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水曜日の日記

2018年9月12日(水)くもり

AM 6:15
目が覚めてよかった。
昨晩、同僚の女の子とふたりで「こんなふうにふたりっきりなんだからほんとは恋バナばっかりしてたいのになんで私たちえんえん社内政治の話してるの、最悪すぎる」と言いながらなみなみ注がれたワインを煽っていたので、無理かもしれないと思いながら寝たのであった。
今日は夜に映画を予約してある。

AM 11:00
出社してからずっとメールを返しているが、返しても返してもメールがくる。地獄。

正午
今日のお昼ごはんはピーマンと茄子をレンジでチンしたものと、木綿豆腐(「豆腐があればいい」という商品名)、羊羹。羊羹すき。
お昼ごはんのお供は絲山秋子「沖で待つ」。7年ぶりくらいに読んだ。絲山秋子は温度感の操作が上手い。モチーフや出来事や特定のセリフがどのくらいの湿り気を帯びどのくらい粘りどのくらいの温度をもつのか、よく観察してかなり慎重に見極めたうえで「低いもの」を選ぶことに長けている。それであるから、彼女は人物の執着心を完全にコントロールできている。
書き続けている女性作家達は、情緒にほだされない。

PM 2:50
仕事相手からの進捗報告メールに「これでリラックスしてください」という追伸がついている。開くと、グスタフ・レオンハルトの弾くゴルトベルクの動画であった。25分47秒のところから始まる。
https://www.youtube.com/watch?v=iSXj48lkFew&t=1547s
えらく中途半端な始まりで、聴きながらいいなと思って送ってくださったのだろう。

PM 3:20
偉いおじいさんから会いたいとメールがくる。超びびる。

PM 5:50
16時頃にまた突発的に始まったレクチャーが定時を過ぎても終わらないが、先輩の優しさなのでありがたく受け取る。

PM 6:15
レクチャーが終わり、職場から電話をかける。
一度やってみたかった。昭和のOLがトレンディドラマでやってる、私用電話。ただし用件は半公用である。
いつも早々に帰る同僚らが今日に限って居残っておしゃべりしている。念波を飛ばして帰るよう促すが帰る気配が全くない。
もしもし。どうされましたか。
私に会いたいらしい偉いおじいさんがいるのですが、どんなおじいさんなのかご存じないですか。
悪い噂を聞いたことはないけど、詳しくは知らないなあ。ごめんね。
いえ、ご相談できただけで少し安心しました。ありがとう。
偉いおじいさんがヤバいおじいさんでないことが確認できたため、安堵。もう少し電話を続けていたかったが切り上げる。

PM 8:00
度重なる先輩のレクチャーのため滞っていた報告書を作成。
社会を舐めきっているので報告書に「〇〇←めっちゃ大変!」という表現を用いる。

PM 9:00
有楽町のヒューマントラストで『寝ても覚めても』を観る。
劇場に向かいながらTwitterを読んでいたら「『寝ても覚めても』のクラブシーンは最悪」という情報でTLが埋め尽くされていた。なんなんだ。

PM 11:00
『寝ても覚めても』のクラブシーンは最悪。

PM 11:50
濱口竜介の作品を観るのは2012年に今はなき渋谷オーディトリウムでオールナイト上映の『親密さ』を観て以来であった。
予告編
https://www.youtube.com/watch?v=9Kh-8kt79zw
大筋としては演劇をやる若者数名の人間模様と彼らがやる演劇をまるごとおさめてあるのが本作品。5時間弱ある。当時22歳だった私は自分が演劇的身体に極端な苦手意識をもっていることにも気づいておらず、なぜこんなにも気分を害しているのか説明できないまま爆ギレしながら映画館を後にした。映画に何を見ればいいのかもよくわかっておらず、観た人(全員シネフィルである)が軒並み絶賛しているのも居心地が悪かった。『寝ても覚めても』を観て、始まって即座に2012年の自分が感じたのとまったく同じ嫌悪感に包まれたのでチャンスだと思った。あれほど話題になった『ハッピーアワー』をあえてスキップして、6年。ようやくあれが何なのかを突き止める機会がめぐってきた。

