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幸福をめぐる男女間の争いから見える議論の「すれちがい」構造

Twitterを始めとしたネット上の多くのコミュニティにおける、「男と女のどちらが幸せなのか」論争。
まともな議論から、ミソジニーとミサンドリーが極論をぶつけ合う舌戦まで色々とありますが、その多くが議論がかみ合っていないような印象を受けています。その理由はどこにあるのか考えた結果、これは多くの対立構造に共通するものではないかと感じたので、あらためてまとめてみようと思い、筆をとりました。

筆者はジェンダー問題についての専門家ではなく、認識に誤りや失礼な点があるかもしれません。ご指摘ありましたらぜひコメントいただけると幸いです

男性と女性を取り巻く世界

もちろん一概には言い切れませんが、僕の周囲の観測の限りでは、おおむね、現在の日本では下記の「傾向」があるのではないかと感じます。

男性:
仕事ができて稼げる人は、金・名誉・家庭、全てを得ることができる。
一方で、仕事ができない人は何も得られない

女性:
仕事ができる人でも、仕事か家庭かの「選択」を迫られる。
一方で、稼ぐ力は無くても人的魅力で家庭を得られる人もいる

必ずしもこのままで良いとは僕は思わないのですが、とはいえ現状では、男性は「全てを得るか全てを得られないかの両極端」、女性は「全てを得るのが難しいが中庸の人生は得やすい」、という傾向がありそうです。

「攻める相手」と「反論者」のすれ違い

まずはこの仮説の上に立って考えてみると、男女それぞれの「男が/女が羨ましい」という議論は、いろいろな意味ですれ違っていることに気づきます。

「仕事ができて稼ぐ力のある女性」は、仕事を取るのか・家庭を取るのかという「踏み絵」を社会やパートナーから迫られた時に、「仕事ができることで全てを得ている一部の男性」を羨ましく思い、「男っていいよね〜」という声につながります。

一方で、「仕事ができない男性」は悲惨なもので、金銭的な満足も家庭も得ることができません。そのため「仕事ができなくても人的魅力があるため結婚できて一定の幸福を得ている一部の女性」を羨ましく思い、「女っていいよな〜」という声がこぼれます。

その両者が「男が羨ましい」「女が羨ましい」と殴り合っているわけですが、いずれも、「攻める相手」と「反論する人」が、すれ違っているのです。

そりゃ、議論が平行線になるわけです。
このままだと幸福度を巡る男女の争いは永遠に終わらないのでは、とさえ感じられます。

男性が女性を下に見ている傾向があるのが問題だ、いやいや女性の上昇婚志向が問題だ、等、様々な・多様な議論があることは理解しています。これは男女平等を巡る議論の「一つの側面」ということでご理解ください

解像度の低い議論は避けよう

このような
「異なる属性同士が戦っている風に見え、実はお互いにその属性の中の一部の違う人同士が攻撃しあってるから建設的な解を得られない」
という対立構造は、宗教や民族、人種など、多くの場面で観察できるように思え、なかなか興味深いように思います。

宗教間の対立では、一部の原理主義者による過激派・テロリストがその宗教の全てを代表するかのような錯覚を相手に与えることにより、相互不信を増していく構造があります。

国家間の対立でも、対立を煽ることで得をする一部の人間によって全体の印象が歪められ、互いに偏見が消えない状況もあります。

「〇〇教徒」「〇〇国人」などと、雑に捉えて批判するのはやめましょう。
僕らが重視すべきは、何事も「適切な解像度」で捉え・議論する ということではないでしょうか。

冒頭の男女の例で言えば、「男性/女性」というカタマリだけで議論すると大雑把すぎるということです。
男女をさらに「仕事ができる/できない」「人的魅力がある/ない」という軸で分解し解像度を上げることで、状況の整理につながりました。
もしかしたらこれでも不十分で、もっと解像度を上げる・細かく分解するべきかもしれません。究極的にはそもそもひとりひとりのレベルまで細かく見るべきという話なのですが、何事もそうしてしまうと「人それぞれ」で終わってしまい議論を成しません。

要するに、多くの議論は、どのレベルまで分解し「解像度」を上げるのが良いか・どの軸で分解するのが良いか、その検討こそ最も重要 ということです。

そのプロセスをすっ飛ばして、良い・悪い、の議論を始めると永遠に議論が終わらない悲しい「すれちがい」を生みかねないということは、心に留めていただくと良いのではないでしょうか。

単なる対立に終わらない、生産的な議論が世の中に増えますように・・・

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