窓から虹色の吐瀉物を投げ捨てた

 朝、なんとはなしにかばんに突っこんだ『現代詩手帖』を通勤の地下鉄でめくると、第1篇目が、中村稔の「私は物言うのを止めねばならぬ」だったので、ばちんと閉じて唇を噛んだ。

 中村稔「私は物言うのを止めねばならぬ」は震災の詩で、第1連は花弁がおちて道に敷きつめられた桜の光景から始まる。その直後の第2連に、「津波に攫われた幾千の人々の阿鼻叫喚を/耳を澄ましても聞くことはできないから/私は物言うのを止めねばならぬ。」と、烈火のごとき問題提起が示されている。

 詩評をしたいとおもうほど詩のことを知ってはいないのでこれ以上なにか詩について言うのはよしたいが、そもそも、あまりにも言葉が暴力的に殴りかかってくるので、詩を読むのに無防備ではいけないのだ。しまったなあと、電車から降りるまで、後悔しつづけていた。とはいえ、この後悔は、詩にうっかりぶつかったことに対する後悔ではない。

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 わたしは津波に乗り遅れている。

 3.11の時点は、空の上にいた。それからの5日間、ドバイにいた。テレビにかじりつくことは一切しなかった、ホテルのロビーに飛んでいるWifiを使って、ツイッターだけ少しやっていた。日本にもどっても、一人で東京に暮して、テレビを見なかったし、Youtubeもみない。それが日常だったので、とくに強いて習慣を変えようとは思わなかった。震災をスキップして、今もわたしの生活が続いている。わたしの生活は日本から疎外されつづけている。

 3.11以前どおりの日常を送るわたしを尻目に、政治も社会も経済も文学も芸術もなにもかもが3.11を経験して変化してゆく。困ったなと思って、いろいろと情報を得てはそれっぽい、「3.11を経験したっぽい」、意見とか見解とか認識をあつらえてみるのだけど、うまくいかなかった。自分ではうまく作れたつもりだったのだが、結果的にうまくなかった。「それっぽい」ことを言うのに長けているはずだったけれど、わたしのはりぼて職人としての未熟な腕は、あの大きい(らしい)衝撃には耐ええなかった。

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 いわゆる「震災後小説」をたくさん読んだ。詩も読んだ。震災前の「原発小説」も読んだ。だめもとで音楽も聴いた。音楽はやっぱりだめだった。それから新聞の投書も読んだ。だんだん気分が悪くなってきた。悪趣味な物語を、わざと集めて、わたしがそれらを好きこのんで読んでいるような気がしてきた。わたしが悪趣味で、というかわたしの行為が悪であるような気がした。そういうふうに疑似体験をへて、だれかの悲しみをうつしとってさも自分のものであるかのように悲しみ、あまつさえそれを自己内面化して「なかまいり」を果たそうとする自分は、詐欺をはたらいている。自分自身を破壊してしまうほどの大きな嘘をついていると思った。

 いまはもう、そういうことはやらない。わたしは疎外されることを受け入れるほうがましだと判断した、過去には戻れない。もちろん、経験した側をうらやましいとは決して思わない、けれど「いいなあ」などと言われる謂れも絶対にない。頭にこびりついている。「経験した」人間たちが渾身の力を込めて伝えた怒りも悲しみも、文章として、あるいは映像、あるいは声として、こびりついて落ちてくれない。

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 「絆」は、訓読みしたら「ほだす」じゃないか、とかなんとかいろいろ言われて叩かれていた記憶もあるけれど、「絆」という表現が美しすぎる点はさておき、3.11がもたらした連帯意識はまちがいなくあなたがたを纏めている。美しくまとめもすれば、厭らしくまとめもするのだろうが、とにかくあなたがたは連帯している。

 わたしは自分がこれからこの国でどうやって生きていけばいいかわからない。3.11を知らない。わたしが知っている唯一の3.11は、異国の地にて、わたしの隣で家族を心配して異様なまでに取り乱していた親友の女だけだ。

 「おまえは震災を知らないくせに、物を言う資格があると思っているのか」と糾弾されつづけるだろうと、あれからずっと感じている。「私は物言うのを止めねばならぬ」とは思わない。何を言っても受け入れられないかもしれないという恐れを、一生拭い去ることができないというだけだ。「経験した」人間たちの表した真剣な怒りと悲しみの言葉たちがわたしをいつでも叱り続けている。