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喧嘩してもなかよし

「ものすごく幼稚で、自分勝手な望みの話をしてもいい?」
「うーん、聞くだけ聞こう」

彼女のような〈正しい〉人にこの願望を打ち明けるのは、得策でないどころか悪手に違いない。わかっていながら、あまりにもリスクの高い賭けに出たくなってしまったのはどういった心境だったのだろう。
こんな異常な賭けに出るほど、後ろめたさが切羽詰まっていたとも思えない。
彼女専用の白い部屋で、出してもらったコーヒーが湯気を立てている。

「私、子供は欲しいけど、育てる自信はないの」
「ふうん」
「それから、男性と生活を共にするのも無理なの。彼らとは、恋愛しかできない」
「そう」
「だから、恋した男と作った子供を一緒に育ててくれる女の人が欲しい」

言い終えてしまうと、彼女を直視する勇気は残っておらず、震えながら視線を机上に落とした。
そんなに怖いなら言わなきゃいいのに。
彼女は数秒、無言で固まっていた。どんなに冷えきった目をしているかありありと想像できる。怒り、軽蔑。それも激しい怒りと激しい軽蔑。

「最低すぎるね、今すぐぶん殴りたい気分」
ちらりと目を上げてみると、呆れかえった口の開き方をしていた。ため息すらない。

「ごめん」
「いや、私に謝られても。気分は悪いけど、私の気分を害するってわかってて言ったんでしょ」
「わかってた」
「じゃあ謝るのはとんだ甘えだよ。まだ話したいことある? 言い訳とか」
「……ある」
「聞いてあげよう」
「最近、それが叶ってる小説を読んで、ずるいって思った」
「ああ」
「あなたみたいな〈正しい〉人たちがこぞって読んで、軒並み絶賛していて、なにそれって思った。偶然そういう状況になればそれは善で真の愛で、願って叶えたらそれは偽物で悪で卑しい行為なのかよ、って、むかついた。ていうか、あなたが絶賛していたのにむかついた。だから言った」
「ふうん」
「喧嘩を仕掛けてごめん」
「したかったんでしょ?」
「したかった」
「いいよ、しよう」

〈正しい〉人は、どう正しいのか。
政治的に正しいのか、倫理的に正しいのか、道徳的に正しいのか。
そのどれも違う。〈正しい〉人は集団の決めた「正しさ」を行使しているわけではない。ただ、卓越して、自身の主義主張に強固な理論や経験的な判断による確固たる裏付けを備えている。
結論の強度は思考の強度だ。彼ら彼女らは思考を放棄して多数派に身を委ねるような怠慢を許さない。

〈正しい〉人は決してその「正しさ」で他者を飲み込もうと欲望しない。
ただ独立している。独立していられる。
彼ら彼女らに惹かれ、対等に関係したいと望むのならば、そこにのぼっていかなければならない。その「正しさ」に惹かれ、そこに触れたいと望むのならば?

対峙するだけの強度が必要だ。
どんなに強く殴られても決して逃げ出さないだけの。

「そもそも、あなたの言う「善」とか「悪」がさ、何にとっての善悪なのかまともに考えられてないわけじゃん」
「それは、自分にとっての……」
「いいや違うね。だとしたら自分の願望が他人に許されないことにむかついたりしない。私にそんな望みを告白した後目をそらしたり、あまつさえ謝ったりなんかしない。あなたの善悪は社会的、いや道徳的な善悪だろうよ」
「私、道徳なんか、重視したことない」
「あっそう。知らないけど。じゃあ仮に自己に帰属する自由意志における善悪、正誤だとして。他者を利用することと他者と協働することに明確な区別を与えられないのは獣だよ、獣」
「ちょっと、確かに私の側から述べれば利用ともとれる願いだけど、望んでいるのは自然と協働の形をとることで、搾取じゃないよ」
「搾取じゃない! へえ!」

大きすぎないくっきりとした両眼と高く尖った鼻、薄く色の良い唇が総動員でわざとらしい驚きの表情で笑ってみせる。本当にいやな顔をする。外国映画みたいだ。
白い部屋で二人きりで向き合って話していると、呼吸も声音も伝わってくる。一切の誤魔化しがきかない。

「相手が心から望んで愛の下に私を手伝ってくれるのならば、搾取とは言わないんじゃない」
「心から! 愛の下に! 素晴らしいね、献身的ですね、美しいですねえ、ははあ、愛の下にね」
「なによ」
「愛ねえ、なるほどね、愛が搾取構造を帳消しにすると思っている。だあからそうやってあなたはいつまでもぐちぐちぐちぐち男を呪って恨みごとを言い続けることになるんだよ。ばっかじゃないの?」

