夏の終り、金の泥の目

黒木華が本木雅弘の散らかった部屋で泣いている。
この二人は、モックンの妻の深津絵里がバスの転落事故で命を落とした時にセックスしていた。モックンは部屋にきてぐすぐす泣いている黒木華を完全に持て余している。気まずさを誤魔化したくて下だけ脱いでソファでおざなりに挿入するのだが、黒木華は「罪悪感でどうにかなりそうな自分」を客観視できる程度には正気なのでモックンがこの状況をセックスで濁して逃げたことで完全に情を失って、軽蔑の視線すらモックンに投げずに立ち去って二度と男の前に現れない。モックンはなぜ黒木華が立ち去ったのか、少しも理解できない。多分一生。

「この手の女性の考えることって、私、ぜんっぜんわかんない。全然理解できないの」

台所から通りのよい声が飛んでくる。
このふかふかと居心地のよい家の家主が、この映画のソフトを持っているのは意外といえば意外だ。

「すごく賢くて、難しいことを考えてるのはわかるんだけど、ひどく屈折してる。なんでそんなに、まっすぐ人と向き合うのが嫌なんだろう?」

卵焼き器でだし巻き卵をじゅわじゅわと焼きながら、家主が矢継ぎ早に分析する。

「彼女たちには烈しいコンプレックスと持て余したエネルギー、それから、怒りがある」

年上のいい女に卵を焼かせておいて動こうともせずソファにもたれて日本酒をちびちび飲んでいるのは、実に今日のコンセプトである「昭和の昼」然としており、さらにいえば非常にモックン的である。

「怒りねえ」
「怒り。私はこんなにこうなのに何でお前らはそうなんだ、みたいな形の」
「わかってるじゃんね」
「ふふ、わかんなーい」

日本酒を一旦おいて麦茶をちびちび飲んでいたら、彼女はだし巻き卵を携えて応接間に戻ってきた。
出汁のいい香りがふわりとあたためる。「布団をたたむように巻いたの」と、いい女。

「ね、今喋ってて気づいたけど。私の友人の中でこの手の女性に一番近いのって、あなただ」
「わあ、ご明察」
「金の泥の目の……」

そのとおり、私は黒木華がどんな心境で部屋を出て行ったのか、なぜこんな夜にわざわざ訪ねてきて泣いているのか、何を考えてこんな表情をしているのか、完璧に説明できる。
解説を披露して、この人に「ぜんっぜんわかんない」と叫ばれるだろうことも想像できる。
ふふ。想像するだけで、おもしろくて笑ってしまう。
絶対わかんないと思う。この人はけっして、自意識に絡め取られて目を金色に染めたりなんかしない。

泥眼。
能面の女面の分類は、大きくは年齢と感情によっている。
若く華やかな小面、若女、孫次郎、少し年嵩の増女、節木増、曲見、深井……
やがて憎しみと怨みと悲しみを糧に女は鬼(般若)へ転じ、さらに極まりて蛇(じゃ)となる。
般若へと転じる寸前の、まだぎりぎり人である女を表す面、それが泥眼と呼ばれる。
目を金泥に塗る。怨みが女の目を鈍く深い金色に濡らす。

怨みにもだえ、とうとう蛇へと堕ちる運命へ身を委ねんとする瞬間の金色。
泥眼を光らせることへの屈辱も恥も絶望も、深い悲しみも怒りも。
私はわかる。彼女は一通り理解したのち、「ぜんっぜんわかんない」と言うだろう。

わかんない彼女の部屋には、すべすべの木の板が敷き詰められている。
フローリングは裸足にぺたぺたと不快感を与えるからいやなのだと。
彼女は恋人の前では裸で過ごすという。
裸は言い過ぎかもしれない。でも、腰や背中をファスナーや糸や革で締めつける外着をぽーんと脱ぎ捨てて、肌を窒息させる化粧をつるりと落として、生まれたままの、健やかでなめらかでのびのびと気持ちいい状態、指先のひとつさえ飾らぬ状態で恋人と一緒に時間を過ごすのだという。

