2070年朝の連続テレビ小説

何度も唱えすぎた言葉は異国の呪文のように中身を失う。「生きることは一人であること」を繰り返し確認して、繰り返し繰り返し確認して、確認して確認して確認しているうちに、初めはたしかにそこにこもっていた、ひりひりした寂しさも石を飲み込んだような苦しさも途方もない絶望も、それらを抱えきれなくなって仕方なしに受け入れた諦念も、孤独であれば失うものなどないのだと逆説的に見出したちょっとした希望という皮肉も、すべて、形だけ残して色を失くしてしまった。
ところが、骨だけ残して化石となって生きた色を失ってしまったはずのそれらが、時折ふいに騒ぎ始める。死骸たちの宴。亡霊たちが歌うその声は耳をつんざく金属音に幽かな悲鳴をまぜた険しいもので、私は胸を掻き乱されて疲弊する。形骸化したことに安心して油断しきっているので、動揺ははげしい。

「あなたはもう、そのまま物語を追い求めて怒涛の人生を生きて、一人で死んで、朝ドラになりましょう」

赤々と机上に果てしなく広がる羊の生肉を一枚、箸で掬いながら、梶先輩がわたしをからかう。齢26にしてあっさり結婚し、文京区は春日に愛の巣を構えた梶先輩。大学時代には顔見知りにすぎなかった憧れの先輩と、卒業後にひょんなことから親しくなり、5人組で遊びに出かけるようになったのはもう4年も前のことだ。
梶先輩に何度「好きです」と話しかけても適当に無視され適当に拒絶されてきた。無視して拒絶して「僕には人に語るべき物語は生じないですねえ」と笑って見せる梶先輩が、私に「一人で死ね」と言う。

「それいい、そうしなよ、それしかないよ」

婚約者との同棲を控えて部屋探しに走り回っているかの子ちゃんが大きく笑いながら高い声で叫ぶ。それしかないよ。神楽坂か麻布十番で悩んでるんだけど。それしかないよ。

「朝ドラかあ。異例の1話完結型とかどう?」

浪人時代に本を貸し借りして芽生えた恋を大切に育て、7年間浮気もせずに付き合ってきた彼女と滞りなく挙式。指輪の代わりに絵を買って新居の居間に飾っている清川さんものんびり笑って同意。絵は資産になるからね。

いやいや、朝から国民の皆さまにこんな見苦しい爛れた生き様、えってかなんで朝ドラ?、お見せできませんよこんなの。昼でもダメだよ。

「大丈夫ですよ、50年後には社会はもっと自由になっていますから」
「そうだね、性表現にも大胆な寛容さを見せる」
梶先輩の無邪気な笑顔。清川さんの微笑み。

「絶対おもしろいじゃん、超見たいそれ」

東京生まれ東京育ち、さんざっぱら遊び散らかして仲間内で最初に結婚して、元彼と同じ名前の旦那と江戸川橋に暮らしているミカ先輩がにやにやしながら煽る。爛れた生き様ねえ。爛れた生き様。あははは。たしか爛れてるわな。

広大な大地に畝を作るように折り重なって赤く美しく生々しく光り輝く羊の生肉をわたしも一枚掬って口に運ぶ。油分が口の中でもきらきら光る。
わかっている。梶先輩が言うまでもなく、一人で死ぬ。梶先輩に言われたからには尚更、一人で死ぬ。

誰かとセットである他人のことを、恋人達とかそういう者ものを、かつては素直に羨み自分も誰かとそうなりたいそうなって初めて安堵だ安寧だと焦燥に駆られて汗ばんでいたはずだったが、いつからかはっきりとシンプルに「気持ち悪い」と感じるようになった。簡単な語彙。
一年ほど前にその気分を手帳にメモして、セットになっている人間を拒絶することを神に誓った。
「気持ち悪い」と書いた。「グロテスク」とも書いた。「あの塊」と書いた。「身の毛がよだつ」とまで書いた。言葉は気分に追いついたのち私を追い抜いて、神託に変わる。

梶先輩に「一人で死ね」と言われて、正面から一人であることを突き付けられてさすがに動揺したらしい。手帳にメモしたその気分が唐突によみがえった。
気持ち悪い、グロテスク、身の毛がよだつあの塊。どうぞお幸せにあの塊。怖いあの塊。お母さんあの塊怖い、目が四つ、手も足も四つある。怖いよ。鼻と口が二つ、二つ、あっ、一つ、一つになったさっきは二つあったのに気持ち悪い、お母さん怖い、手も三本になったよあの塊怖いよお母さん、あの塊お母さんもあの塊なの? わたしもあの塊から産まれたの? いや、いやだ、怖いよいやだよ気持ち悪い。気持ち悪いよ、あの塊気持ち悪い。ああ、足が三つになったよ。いやだ。怖い。やめて。

「……ということがあって、“寂しい”を思い出した」
「大丈夫、しばらくわたしがいる」

泣きついた先は親友の女。何でも話せる間柄。人気者の彼女は常に誰かといる。よくもまあぬけぬけと。何が大丈夫なんだ。あなたのような、必ず誰かがいる人間がぬけぬけと。

「嘘つき」
「うそじゃないよ」
「信じません。すぐいなくなるくせに」

遅かれ早かれ私のそばを離れて誰かと寄り添うであろう人には心のすべてを委ねません。委ねられません。きっとあなたもやがて私のもとを去る。そうしたら私はまた泣いてしまう。だから委ねません。私はもう泣きたくない。すべての人はそうして誰かと寄り添いあうために私の傍を離れてゆく。私は演繹法を知っているからそうなることがわかる。私は一人で死ぬ。誰にも心を委ねません。心を委ねません。心を委ねません。委ねません。委ねません。委ねません。繰り返し唱えているうちに形骸化する。今この呪文が豊かに含んでいるしめりけも、孤独の鮮やかな色も、搔き毟るような苛立ちも呻き声も、すべて色褪せる。腐り落ちる。気化する。蒸発する。余韻も残り香も残さず消え去る。呪文だけが残る。そうして平気になる。何も感じなくなる。何も感じずに唱えられるようになる。委ねません。心を委ねません。そうやって呪文を繰り返し口ずさんでいるうちに強くなってどこまでも果てしなく強くなってそうして一人で死ぬ。爛れた生き様ののち一人で死ぬ。行く先はオープニングにツァラトゥストラかく語りきの流れる2070年朝の連続テレビ小説。猿の土地に黒々とモノリスが降る。