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記者から青年海外協力隊へ

 2014年10月7日。この日は、私の人生でも大きな節目となった。JICAの青年海外協力隊として、フィリピンに派遣された日だった。

マニラのニノイ・アキノ空港で同期隊員たちと=2014年10月7日

 大学を卒業してから、私は西日本新聞社で新聞記者をしていた。博多、筑豊(福岡県)、佐賀と担当し、とても貴重な経験を7年半させてもらった。様々な出会いや課題、面白いネタもあり、充実した日々ではあった。もちろん、そこそこ給与などの待遇面も良かった。

 それがなぜ、ボランティアである青年海外協力に飛び込んだのか?

 それは、佐賀での人との出会いが大きかった。

地球市民の会との出合い

 県政や国政、経済、有明海の諫早湾干拓事業問題、玄海原発の再稼働・・・。佐賀では、本当に様々なテーマを担当させてもらった。その中で、春秋航空の上海便就航というものがあった。大学時代から中国語を勉強していた私としては、ぜひ担当したいと手を挙げ、2012年1月の第一便に搭乗をさせてもらった。まだ当時は日本で少なかった格安航空会社(LCC)ということで、その乗り心地を体験ルポで書いたり、当時の副知事を団長とする県の訪問団に同行し、様々な佐賀と上海のつながりをレポートした。

 その関連取材をする中で、「春秋航空を活用したまちづくり」と題した円卓会議が開かれていた。行政や企業関係者、NPOなどの関係者集まり、上海からのインバウンドを呼び込むための方策を考えたり、多言語化について話したりする、全4回の円卓会議だった。その会議の運営事務局を担当していたのが、私のソーシャルセクターへのきっかけとなる認定NPO法人地球市民の会だった。

「プレーヤーになりたいんじゃないの?」

 実は、デスク(記事をチェックする上司)に振られた仕事で、あまり気乗りをしないまま会場へと向かった。しかし、そこで繰り広げられていたのは、LCCの力を借りて、佐賀を盛り上げようという熱い議論だった。それぞれの肩書を超えて、真剣に意見を出していく。その情景に、私は記者という立場を忘れて、その意見に耳を傾けていた。

 円卓会議は、毎回終わった後に飲み会があった。お酒が好きな私は、毎回仲間に入れてもらい、交流をした。取材で見る姿とは違う、行政職員や企業の皆さんの姿。多くのネットワークを広げることができた。

 同時に、地球市民の会というNPOにも惹かれた。本業は、ミャンマーやタイでの国際協力や、国際交流事業であること。そのほか、当時起きたばかりの東日本大震災の支援活動なども、九州から行っているということだった。「『世界中の人々が世界中のすべての幸せを自分の幸せと感じられる人=地球市民になること』が実現する世界にする」という理念は、私の「人とヒトが好きになれる社会をつくる」という理念とも、共通点を感じた。

 行けばネタがたくさんあるので、事務所に入り浸るように。ほぼ「広報担当」と化していた。当時、デスクとそりが合わなかったこともあり、誰かを幸せにするために活動する「ソーシャルセクター」というかなり惹かれた。同時に、当時の地球市民の会の事務局長にこんな声をかけられた。

「山路君は、伝える側よりも、プレーヤーとして国際協力や国際交流に関わりたいんじゃないの?」

目がキラキラしたOVたち

 さらに、地球市民の会には、多くの青年海外協力隊OV(Old Volunteerの略で、青年海外協力隊の経験者たち)が出入りをしていた。当時、私は29歳。このままずっと記者という仕事で一生過ごすのか、本当にこの仕事が合っているのだろうかー。デスクとの不仲もあり、精神的に病んでいた私たちには、OVの皆さんが、海外経験を生かして帰国後に目をキラキラさせて活動する姿がまぶしく映った。

 「私もこの仲間に入りたい! プレーヤーになりたい!」

 そうして、2013年11月、私は西日本新聞社に退職届を出すとともに、青年海外協力隊へ応募した。佐賀のバルーンフェスティバルのイベントに参加したい思いを抑えて、図書館に通っては、応募書類を書き、応募書類に添えるTOEICの勉強を続けていた。

そしてフィリピンへ

 そして、書類審査、JICA九州での面談を経て、2014年2月、無事に青年海外協力隊の合格通知を受け取った。まず、HPで、合格者の受験番号が載せられ、次の日に速達で、派遣国や要請内容(現地での仕事の内容)が書かれた書類が届く。そこには、こう書かれていた。

 「平成26年度2次隊 フィリピン コミュニティ開発」

 実は、私はフィリピンという国の選択に、最初は、喜び半分、悔しさも半分だった。英語も社会人になって話さなくなり、大学時代に学んだ中国語、韓国語も、ネイティブレベルとはいいがたい。「せっかくならばまったく違う言語をゼロから勉強してみたい」との思いが強かった。だから、希望の国については、ラオス(当時、地球市民の会がラオス事業の立案をしていた)、ネパール(OVの方が『とても良い国だった』と話していた)、インドネシア(父親の単身赴任の関係で行ったことがあった)と書いていた。でも、フィリピンの派遣前訓練で学ぶ訓練言語の欄に書かれていたのは、「英語」。「そっかー」というのが最初の印象だった。

 しかし、のちにフィリピンにここまでのめり込むとは、この時の私はまだ、知る由もなかった。

(協力隊編、また後日続きます)

山路健造(やまじ・けんぞう)
1984年、大分市出身。立命館アジア太平洋大学卒業。西日本新聞社で7年間、記者職として九州の国際交流、国際協力、多文化共生の現場などを取材。新聞社を退職し、JICA青年海外協力隊でフィリピンへ派遣。自らも海外で「外国人」だった経験から多文化共生に関心を持つ。
帰国後、認定NPO法人地球市民の会に入職し、奨学金事業を担当したほか、国内の外国人支援のための「地球市民共生事業」を立ち上げた。2018年1月にタイ人グループ「サワディー佐賀」を設立し、代表に。タイをキーワードにしたまちづくりや多言語の災害情報発信が評価され、2021年1月、総務省ふるさとづくり大賞(団体表彰)受賞した。
22年2月に始まったウクライナ侵攻では、佐賀県の避難民支援の官民連携組織「SAGA Ukeire Network~ウクライナひまわりプロジェクト~」で事務局を担当。
2023年6月に地球市民の会を退職。同8月より、個人事業「人とヒトの幸せ開発研究所」を立ち上げ、多文化共生やNPOマネジメントサポートなどに携わる。


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