見出し画像

インディゴの種を蒔かない

この夏、肉を食べてないの。

女友だちが「字義通りの草食である人とデートをしたら体臭がなかった」って話してたのがうらやましくなって。
わたしも肉を食べるのをやめたの。
肉を食べるのをやめると、脱いだ服からにおいが立たなくなった。

わたしには人のにおいが分からない。
というか、とおる君のにおいが分からない。

かつてわたしはとおる君は無臭だと思ってくっついていた。
とおる君は薄っぺらで体温が低いので体のにおいがなくて、わたしはぶ厚いからにおいがあるんだろうなって思ってた。
体臭がないよねって言ったら、そんなことはないよと返事された。
でもにおいしないよって言ったら、あなたにはレセプターがないんだねと返事された。
レセプター。
犬と狼と山犬を仕分ける語彙の有無みたいな。
アメリカ人には虹は六色に見えますみたいな。
あるのかあ。ないのにな。
わたしの世界にとおる君のにおいが存在しないのがウケる。
誰かの世界にはとおる君のにおいが存在するらしいことも。

わたしの世界にとおる君のにおいが存在しないのに、春の雨の朝に利用客が増えてぎゅうぎゅうに詰め込まれた通勤電車の蒸した空気の中にはいろいろな人間のいろいろな内臓のにおいが立ち込めて、呼吸するのがいやで仕方なくなる。
なんでとおる君のにおいのレセプターがないのに左隣でわたしを圧迫するクソデブの汗と脂とカロリーとふやけて剥がれた皮膚のまじった臭いは感知できるんだろう。自分の嗅覚のセンスの無さにうんざりする。なんで右隣の鋭角ハゲがまともに歯科にも通っていないのに気づかなきゃいけないんだろう。
わたしの体はとおる君のためにだけしか開かれなくていいのに。ぜんぜんウケない。死にたい気分になる。わたしの世界にこんな最悪すぎるにおいしか存在しないことに絶望する。
こんなにおいしか存在しない世界に生きるわたしの体もはさみで切り開けばこういう吐き気を催すような内臓のにおいがするんだろうなと思う。

とにかくわたしも肉を食べるのをやめた。早くも四週間。最近はスーパーで肉を見ると鼻をつまみたくなる。
野菜と魚は食べる。仕事をさぼってコンビニに行っても買えるものがちくわしかない。

肉を食べるのをやめて、わたしのにおいもこの世界からだんだん消尽してゆく。

わたしの世界からわたしのにおいがなくなれば、わたしもとおる君のにおいがするほうの世界に行けるかもしれないでしょ。
とおる君はふつうに肉を食べるから、とおる君のにおいもわたしのにおいもないってだけの世界になるかもしれないけど。
虹が五色になってもいいや。
とおる君のにおいがない世界にはわたしのにおいもなくていい。
ないほうがいい。なくなっちゃったほうがいい。


でもわかってるんだ、とおる君もはさみで開けば内臓のにおいがする。
レセプターね。レセプター。
わたしにはないそれを誰が持っているんだろう。