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すべてがこうあるべきで、避けられないと感じ、さらに、もうどちらでもいい、という気になった

会いに来てくれると言うので、サンダルを引き摺るだらしない生足で指定のバーへ入店すると、奥の席で一人だけ絵画のようになっていた。

ひさしぶり。
久しぶり。
どう、最近。いいことあった?
特にないです。日々は過ぎゆくのみ。

夜の11時を回って、女はふたりとも、それぞれの今日の疲れを髪の先に湛えて、時々触ってそれを揺らしている。


人生にはいろいろなことが起こるけど、何もかもが起こり得ることなんだなって。最近しみじみ思うんだよね。
その日トラックに追突されて傷めたのだという鞭打ちの首でそう言って、ジントニックに口をつけている。真剣でもないが、茶化してもいない、普通の、ごく普通のトーンで話す。
なんだろ、友達が子どもを産み育てたり、すごく重い病気になったりもするし、ほら、彼、癌で亡くなったよね。死について、自分のこととして想像したこともなかったけど、交通事故だって普通にありうるだろうな。現に今日あったし。死ぬかと思った。はは。何が起こるかわかんないなって、そう言っちゃったら陳腐なんだけどさ、心の底からそう思う。

うん、わかる。そして、それが大丈夫なんだよね。平気ってわけじゃないし、強くなったなあとかじゃなくって、ただ大丈夫なんだよね。
そう。大丈夫なんだよ。気持ちが自分の人生からちょっと離れてるというか。まあ、こんなもんかな、って。思わない?
思う。私の人生は、まあこんなもんかなって感じでしょ。
そうそう。なんでだろ。あの頃、あんなに焦って苛立って、手に入れられるものはすべて手に入れようとしていたのにね。こんなものだな、って思うようになった。

今すぐ、ここで、私がぱっと消えてしまったとしても、まあそんなもんだろうなって、思う気がする。
動揺しない。嬉しくも悲しくもない。ただ、大丈夫な気がする。


遡ることひと月前。ふたり真昼の鰻屋で、肝を刺した串をつまみながら話している。

「あのひととはどうなったの」
「あのひと、って、どの」
「どのって、あのひとだよ」
「うん。あのひとね」
「会ってないの?」

「あのひと」がただ一人の「あのひと」であるとき、一番大切な人を指すのだった。

「会わないって二人で決めたから、会ってないよ」
「正しいなあ」
「正しさにしか愛は宿りませんからね」
「もう会わないの?」
「わからない。いずれ会うかもしれない。それは今ではないけれど」


ジントニックの音が鳴る。

今日、綺麗な服を着てるのね。よく似合ってる。
でしょ。私、気づいたの。隠しておけば、隠れている部分は人が勝手によろしく想像してくれるんだってこと。だから、ほんの少しだけ見えるようにして、あとは隠すの。
それは間違いなく世界の真理であり、大人っぽさの秘密だね。
そう、大人っぽさの秘密。
しかしどうしていつもいつも、綺麗なあなたがますます綺麗にしていて、綺麗でない私があまり綺麗にしていないときに限って私を呼び出すのかな、あなたという人は。
確かにその傾向にはあるね。どうしてだろう。大人っぽくしてると疲れるから、親しさに癒されたくなるんじゃないかな。
そうか、疲れるか。
疲れる。
世界の真理、疲れるよね。
ほんとにね。

髪の先に疲れが揺れている。


「あのね、恋愛関係であからさまに求められることがなくなると、すごく遠くなった。心が。ほら、もともと、尊敬の対象だったじゃない、あのひとって。遠い人であったところを、恋愛によってその隔たりを消しただけだったから」

午後二時の鰻屋は人が少ない。小声で話したいことを、ちゃんと小声で話せる。

「うん」
「だからね、今はあのひとのこと、ちょっと怖い」
「まったく同じ状況とはいかないけど、その気持ちを私も知っている気がする。多分。わかる気がするよ」
「うん、わかってもらえると思う」
「恋愛の相手の、恋愛にかかわらず尊敬している部分、自分より優れている部分って、怖いよね。自分がこうなりたいと思っている姿がそこにあるから」
「そう、恋によってそれを誤魔化しているような気すらしてくる」
「わかるよ」

「わかってくれてありがとう」
鰻の肝を前歯で串から引っ張りながら、泣きそうな笑いを浮かべるのだった。


あのひとね。
グラスの渕を唇に当てて小声で囁くと、ギムレットが揺れる。
ん?
あのひとのことなんだけど。
あのひとね。
会わない、なんて言ってたけど、会うことになっちゃった。今度。すぐ。舌の根も乾かぬうちに。はは。なーにが正しさの下に宿る愛だっつーの。
誕生日?
そ、誕生日。お祝いしてくれるって。
あははは、いいんじゃん。別になんだって起こるよ。大人だからね、なんだって起こる。
ありがとう。ふふ。笑っちゃったよ。すごく不誠実だ。でも、愛してるから仕方ないな。
矛盾の内包こそ愛、って?
そういうことにしといて。

なんだって起こるし、どっちだっていい、あるかたちはあるべきかたちをとり、すべてがこうあるべきで、避けられないと感じ、さらに、もうどちらでもいい気になった。
何それ。超わかる。
わかるでしょ。世界の真理ってやつ。
疲れないほうのね。