジーで成り立っている


コロナに際して小池都知事はこう言った。
「不要不急の外出は控えなさい」

しかし。ここまでの例を見てわかることがある。
「不要不急のことこそが人間性」なのだ。

何のことを「必要・緊急」と捉えているか。
それは仕事であったり、経済活動であったり、医療従事であったり。
「都民が社会システムの歯車や潤滑油でありうる活動」のことを「必要・緊急」であると捉えていた。

であれば「不要・不急」がなんのことかもわかる。
社会や生存にこれっぽっちのメリットもないとされること、である。

システム>システム以外のこと

しかし。
ここまで述べていたことをまとめるとこれはちゃんちゃらおかしいということがわかる。
(ちゃんちゃらってもう死語ですか?)

つまり人間にとってはファンタジーが極めて重要なのである。

本当は
システム以外のこと>システム

確からしい事実をどうにか把握できるのは社会がシステム化しているからである。
システムとは計算可能ということである。
そういう状態の社会を「近代社会」という。
便利ですよね。

でもね。
計算可能な合理性の中に人間の価値はないんですよ。
あくまでシステムはツールであって、絶対性のことではない。
絶対性を用いた物差しでは、ある
物差しは道具であって本質ではない。
そこのところがごっちゃになりやすいのが近代社会であろう。


…はい、何の話だったか覚えていますか?
ギャルの「サムい」という言葉から「このバーではファンタジーに心酔していなければならない」と言いました。
えー世間的には、そんなことしちゃいけないっぽいのに?
…それでは、バーの中やディズニーランドの中が例外なのか?
いや、実は違う!
この世は実はかなりの分量がファンタジーでできてるんじゃない?という話。
それが人間の本質なんじゃないかという話でした。
その例として、時間を止めたら〜って妄想するよねー、と。
論理的に考えたらありえないような妄想が面白え〜わけです。
でも、一見システム優位(合理性優位)なために、そう捉えづらい。
いちいちそんな深く考えないしね。

では続けます。



もう一つ例示を。

数独、あるいはナンバープレートと呼ばれる古典的なゲームがある。


wkipediaの「数独」から勝手にDLした画像

ルールとしては。
・縦9マス/横9マスに1~9の数字が被りなく入っていて
・なおかつ太枠の3×3=9マスの中にも1~9の数字が被りなく入っている

という状態を「正解」として穴あきの部分に1~9のなんの数字が入るでしょう?というのを推論していく論理ゲームである。

やったことがある人の方が多いのではないかと思う。

これがなかなか面白いのである。
面白いのだが…この間、寝起きに数独をやっていてふと気づいてしまったことがある。

これ、AIがやったら1秒で必ず解けるのである。
なぜなら数独のルールは極めて論理的だからである。
ランダムの余白や感情の余白はない。

1秒で必ず、絶対に間違うことなく正解を導き出せる。

にも関わらず数独(ナンバープレート)は古典的ゲームであり、人間界の世界的なポップスである。

なぜこんなに流行ったか。
それは…人間の合理性には限界があるからである。
AI界なんてものが存在するとしたら、数独なんて絶対に流行らないと断言できる。
(20××年、食物連鎖の頂点はAIであった…みたいな)

AIなら1秒でまず間違うことなく解けるのだが、これを人間が解こうとすると20分とかかかる。
うんうん唸りながら色々考えて、ああーここ2が入るじゃん!!と発見した時…人間は、気持ちが良いのである。

つまりもりもりと合理化を加速するにあたっての最大のノイズは人間なのだ。


となると。
現実を合理化し、計算できるようにすること。
誰が取り扱っても普遍であるように行うこと。
これを論理・科学偏重の現代では至高(とか、現実とか、科学的とか、正しいとか、常識とか、あたりまえとか、…)としているのだが。
論理が便利なツールの域を飛び出してしまったらもう単なるバイアスである。
だって人間の中にそれで記述できない要素がいっぱいあるじゃん!ってことである。

