インターネットに向いてない

「友人にはね、あんたはインターネットに向いてない、って言われるよ」

作った笑顔で流暢に語り、そう言い放つ彼女と私はインターネットを通じて出会った。長いこと、インターネットにとりとめもなく文章を放り投げていた。ただひとえに、書けるからだ。書くことしかできないからだ。踊れたら踊っただろうし、弾けたら弾いただろう。走れたら走っただろう。全部やった。そこそこうまくいった。それでも、自分に寄り添うためには、ただ書くことしかできなかった。話すことすらできなかった。自分に、そして自分に寄り添っている大きなものに寄り添うためには。しかつめらしい大義名分なんかなかった。小瓶に誰にあてるでもない手紙を詰め込んで海に放り投げるみたいに、ダイヤルを適当に回して見知らぬ相手に電話をかけるみたいに、気ままにインターネットに文章をぶん投げた。地球にゴミの埋立場が見当たらなくなったら宇宙に飛ばすらしいじゃない。あれみたいなものだ。

彼女もインターネットに文章を投げていた。でも私のそれが糸くずみたいなうにゃうにゃの線だとしたら、彼女のそれはきちんと輪をなしていた。輪というのは文明において有用性がある。彼女の投げた輪はあらゆる未知の惑星で文明の端緒とされただろう。輪を量産している良質な放流主である彼女と私との共通点は、投げるものをもっているというただその一点だった。そこに投げてよさそうなものがある、投げたくなるものがある、投げるべきものがある、だから投げる、ただそれが彼女との共通点だった。技術に差があることは、重大だけれど些事だった。技術なんてのは鍛錬でどうにかなる。鍛錬は時間さえかければ何とでもなる。
重要なのは、投げていることに自覚的かどうかだった。
彼女は私を受け入れもしないが、拒絶もしなかった。
ただ、私が投げていることに自覚的な人間だということで、彼女の世界に招き入れてくれたのだった。

「そうかなあ」
「私の書いたものを読んで、何か言ってやろうとする人間がね、やっぱりたまにいるよ。悪意だか好意だかは知らない。その方法は模倣だったり攻撃だったり崇敬だったり服従だったり、いろいろだよ」
「うへえ、自己投影だ」
「でもね、それらすべての者どもが、内面を持たない」
「人格を持たない?」
「そう。書け、と思う。借りてくるな、と思う。書きもせずに、自分が何者であるかを言うことすらできないのならば、人格として認めることはできない」

渋谷の、スクランブル交差点で具合が悪くなるという友人がいる。
共感した。すれ違う人間すべてにそれぞれ人生があると思うと、吐きそうになる。そのすべての人間の人生に物語があり同情すべき側面があり慈しむべき側面があり理解するべき側面があり軽蔑される悪癖があり何かによって形成されたぼろぼろの道徳観があり優しくされる理由を持っており愛される要素を持っているのだと思うと、スクランブル交差点の、まさに交差点で崩れ落ちて、吐きそうになる。TSUTAYAを尻目に。あるいは交番に背を向けて。
私とその友人はこの感覚を共有していて、時折慰め合う。
そしておそらくはお互いに、そんなこと考えなくていいのに、と思っている。理性ではわかっているが、感覚で吐いているのだ。

「認めることができない」とは文字通り「認識できない」という意味だ。彼女は自分が評価する側だとか判定を下す側だとかいう意識は一切ない。純粋に、「人格を持った人間として認識できない」と言っているのだ。

おこがましかったのは私たちのほうかもしれない。関わる、踏み込んでいく、ための扉を開いてもらってすらいない相手について、それこそすれ違っただけの人間に対して、「この人も人間なのだ」と思い馳せて勝手に傷つくのは、傲慢だったかもしれない。
彼女の言をきいたとき、私は確かに己の全知志向を恥じた。
恥じながら、けれど思った。あんたはインターネットに向いてるよ、と。

どういう自然環境に育って、どういう家庭環境に育って、どういう道徳を植えつけられて、誰に影響を受けて、誰に軽蔑を抱いて、どういう思想を形成して、何を読んで、誰に出会って、どんな苦しい思いをして、どういう選択をして、どういうことを優先して、守るべきもののために何を切り捨てて、あなたは今のあなたになったのか。
そういうことを知って、ようやくあなたが誰だかわかる。これからあなたについて何を知りたいか、考えられる。自分があなたと仲良くなりたいのはなぜか、自分があなたと仲良くなりたくないのはなぜか、あなたが何者だかきちんと提示してくれてはじめて真剣に考えられる。

スクランブル交差点ですれ違う名もない人間に、SNSですれ違うだけの名もない人間に、「私はこのような人間だ」と叫び散らかしていない人間に、かかずらうだけの時間がないことを彼女は重々承知しているのだ。
人生は、長いようで短いのだと。体力は時間とともにあるのだと。誰かと関わっている時に、他の誰かと関わることはできないのだと。

「インターネット、向いてると思うけどなあ」 
「そう?」
「誰に真摯に向き合うべきか、あなたみたいにきちんと基準を持って臨むことこそ、顔の見えない場所での本当の礼儀だと思う」