見出し画像

けれちゃんの繁殖 その1

感情や思考の高波が来てくれれば言語で乗ることもできる。そうして大波の恩恵にあずかって言語を弄んでいる時はなんだか自分が生産的なものになれたかのようで気分がいい。

なのに、波がくるかどうかは、その海が自分自身であるはずなのにもかかわらず、どうも操ることができなくて、結果「書きたいときしか書けない」しょうもない書き手にしかなれずじまい。技術も伸びやしないし、鍛錬のスケジュールも組めないし、そもそも技能を磨くやり方もよくわからない。

なんだかうんざりして、ばっかみたいと思う。自分が怠け者に思える。つまらない者に思える。努力ができないから自分を好きになれなくて、努力の成果が目に見えるわけじゃないから自分の書いたものをどうしても好きになれない。

表現において私がとれる手段はもはや文章を書くことだけなので仕方なく続けるけれど、表現したものを好きになれないのは悲しい。自分の分身を好きになれないのは悲しい。

そこに社会的な大義があるわけでもないから、発表ということに積極的になれる日は永久にこない。発表のための装置があってくれるから、それに寄りかかって、自力ではなく、自発的にではなく、惰性で発表しつづける。装置に付き従って表現の方法を規定する。怠惰。

ただただ繁殖欲求、保存欲求のためだけに文章を書き続ける。生物の繁殖欲求としてしかこの行為を認められないが、それとて限りなく無為に近いこの行為を理性に肯定させるには切実すぎて襷に長い。

書かずにはおれないから書いているだけで、抗いようなく自分に書かされているわけで、書きたい気持ちも前向きで明るいものではなく後暗いもので、まるで性欲みたいに思えて情けない。汚いなと思う。欲求は全部汚い。肉体が意地汚く生き永らえるために欲求することは全部気持ち悪い。

ならばせめて美しく成形して、生まれたものを少しでも好きになれればと思うのだが、出来損ないの畸形ばかり生まれるからどうしても目を逸らしたり眉を顰めたりしてしまう。気に入ってくれる奇特な人がたまにいて、そのことが嬉しくてたまらないから(繁殖大成功ピース!)一応陳列してみるものの、私自身はその自分博物館に足を運ぶといつも嫌な気分になって、時々修正を試みてもやはり醜いままのおかしなものが陳列棚に並ぶ。

どうすれば文章力が向上するのだろう。私が書こうとしている私の出来事、私が書いて保存しようとしている出来事、私が書くことで出来事の胞子を頒布し、私を増殖させようとしている行為を、少しでも自分自身の気にいるものに、他者に気に入ってもらえる美しいものに、仕立て上げる技能はどうやったら身につくのだろう。

排泄として書いている限りそんなものは永劫身につかないように思うのに、書くために必要な波を操ることができない。いや本当はできるのにできないふりをしている欺瞞かもしれない。今こうして書き連ねていることだって本当は、もっと美しく読みやすく見やすく仕立て直す努力をおこなえるのに、わざとおこなっていないだけかもしれない。

と思って改行を入れて文章を区切った。ほんとは改行どころか句読点さえ一つもなくて、文章はだらしなく繋がっていたけれど、切って少々整えた。少しは読みやすくなったんだろうか、こんなことで。こんな小手先のことよりも、この気持ちを一度液体に戻して、別途DIYした創作の木枠に後日流し込み、間接的陳列法をとるべきなのかもしれない。そこまでの努力をしないのはそこまでしなくても読んでもらえると思っているからかもしれない。甘えているのかもしれない私。私は他者の好意に甘えすぎているのかもしれない。生きていることを許されすぎているのかもしれない。

それで、結局一体これは何をやっているんだろ? これでも繁殖しているのか? 繁殖大成功しているのか?