君たちはどう生きるのか レビュー

君たちはどう生きるのか  ※ネタばれ大あり

 最高におもしろかったです。
宮崎駿の才能が爆発していました。
個人的に、たましいのレベルで宮崎駿とは繋がっていると感じました。
この世界感を描きたいと思うその心に通じるものを感じました。

最初にキーとなるシーンを見せて、そこを軸に物語が進んで行く
という順番を取っていて
でも今回の場合は、時系列で言うとそれがそのまま時間通りに進む
流れだった。物語は時系列通りに進んで行きます。
もちろんこれは主人公の少年にとっての「順番通り」ですが。

この物語は、ファンタジーに振り切った作品ですが
しかし、敢えて舞台を戦争時に持ってきた事が印象的でした。
人々がじゃんじゃん死んでいるようなその現実世界においても
人の心が繊細に動いていたわけだし
そんな現実世界でも、ファンタジーに夢見て楽しく生きるという事を
していた人ももちろん居る。

戦争中でも、絵本を描くことはできるわけです。
その対比がなんとも面白かった。
火垂るの墓張りの戦争の感じからのブレイブストーリー張りのファンタジー寄せ。

主人公が単純に、異世界に行って何らかの成長をして帰って来る
というシンプルなストーリーではあるものの
その何らかの成長というものがあやふやだったり、取って付けたようなものであると
作品の密度が下がってしまう。
でも、この作品では主人公とナツコの二人の心の動きが純文学張りにしっかりと描かれていました。
この作品からファンタジーを引っこ抜いても、この作品はひとつの良い作品として、存在する事ができるわけです。

この作品を純文学として見るならば、主人公のナツコへの複雑で重複した思いに関して
整理をつける話。
ナツコの主人公への複雑で重複した思いに関して整理をつける話。
ただそれだけです。
心の葛藤というやつです。

心の葛藤があるとき、落ち着いて考える事のできる、空間と時間が必要です。
このファンタジー作品においては、大オジサマがその空間と時間を用意してくださっておりました。
大オジサマはこの世とあの世(時間の無い精神世界)との間に、中途半端な結び付けた世界を創り出していました。
それは本人の命と引き換えに創ったのでしょう。
その世界を必要とする者たちのために、現実世界で言うところの長い時間、大オジサマはその中途半端な「世界」を
維持してきました。
きっと同時に、この世と呼ばれる世界の均衡を保つ仕事もしていたのでしょう。
現実世界で戦争が始まってしまったのは、大オジサマの世界の均衡を保つ力が少なくなってきていた
ためでもありました。
また、大オジサマの世界の均衡を保つ力が少なくなっていたことは、大オジサマが創った
この世とあの世の間に創った中途半端な世界が崩れてしまう事も意味していました。

大オジサマは、自分の血筋で自分の役割を継いでくれる人を探していました。
待っていました。
そして、やっとそれに相応しい能力を持った主人公がやってきました。

ナツコさんにとっては、大オジサマが創ったその不思議な空間の存在は
幼いころから知っているコトでした。
ナツコさんにとっては、今、人生の中でもっとも心の葛藤が多い時期であり
自分の心の葛藤に整理をつける為に、自らその不思議な空間へ入っていて
悩む事だけに集中しに行きました。
ナツコさんの心の葛藤は
・お姉さんが亡くなって悲しい
・好きな人と結婚出来て嬉しい
・好きな人の子供を身籠れて嬉しい
・好きな人はお姉さんの旦那さんであり奪い取ったみたいで辛い
・新しく新婚生活を送れるのが嬉しい
・新しく新婚生活を送るときに余計なゴミ(お姉さんと旦那との子供)が付いてきて嫌
・大好きなお姉さんと大好きな旦那さんとの間の子供の事をゴミの様に感じてしまう自分が嫌い
これらの感情が、ナツコさんには渦巻いています。
これらの感情に整理をつける事は容易ではありません。

いわゆるソロレート婚を、木村拓哉が演じる男性はしたわけです。
男性からしたらまぁそれはそれで良いという事で意外と簡単に心の整理がつく事柄でありました。
死んでしまった妻の面影を求めるように、その妹さんと結婚する。
2人を重ねていても良いし、重ねなくても良い訳です。

でも、
妹さんのナツコさんからしたら、その心の葛藤は意外な事に簡単に整理を付けられるものではありませんでした。
また、主人公にとってもその心の葛藤に容易に整理を付けられる訳でもありませんでした。
主人公にとっては、お母さんにとっても似ている人、似ているという事はつまり別の人
お母さんはどこだ?・・・あぁ、お母さんは「死んだんだ」。
つまり、ナツコさんを見る度にまだ、受け止められない「お母さんが死んだ」という事実をまざまざと意識せざるを得ないのです。
それがいやでいやで仕方が無くてナツコさんの事を嫌っていました。
正確には嫌ってはいませんが、拒絶していました。
悲しみの受け入れの「拒絶」という段階です。
主人公は、最終的にはお母さんが死んでしまったという現実を受け入れて、
お母さんの妹であるナツコさんの事を、お母さんナンバー2として、別の人物として
受け入れる事に成功します。