合理を目指す限り人間は決してAIに勝つことができない。
絶対に。なぜなら人間を取り除けば取り除くほどより合理的・普遍的に論を構築できるからである。

さて、その視座に立つことができた時。

お目目ぱっちりギャルが「サムい」と表現したことの意味がはっきりわかるのである。

この世界には誰しもが過不足なく受け取れる現実や常識が確固として存在しているわけではない。
なぜなら人間は合理性の面で明らかに力不足だから。
そこには人間ならではのノイズがのる。

だからこそ。
歌舞伎町のバーは面白い。
時間が止められたら?と妄想するのは面白い。
不要・不急の人間らしさが面白い。
数独に悩むのは面白い。

それを…合理的な視座(正義的といっても良いかも)で穿って見るのはサムい。

福永としてはここに芸術という生存に関して圧倒的に不要不急である人間の営みの価値を見出すのである。
もっと言おう。合理的に考えたら不必要なはずの芸術(ファンタジー)ナシには、人は生きることができない!
人は合理的ではないので、合理の定規で測れないものがあるのだ。
測る、という単語が既に、汚されたものかもしれない。
…ということが合理的にわかるはずなのである。

なぜこの歴史上、近代化がこれほどまでに加速しながらも芸術が絶えなかったのか。

コロナのような緊急時に、なぜ人々が芸術のような(論理的には)曖昧なもので励まされたりしながらも、幾多のライブハウスが(経済的に)廃業に追い込まれるような矛盾がくり広がるのか。

ここには論理(システム)と人間性の間の矛盾と、その拮抗の構図が見て取れるのだ。
これほどまでに近代化して感情さえもシステムに飲まれ、ツールの域を超えてしまっている。
合理的な行動が誉められるし、誉められるとみんな求める。
(福永は勝手にこれを「システムに汚染された感情」と呼んでいる。自分自身正直めっちゃ汚染されている。)
…でも、人間はまだ、感情を完全に失うには至っていない。
(あるいは、人間が存在する限りは至ることができない

我々人間にはファンタジーが必要なのだ。
歌舞伎町のバーで酔っ払うことは、人間らしい営みなのだ。


ちなみにタクシー代を浮かすために入った歌舞伎町のバーだったのだが、その後始発に乗ろうと席を立った際に驚くべきことに気づいた。

カバンに入れていた財布が…ない…。

前述の通り前払い制であり、この店に入店してから財布を使ったこと、そして荷物を全て中にしまったことをしっかりと覚えている。

で、その財布が、ないのである。

翌日。遺失物届けを出しに行くと、不幸中の幸い。
四谷署の管轄から財布が発見された。
歌舞伎町は新宿署の管轄であるため、四谷署の管轄で見つかったということは、短距離ながら財布は明け方の街を移動していることが見て取れる。

つまり十中八九財布は盗難にあったということがわかる。
これもまた歌舞伎町という場のリテラシーが福永に不足していた結果と言えるだろう。財布をカバンに入れっぱなしにしていてはいけなかったのである。

福永は残念なほど夜の街に馴染めないことを痛感しながら、結局は「作曲型」のコミュニケーションである、こんなクソ長文のnoteを綴ることに終始するのであった。

福永は多分、もう一生、こういう調子なのだろう。
お目目の大きいギャルがこの文章を読んだら…半開きにした流し目でダルそうに、こんな風に言うに違いない。

「や、だから〜、そういうのが一番サムいんすよ〜」

まあでもこれ冗談でも強がりでもなんでもなく、上述のような新しい発想に至れたのが面白かったので良い経験でした。

ただし財布ドロボウ、てめぇはダメだ。

で、家に帰ったら風呂の給湯器が経年でぶっ壊れてました。はあ?

…財布とお湯のない年の瀬。

サンタさんもし見てたら1000万円(計量可能で人間にとって本質的ではないにも関わらず、システムに汚染された感情に極めてよくしみるモノ)をください!!


本日はこれでおしまいです。

以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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