AM 0:30
濱口は「上手に現実を写し取る」ことをせず、映画の中に「演劇」を残し続ける。ラインハルトの言うところの〈第四の壁〉は映画において巨大なスクリーンとなり、境界の把握不可能性がその壁の透明度を上げる。また映画では舞台装置も演劇舞台とは異なり現実に即している場合が多く、役者の演技もそれに従って我々観者の現実世界での身体に漸近してくる。だがしかし濱口は役者にそれを許さない(と仮定しよう)。私は2012年に初めて濱口を観てこれは濱口の監督としての未熟さゆえの失敗だと思って激怒していた。演劇を映画に込めることが映画にとって必要なことなのか、映画にとって幸福なことなのか? そうではないと半ば感情的に判断した。ただの身勝手な実験に5時間も付き合わされたことに心底腹を立てていた。しかし6年の歳月がたってもなお濱口は演劇を映画に持ち込み続けている。作中で演劇作品が上演される『親密さ』は映画内演劇ではなく映画内演劇内演劇であり、映画という皮膚を限りなく薄くし映画を愚弄するものに思えた。『寝ても覚めても』でも演劇がモチーフとして登場するが、それが虚構であると宣言されている方がまだ安堵して見ていられるくらい、無宣言の演劇がそこに不法侵入して映画を凌辱している。
私は観賞直後「クラブシーンのあのヤバさが全編を通底している」と述べた。『寝ても覚めても』のクラブシーンはあまりにも酷いものであった。数分間、鳥肌が立ち続ける経験をする(「ダサい」ということに対するこの生理的な嫌悪感は一体どういう仕組みなのだろう)。耳をふさぎたくなるDJの選曲、あまりのみっともなさに目を覆ってしまうダンス、フロアの人間は全員イトーヨーカドーの2階で服を買っており、しかも全員初めてクラブという場所に来ているので居場所をうまく見つけられずぎこちない。誰も酒を飲んでいないので気まずさが箱に充満する。あの青々と冷え切ったシーンを見つめる私の瞳は90年代の中国の露店で売られていたパチモンのLOUIS YUITTONを購入し安く買えたと大喜びで持ち歩いている近所のおばさんの痛ましさを憐れむ眼差しとそっくり同じものである。以後、全てのシーンでこれと同じ鳥肌が立ち続ける。私が関西で暮らしていた頃、無理に関西弁を使っているのを聞いた友人たちが優しさで耐えてくれただろうあの寒さである。
自分の規範や身体性から外れた行為やテンション、物言いを黙認し見なかったことにする時の、小さな棘を飲み込む感覚、魚の骨を苦心して飲み込む感覚。あのぞわぞわした感覚が通奏低音として観る者のからだをこわばらせ続ける、そういう気味の悪い映画作りをしているのが濱口ではないのか。その通奏低音の正体が、濱口がおこなう「映画に演劇を持ち込む」演出なのではないか。台詞の言葉選び、役者の顔立ち選び、演技指導、脚本のあまりの陳腐さ、観客をぎりぎり置いて行かない程度に早く展開するあのスピード感。全てが「現実らしさ」から50cmほど離れている。それは〈第四の壁〉の厚さである。映画が観客をのめり込ませるために躍起になって詰めようとしている、あの50cmを、そのままにしてあるのだ。その隙間に永遠にぞわぞわし続ける。
少し古くさい映像手法、画面構成。絶妙に安っぽい人間関係。小説用や漫画用に作られた、現実の口語に沿わない字面の台詞をわざとそのまま読ませているような言葉づかい。決して身体に従わせない、画面のなかを現実に近づけない、人物を世界になじませないための声の出し方。これら全て、その違和の50cmを保つために作為的に演出しているのではないのだとすれば、濱口はただの下手な監督であり、絶賛するシネフィルどもはそこにヘタウマやキッチュやバロック的な魅力を見出しているだけの幼稚な悪趣味とさえ言えよう。
こんなふうに煽っておきながら私はそれでも濱口が下手な監督ではないと断言できる。映画の終わりまで飽きさせない編集の才能がそれを端的に表しているためだ。だからこそあの50cmが作為であってほしいと願ってやまない。私の低い知能が生理的に耐えられないあの50cmの違和が。あの違和への耐えられなさゆえに、私は今後も濱口竜介の映画を避けつづけるだろう。『寝ても覚めても』がフランス映画だったらこんなことには気づかずに済んだ。カンヌの審査員がこれに気づいていたのか、気づいていなければ何を評価したのか、私にはよくわからない。
明日の通勤電車ではユリイカでも読もう。

AM 1:00
そういえば、今月末の約束では何を食べたいか聞いておかなきゃ。
きっとすっかり秋だな。何を着よう。
未来の約束ってだいすき。

AM 1:15
明日こそ何か気に入るものが書けますように。おやすみなさい。