私はぐうの音もでない。彼女は真剣な顔に戻って続けた。

「愛は不平等をうやむやにするために詐欺まがいの使い方をしていいものじゃない」
「うん」
「そのやりかたで、どれだけの搾取と暴力と犠牲が生まれてきたことか」
「そうだね」
「あれと同じことを、あなたが、繰り返すわけ?」
「……それはしたくない」
「うん、しないでほしい。するというのなら私はあなたを許せないし、この喧嘩を絶対に終えない」
「しないよ。撤回する」
「そう」

一息つく。不安が残る。大丈夫だろうか。私はただ相手に許されたくて、説得されたふりをしているだけなのではないか。やり過ごすために、嫌われないために、お為ごかしをしているのではないか。本当に理解し、心底から撤回しているのだろうか。
誤魔化したくない。逃げたくない。強度が欲しい。

冷めつつあるコーヒーに口をつけようとしたところで、あ、と彼女が小さく声をあげた。
真顔のままなので、話題が変わるわけではなさそうだ。
あれだけ間違っていたのに、まだ私は間違っているのか。しかし逃げない。逃げないぞ。ぐっと身を固くする。

「もう一つ最悪なのは、女の人なら、ってとこ。それさあ、お母さんが欲しくて結婚する男と何が違うの?」
「……でも私は」
「ヘテロとかバイとかどうでもいいよ。恋のことを引き合いに出していたけど、これはセクシャリティじゃなくてジェンダーの話。女であるあなたが女に「女の役割」を求めるのがどれだけ卑怯か自覚してる?」
「……」
「逆の立場で考えてみなよ」

それはそれはもう正論。
でも、誤りというよりは言葉が足りなかった。私は固くしていた身を少し緩め、息を吸って落ち着く。

「考えてるよ、私だって引き受けてるし、多分逆転しても引き受けられる。でも、全部はしんどいから分担できたらいいなと思っただけ。生物なんだから、セクシャリティだって関係あるよ。男性とは暮らせる気がしない。でも一人ではとても育てられない。だから女の人と一緒に、これまで女が担ってきた役割も、男が担ってきた役割も、二人ともが両方担って半分こできればいいなと思ったの」

彼女はふーんと言ってこちらを見る。声色が少し和んだように聞こえた。目が合っているが、威嚇の視線ではない気がする。

「じゃあ「女が欲しい」って言うのやめて、あと「先方の子連れも大歓迎」って言い添えたほうがいいかもね」
「そうだね、物言いをもう一度考えてみる」
「愛の用い方にも注意」
「愛でお為ごかさない」
「そう、愛で誤魔化さない」
「了解」
「まだむかついてる?」
「ううん、納得してる」

ようやく普通に笑った。
コーヒーは冷めきっていたが、喧嘩が終わったので出してもらっていたクッキーを食べた。バターの香りが高い。冷めたコーヒーにもよく合った。

「っていうか、〈正しい〉って何、気持ち悪いんだけど」
「思考に強度がある」
「じゃあそう言えよ」
「はは」
「正直その〈正しい〉ってのが一番イラっとした」
「ごめん、妬ましくてつい」
「別に自分がそれに該当するとも思わないけど」
「いやあ、その思考の強度、っていうか誤魔化しのなさ?、に触れたくて喧嘩をふっかけたようなもので」
「あっそう。別にいいけど。そんなことしなくても、好きなだけつければいいじゃん、強度とかいうやつ。2019年の抱負にすれば?」
「いやいや、一生ものの課題ですよ」
「あらやだ、そんなこと言ってると一生〈正しく〉なれないですよお」
「確かに……」
「物事はできるだけ具体的にしたほうがいい」
「では2019年は強度の獲得を目指すということで、頑張らせていただきますのでご指導の程よろしくお願いします。未熟者で大変恐縮いたしますが」
「はは、気分わっる、あと未熟とか本当にどうでもいい。あなたは本当にどうでもいいことを気にするよね、瑣末なことをさ」
「そうかなあ」
「そうだよ。大切なことは表面には現れない。悪辣な冗談と子供じみた甘えはほどほどに。こちらこそ今年もよろしく」

「ありがとう」
「どういたしまして」
「はあ、愛かあ」
「うん。愛ですよ」