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失われた痛みのその先にて

ミニスカートが穿けなくなった。

全身鏡に映る自分のミニスカート姿がちぐはぐだった。その過分に露出した脚のはつらつとした様子が、この世に興ざめしたような顔とあまりにもかけ離れており、見ていられなかった。
脱いで、忌み児を隠すようにクローゼットに突っ込んで、膝丈のものに着替えた。今度は安心して見られた。
変身した自分の姿を見て心底安心したことに絶句した。

一年ほど前に会社の先輩の女性と酒を飲んだ。四十代の女性の先輩。
特に仲良くはない。普段から仕事の話以外はしない。その日も指導のために呼び出され、指導を受けた。
まっすぐな人で、ぐいぐい酒を飲む。私も注がれるがまま飲む。

すっかり酔っ払った彼女はくだをまく。
「スカートが短い!」と言ってワイングラスを振る。
はい、すみません。と返事をする。若いもんで、と腹のうちで思う。
翌日も丈の短いスカートで普通に出社する。
その翌日も。
一週間後、ネットで買った膝丈のスカートが家に届いた。

衣替えをしていて、不穏な段ボールを見つけた。こわごわ開けると、古い手帳がいくつも出てきたので悲鳴をあげた。
一つ手に取ってみると、2012年とある。そのころ私は21歳だった。
書いてあることのほとんど全てが、なんのことだかわからない。記憶にない名前や記憶にない出来事が綴られている。とうに終わっている男とぐずぐず続いていて、とてもかわいそう。他人事である。まったく憶えていない。

まったく憶えていないが、「私は他人に求めすぎる」と走り書きしてあるのを見つけて、ああここが転換点だったか、と遠い日を思う。

誕生日の長文のなかに、「大切な人たちに寄生せずに生きていたい。植物のようにひとりで完結していたい」とある。ここから先に進んだ先の今か、と道程に思い馳せる。

「空虚な嫉妬は宛先をもてずに言葉を焦がす。イルムゼン。」とある。イルムゼンとはなんだろう?
その日、女友達と、女友達の恋人と、三人で夜中に手を繋いで下北沢から歩いて帰ったそうだ。そんなこともあっただろうか。記憶の底をさぐる。
親友同士の二人組の真ん中に招き入れられて深夜の池袋を歩いた夏のことも記してある。都電荒川線に沿って夜空に揺れる薔薇をなんとなく憶えている。
これが始まりだったのだろうか。二人と一人でいることのどこか寂しい心地よさを今も愛している。

今、とても大切に思っている友人に、身に余るような称賛をもらった喜びが記録されている。
「灼け爛れそうなくらい素敵だと思っています」と言ってもらったそうだ。まるで恋だ。「苦虫を噛み潰すような思いをしながら、それでも真っ向から感情を観察することのできるあなたには、美談に終始するような人には辿り着けない豊かさがあるはずです」と言ってもらったそうだ。
読んでいて赤面する。こんなことを、本当に自分が言われたのか。うまく思い出せない。
けれどこの熱い賛辞が、この今の私の礎を成していることがはっきりとわかる。
忘れてしまったあの頃と私が地続きにある。

昔の出来事をさっぱり忘れてしまっていることを、どう受け止めればいいのだろう。
かつての自分が残した記述のうち、前向きな、未来を志向した言葉たちは、今の自分の一部であることがわかる。
痛みはどうだろう。痛みは、悲しみは、苦しみや切なさは、私の一部になっているのだろうか。
それとも、失われてしまったのだろうか。

去年の夏服を引っ張りだして並べてみると、丈の短い服ばかりだった。
これまで夏に長いスカートを穿くたびに、布が太ももに纏わりついて鬱陶しいと感じていた。不快な感覚があざやかに蘇る。
この記憶だって、長い丈に慣れきってしまえば、消え去って思い出せもしなくなるのだろう。
また数枚の長いスカートを買った。

痛みは、忘れ去られ、消え去り、失われる。
しかし決して無かったことにはならない。
痛みは、取り返しのつかないほどに人を変えるのだろう。痛みこそが人の進むべき道を決定するのだろう。
そこに正しさは介在しない。善も悪もない。

私はこれからも痛みによって、自覚もできないまま変化していくのだろう。望みもしない方へ。望んでいなかったとさえ思いつかない形へ。
その変化に応じることができるのが幸なのか不幸なのか、最後まできっとわからないままだろう。
ある日、突然立ち尽くすのかもしれない。ここは一体どこなのだろうかと。
立ち尽くしてしまったら、もう先には進めないのかもしれない。