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けれちゃんの癇癪 その1

いやいやいや。どうなっとんのかと。
なぜ私が私の書いたものの外部なのかと。
なんで私が部外者なのかと。

修辞というのがありますから。はい。言葉を修めるわけですわ。
表現と効果の関係はね、そりゃ解説できますよ。ああこの表現にはこのような効果がありますねと。この文章の味わいはここがポイントですねと。

どんなに良いねと言われたところで、私それ別に狙ってやってないんですよ。狙ってやれてないんですよ。
おもしろいと思ってやったこと全部すべるんですよ。
修まってないんすわ。ぜんっぜん修まってない。
こないださあなんか空気系の邦画っぽい小説でも書こうと思って、三好三芳っていう女の子つくって。まあいいじゃん。いい名前。それで彼氏の名前を小田急太にしたんすよ。おもしろいと思って。そしたらもうだだすべりよ。だだすべり。「なんでそこで笑い取りにいったわけ?」って大ブーイングですよ。どうなってんの。キュータ。絶対おもしろいと思ってにやにやしながら書いてたわけよ。「名前? 両親が小田急線で恋に落ちたから」「しかも偶然お父さんの名前が小田で?」「入り婿なんだよね。父が鉄道オタクで」「え、それって」「名前に恋したのかなあ、母の」「冗談でしょ?」だだすべりした。確かに改めて書いてみると全然おもしろくない。そもそも私が小説を書かないのは自分の創出するキャラクターの寒さに耐えられないからです。

いや、小田急太の話はいいんだよ。
私が文句言いたいのはなんで私が私の書いたものの部外者になってしまうのかってことよ。
もう書いたそばからよ、書いたそばから離れてくわけ。
主張したいこととか説明したいことは書けるんですよ。Aが極力正確にAを指すために求められるのは「正しい文法」ですからね、そのくらいは書けますよ。私てにをはノイローゼですし。今書いた「私てにをはノイローゼですし」には「私てにをはノイローゼですし」以上の意味はないので大丈夫なんですよ。

そうじゃなくて問題は官能の保存ですよ。
官能があるんですよ、標本にしたい官能体験が。
私はその標本作成作業として文章を書いているわけですよ。いつも言っていることですが、記憶の外部保存の精度を上げ続けて完璧に到達することが私の至上命題なんですよ。より美しい標本をつくるんですよ。
それがもう、全部だめになる。
ぜーーーーんぶだめになる。
触れてはならない頬に触れてしまった時の私のあの自尊心を裏切った屈辱感と後悔と崩壊の恐怖と甘やかな指先の感触とで後ろめたい性欲でいっぱいになって腐りかけの果実のようないたずらに甘ったるく重苦しい芳香をくゆらせる狭い納屋に閉じ込められたようになってしまったあの時の感情をねえ、ほらもう離れた、ほら書いたそばからもう私を離れましたよ。こんないいかげんな比喩じゃ全然だめ。矮小化どころの騒ぎじゃないです。まったく別の何かですよこれでは。だってあなたこの「あの時の感情」がどんな感情か読み取れましたか? 「あの時の」と同じ感情に胸を焼いていただけましたか? ませんでしたよね? ナニコレ珍百景だよ、少なくとも私は自分で読み返してもナニコレ珍百景だと思ったよ。

じゃあ描写したら残せるんですかと。
手法に写実を選べば多少はましなんですかと。
お得意の説明文ならいけるんですかと。

あなたに触れたいと最初に思ってからもう数か月、電話越しの声を聴いては繰り返し慕情に身もだえしていた。生身が成就してしまってはあえなく消滅してしまう慕情だとも予感していた。予感していたから禁じていた。禁じることによってしか守れないものが自分のうちに芽生えることは少なくなかった。けれどいつだって迂闊に壊してしまう。迂闊に触れて、杜撰な動作で、不器用な指先であっけなく壊してしまう。数か月越しに再会したのはよく晴れた海辺だった。海辺だが海の見えない部屋を一つ、自分の為に準備してあった。迂闊に触れることを禁じるために準備していた。なのに。沈黙が支配する。後ろ手でドアを閉めた瞬間からずっと無音だった。カーテンを閉め切った暗い室内。私たちの囁きと衣擦れの音を聴くものは誰もない。

あっ……? これは……?
自分で書いておいて何ですが……これはまあまあエロいのでは?
エロいですが標本したかった官能とは完全に別物です。偽物の官能が創作されました。物語を収斂させるために事象を取捨選択し装飾し彩色し時には脱色し、時間を捻じ曲げ事実を捻じ曲げ場面すら捻じ曲げることを厭わない。記述のほうが優先だからです。一旦記述が始まれば、その運動に乗ることしかできない。出発地点だけが同じで、進むごとにずれは拡がり、最後には完全に乖離してしまう。

この、記述の運動に乗ることしかできない自分が、いったい何を書いているのか私にはさっぱりわからないのです。

保存という目的と離れて、結果が全く別のところに出現する。
作者である私が作品にとってはすでに完全なる部外者で、部外者が言い過ぎだとしても、せいぜい媒介者でしかないのが不安なのです。
出来上がったものがそこそこの価値をともなっているのならばそれでも許されよう。価値があると確信できるなら私はこの記述の運動にすべてを委ねていくらでも書き続けることができます。
でもそうじゃないのが酷い。私は天才じゃないので、運動にゆだねて記述するだけでは良いものにならない。
なのにコントロールができない。無理にコントロールしようとすればあの(小田急太の)無様な有様ってわけよ(無様な有様ってウケる、どっちだよ)。全然おもしろくない。私は私の書いたものが本当に好きじゃない。いつだって、ぜんっぜん良いと思えない。良いと言ってくれる奇特な方がいるからそこに甘えて書いているが(そしてその奇特な方と出会うことだけが私の人生の意味だと思うが)、私自身は自分の文体とか文章総体が本当に嫌い。ダサいし読みにくいなと思う。べったりしていて野暮ったくてやかましい。考えて書いても考えずに書いてもそれは同じことで。

作ったものに価値があるという確信が持てないから、じゃあ標本という役割を与えてやろうと。私は自分の行為を正当化したくて役割をあてがったのかもしれない。
自己欺瞞に気づいていて苦しい。ちゃんとわかってる。ただ書きたいから書いてるのにそれに意義を与えようとしている作為に気づいてる。
でも、限られた時間をそれに割り当てるのに「ただしたいから」という理由では弱いんだ。すべきことを蹴り倒して書き物に時間を充てるには確固たる理由や信念がほしいんだ。目的が欲しいんだ。許してほしい。許されたい。差し置いているすべてに、それなら仕方ないねと許されたいのです。

弱い。知力が弱すぎる。私の知力は壮大な建築物の設計に堪え得ない。

一体どうすればいいんだ。もういやだ。もうもうもういやだ。自分を内部にするだけの知力か、自分が作品にとって完全なる外部であっても平気でいられるだけの天才か、どちらか一方でいいから欲しい。
そうでなければ私のこの喘ぎをなだめるだけの優しくて堅固な理論が欲しい。欲しいよ。あーあ。ほんと無理。頭が悪すぎる。死にたい。

束幅が1cmにも満たない薄い文庫本を、もう2か月も3か月も読み続けていて、それがどうにも今の私にとって理想的きわまりない作品なので、ついに気がくるってしまいました。人生はつづく。