おそろしいことだ。
まるっきりむきだしの心を誰かに投げ出すなんて。
何の鎧もまとわせない愛情を明け渡すなんて。
そんなに健やかで誠実なやりかたで人を愛せる人間がいるんだ。

だから彼女は「わっかんない」と笑う。
わっかんない、と断言する彼女が好きだ。何か問われたときに、額に「保留」の字を貼り付ける私と正反対なのがいい。
彼女は保留しない。ぺたぺたと不快なフローリングを保留しない。
だってこっちのほうが気持ちいいじゃん、といって木の板を敷き詰めてしまう。だってこっちのほうが気持ちいいじゃんといって外着をぽーんと脱ぎ捨てる。脱いだほうが気持ちいいよ、といってぽーんと相手の上着も剝ぎ取ってしまう。
なにもかも保留しているうちに、いつのまにか雁字搦めになって目を金色に染めるようなことをしない。
私も、「わかんないだろうよ」とにやつく。

「平成生まれのお嬢さんに、一つ昭和の悲惨なことを教えてあげよう」

昼酒の〆に、昭和生まれのお姉さんは素麺を茹でながら高らかにうたう。
スクリーンでは美容師の妻を亡くしたモックンの髪が伸びきっている。

「モックンはね、すごく面倒くさい人なんですよ」
「そうなんだ」
「この映画のオファーが来た時にね、監督にすごく長い辞退メールを送り返したんだって。スクロールが米粒みたいになるメール。それは役にかかわらず、いつも誰に対してもそうなんだって。きっと説得されたいだけなのよ」
「ぞくぞくするね」
「彼のアイドル時代を知らないよね?」
「しらない」
「思春期の、自我を形成している最中にね、彼は国民的アイドルとして消費されていたのよ。若く可愛らしくマッチョでない男性を消費することが社会的に初めて認められたころ。若い女性を消費するのと同じように若い男性を消費することが初めて是とされた時代。そんな時代にお神輿に乗せられて、アイドルという形で人柱にされたのがこの人、モックンだよ」
「ひどい、悲惨だ」
「悲惨でしょう。そういう悲惨な自意識をね、映画監督にうまーく利用されて、こんな映画が出来上がっているのだよ。うふふふ」

モックンの人生のそういう悲惨さを、全部わかってうふふと笑っている、わっかんない彼女。

「あーあ、誰も誰もが世界に復讐しつづけているね」
「あなたはいいことを言うねえ」

裸になってきちんと誰かと向き合う彼女の愛情のありかたはすこぶる綺麗だ。
だけどそれだって、フローリングというすこぶる普遍的なものにおぼえるぺたぺたの不快感を「それはそういうものだから」と受け入れてしまうこの世に対する復讐だっていえるんじゃない?
そう言ってみたら、きっとうふふふと笑うんだろう、この人は。

昼間から日本酒をのんで話してすっかり酔いどれの、夕刻の帰り道。
もう夏も終わるからと、花火屋で叩き売られていたセットを買った。
昭和の食卓を教わった帰りに線香花火を買って、とても正しい締めくくり。

もしまたあの家に招いてもらえたら、私の話をしてみよう。
ねえきいて。このあいだね、私にぴったりの動詞を選んでもらったの。
相手が何をあげたと思う?
「殺す」と「刺す」だって。私から想起する動詞。
どう、なかなかもののわかる男だと思わない?

きっとこの人は「ろくでもないなあ」と笑ってくれるだろう。
「なんでそんな男がいいのか、ぜんっぜんわかんない」と台所から呼びかけるだろう。
そしたら私も、「わかんないだろうねえ」とニヤニヤしながら言ってやるのだ。


拝復:「劇場から出ない」http://kasasora.hatenablog.com/entry/2018/09/04/190000
(槙野さやか『傘をひらいて、空を』より)