暫定回答

正しさについて考えることが増えた。

 以前より、自分ならこうするとケーススタディを頭の中で繰り返すことがあった。それは自分の中で自身の能力を高く評価していたため、それを正解とする節があったからだ。自分が弾き出す正解は何か、頭の中で何回も確認していた。
 しかし、実際は違っていた。自分が出せる回答は、自分自身を一番騙すエセ模範回答だった。『正しさ、それは自分と他者を認め、正々堂々と立ち振る舞うこと』、僕はそう思っていた。正々堂々とできることが人にも自分にも恥じない唯一のことだと信じていたのだ。
 現実を見れば、人を蹴落としながらも皆から愛される人間は少なくない。人を欺くまではいかないまでも、裏で情報工作する人は当然いる。僕はそんな人のことを低く評価していた。自分の実力で勝負しても勝てる試合をわざわざズルする必要ないじゃないかと。

 しかし、最近考え方が変わってきた。まず、存外そう思うやつは少ないということ。自分に100%の信頼は置けないのだ。だから成し遂げたいことの為にはコソコソしてなくちゃいけない。自分という因子以外に勝負をすることも正々堂々のうちだ。他者の評価を下げたり、出し抜いたりと、暗躍することはきっと必要なのだ。自分の実力は自分自身が一番知っている、なんてのはウソと思ってもいい。
 次に、多くのことはグレーで済ませた方が楽であるということ。白黒つけたくなる自分の性では納得しにくかった内容である。けど、今はほんの少し理解できた。
 自分が正々堂々とするには善悪をはっきりと決めなくてはならなかった。善と判断したことに対してのみ前を向く。悪と判断したことは、どんなものであれnonを言わなくてはいけない。けれど自分が思う『善』が、一人称視点の『独善』に過ぎなかった(ほんとはそんなこと信じたくもないんだけど)。きっと世界は自分に見えている範囲外がほとんどだし、自分の生活圏でさえまともに知っていることは少ない。だから、どれだけ『善』だと思っていても『独善』を抜けきれない。この『独善』が発する光が強過ぎて、自分の視界の外にあった影まで考慮できていなかった。

 この気づきが、小僧の僕をコソコソさせた。善も悪も自分1人の天秤じゃ分かんないし〜。自分にとっての善が、誰かの悪になってしまうのなら、僕はもう何もできないな。そんな気持ちになった。

 僕の好きな言葉にこんなものがある。「おお、私の身体よ、いつまでも私を問い続ける人間たらしめよ。」フランツ・ファノンの作品「黒い皮膚・白い仮面」を締め括る一文だ。ファノンが人種差別と向き合った末の叫びだと僕は感じた。
 自分がちっぽけに感じたり、浅はかな人間だと暗くなるといつもこの言葉が浮かんでくる。人種差別という大きな問題から、逃げることなく立ち向かったファノンの言葉に勇気が貰える。このまだまだ青くて小さな体では、大きな壁に見える「正しさ」も逃げずに戦えたらいい。また、善と悪という二項対立を組んで考えるのではなく、その中にある他者を認めることで自分自身の「正々堂々」を磨いていきたい。

僕が今思う正しさは、他者を認め、自分と向き合うこと。暫定回答です。

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