スピード受け入れですね。
不思議な空間で出会えた、お母さんの正体、お母さんのたましいの本質そのものと出会って
お母さんとは、一体どのようなたましいの塊だったのかを知った事で
心に整理をつける事に成功します。

お母さんのたましいは、たとえ自分が未来で火事で焼け死ぬという現実が
待っているのだとしても
それでも現実世界に生まれて生きるというストーリーを望む人だという事がわかりました。
これは、たましいによって選択が違うところでしょう。
たまししによっては、「そんなストーリーならば、生まれない」と生まれる事を申請しないたましいも居るでしょう。
でも、お母さんのたましいは、本質として火を取り扱うたましいであって、火なんかへっちゃらという事が判明しました。

この事は、たましいによってそれぞれ持っている特徴が異なるよね
という事を作品に取り入れた部分だと思って感動しました。
○○さんは○○についてへっちゃらだけど
××さんは○○についてとっても嫌がる
みたいな。

結局は1人1人は別の、たましいを持っていて
何をヨガルのか何をイヤガルのかはチガウという話です。

主人公からしたら、お母さんが不幸な人生を歩んだという認識でしたが
お母さんからしたらとっても面白い人生を歩んだという認識でしかなかったのです。

この事に気付いて主人公は、最後には立ち直る事ができます。

 この作品は、今、現実世界で、今、キリコさんの精神世界で、今、大オジサマが創った不思議空間で、
今、ヒコ姫の精神世界で、という説明が無いので
初めて見る人にとっては何がなんだかわからないという事があるかもしれません。
人によっては、一発で全てがわかったという人もいるかもしれません。

現実世界で、病院が家事になって看護師のお母さんが焼け死んでしまう。
田舎のお母さんの実家に行って過ごすことになる。
ちなみに、無くなったお母さんの妹とお父さんが、ソロレート結婚をする。
亡くなったお母さんの妹さんとお父さんとの間の子供がもう、妹さんのお腹の中に居る。

亡くなったお母さんの実家である田舎の大きな大きな御屋敷にやってきたが
不思議な建物や不思議なアオサギが居る。

不思議空間に侵入する。

キリコさんの精神世界に入る。
ヒコさんの精神世界に入る。
大オジサマの不思議空間に入る。
ナツコさんを見つける。
ナツコさんは自ら心の整理をつけるために、この落ち着ける穏やかな不思議空間にやってきたのだと知る。
大オジサマの不思議空間を維持していくための後継者として、イマジネーションの存在であるインコ将軍が名乗りを上げて
積み石を組み立てるができない。

できなくて失敗したから、大オジサマが創った、この世のあの世の間の不思議空間は崩れ去ってゆく。
でも、崩れ去ってよいのかもしれないと
全員が思っている。

ナツコさんは心の整理が完了したし
主人公も、自分の亡くなったお母さんの「本当のこころ」を手にして心の整理がついたし
ヒコさんはヒコさんで、たとえ自分が何年後か後に家事で焼け死ぬと知っても
それでも自分のこどもを産んで楽しく面白おかしく生きていくことを選択して、1年間の
不思議空間での暮らしに幕を閉じて、少女時代に戻っていく。

いくつもの、現実世界での時間、からの訪問者を同時に受け入れる
大オジサマが創った不思議空間はちゃんと大オジサマの子孫にとって、大きな役割を果たした上で
消失していった。
その不思議空間は大いに、大いに、役に立つものだった。
3つの役目を果たした今、もしも、主人公が後継者として不思議空間を継いでも良かったし
役目を果たしたのだから、消失するなら消失するでそれも良いのだと、その場に居る全員が、悟っていた。
そのような中で不思議空間はバランスを崩して消失していく。

大オジサマにとっては、むしろ、不思議空間の世界均衡維持の仕事から解放されて
現実世界の世界均衡維持の仕事のみに身を投じられるようになって良かったのかもしれない。
自分の家族の子孫の事と、現実世界全ての事の両方を手掛けることは大変なことだった。

この作品は、
「すずめの戸締り」でも取り上げられた
この世とあの世を繋ぐ不思議な入り口について、触れられていた。
この入り口は複数あって、ナツコが知っていたのは森の奥の入り口だったし
ヒコが知っていたのは不思議な塔の入り口のところの入り口だった。

入り口はとっても多くあり、あの世側からすると扉の形で存在していた。
大量に扉はあった。

私は占いをするが、八白土星の人はこの建物や自然景色の中に不思議な扉を感じ取る事を
しやすいと思っている。いわゆる霊感なのか何なのか不思議な扉を見つけやすい。
こことどこか不思議な世界が繋がっているように「感じる」と感じた事は、人生のなかでとっても多い。
特に、夏に世界に取り残されたように1人、どこかの、田舎を歩いたときにそのような感覚には陥りやすいものだ。

その、「ここはどこか不思議な世界と通じているのではないか?」という感覚を
きっと宮崎駿も感じ取る体質の持主であってそれを作品にそのまんま取り入れたのだろう。

わたしは、ヒコとナツコの実家である、不思議な大屋敷での場面を長ったらしく
長々と描いていたところに心惹かれた。
あの、なんとも言えない、不思議な感覚を伝えるために
多くの風景画と多くの背景画と多くの時間を使ってしっかりと描いた事が、あぁわかっているなぁと感じた。
わかっているなぁというか同じタイプの人間だなぁと感じた。

そこを、感じてほしい
そこを、わたしはこう感じているのだと伝えるために
時間で言うと長々と描いていた。

ファンタジーの作品にしては、異世界に入り込むまでの時間が長すぎる。
でも、その感覚を描きたいのだ。
現実世界においても「不思議な感じのする田舎の大きな屋敷」はあったりする。
意味の分からないオブジェや意味の分からない不思議な建物。
どこか不思議な世界と通じているのではないかと思わせるようなそういう、空間や行き止まりや建物や構造やオブジェなどは
存在する。
そういうのを感じ取っているときの、独特の感覚を描きたかったのだ。
どこかそういうときの、誰かに護られているような
安心を感じ取れるような、安心に浸れるような
シンと音がしないけれども、落ち着ける穏やかでいられる、あたたかい、誰かが確実に見守ってくれているような
そんな
不思議な感覚を描き切りたかったのだ。

その部分を、いよいよアオサギに誘われて異世界に行くその前に
ぜ~んぶ描き切ったのが、すばらしかった。

その部分だけを切り取って
「どこか不思議な世界に繋がっているような感覚」のところだけで
1つの作品としてしまっても
問題が無いと思う。

・お父さんがソロレート結婚することに関する人々の心の動きとしての純文学
・日常で感じる「ここはどこか不思議な世界に繋がっているような気がするという感覚の文学
・不思議の国のアリス
・異世界に旅して戻って来る
・時間差もの

こういったものが全部、合わさっている。

ここまで、何もかもくっつけて、すばらしい作品に仕上げると
もはや付いてこられる人は少ない。
芸術作品としては逸品であり素晴らしいから、わかる人が見ると物凄い良いという感想になる。
けれども
芸術作品として一級品であると、収入を得る事が難しい。

誰しもが理解できる、誰しもにとっても面白い作品である方が
売上としては売れる。

宮崎駿の真骨頂がここにひとつ現れたわけだが、それをどれだけの人が、理解できるだろうか
一回みただけで全てを理解して、おぉなるほど!おもしろい!うわ~ここでこの人こう云うんだ!感動!
と思える人がどれだけいるのか。
訳の分からない作品だという感想を持つ人が、ほとんどだと思う。

いわゆる、不思議ちゃんたちにしか、この作品を理解する事はできない。
振り切っているから。

こういった、振り切った作品は売り上げを見込めないために
いままで鈴木プロデューサーがOKしてこなかったのだろう。
でも、ここへきて、いっちゃえっとOKを出したのだろう。
そんなふうに思った。

とてもとても分かりやすい作品だとは言えない。
まだ、君の名は。とかすずめの戸締りの方が、理解し易い。

この作品は
君の名は。
すずめの戸締り
不思議の国のアリス
ブレイブストーリー
様々な純文学
そういったありとあらゆる作品を、全て混ぜてくっつけたような作品だから。

メアリと魔女の花のときの、田舎を訪れたときの
人が少なくってそこには異世界に繋がっているのではないかと思えるような
不思議な場所や不思議な森がある
という
その感覚と風景を
今度は
君たちはどう生きるのか
によって日本バージョンで表わした。

どこの国でもここは不思議な世界に繋がっているのではないかと感じ取る人は居るものである。

君たちはどう生きるのか
では
余りにも人が少なすぎるという事なく、居るべき場面ではいっぱい人が出てくる。
田舎と言えども、場面によっては大勢が集まるわけである。

そういった、人数感覚も含めて、田舎という場所が持っている、不思議カンを、実にキレイに
描き切れた作品だったと思った。
ここまで、田舎という場所が持っている、不思議カンを長い時間と多くの絵を用いて描き切った作品を私は他には知らない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?