見出し画像

自由に生きろ

自由に、好きに生きろと、育てられた。

教えられなくとも、環境により学び、食べられ、歩け、話せるようになった。けれど、生きている環境に存在しないものは、ずっと知らないままのこともある。

私は教えられていないのか、忘れてしまうのか、知る気がなかったのか、普通の人よりも知らないことが多かった。

世間のことや将来のことなど何も知らずに、「今はこれをする」ということしかわからずに生きていた。
自分の周りの自分の足で探検できる範囲内が世界のすべてだった。

小学生の時は高校や大学というものの存在もよく知らなかった。

中学生の時はセーラー服が着たかった、勉強ができたからという理由で高校を選んだ。専門や県外の高校を知っていたら美術系の高校に受験したいと言ったかもしれない。勿論この時も、大学というものをよく知らなかった。

大人は様々な経験の内で知識や経験を積んでいるため、当たり前に世界が広い。
その中で自由に生きろと言われれば、調べるという知恵もあるし、ある程度の選択肢を持っているため、「自由」をいかせる。


しかし、何ができるだろうか。

訳もわからず、ただ学校や習い事に行き、そこで学んだことや経験したことしか知らない。どうしたらもっと上手くできるかさえも、好きなものの作者や関連するものさえも、知らず、調べるということにもたどり着かずに、空想の中で生きていた。



今となって気がつく。何個もの選択肢を通りすぎ、突然そんなことも知らないのかと脅され、何も知らずに生きてきたことを知らされる恐怖。

人生がこんなに続くなんて知らなかった。

自分というものを上空から眺めているような感覚が、たまに、する。

自分の今までの人生が存在していなかったような、今、初めて世界に存在したばかりのような。不思議な感覚。

身体の力が全て地面に吸い込まれて、動けなくなるような、金縛り状態を自由に行えるとういうこととおなじで、誰にも理解されないのだろうか。

(金縛りの話をすると霊的なものだと勝手に解釈されて毛嫌いされることは経験で学んだが、ただの筋肉の硬直状態を自力で作る話なんだ。誰もわかってもらえた試しがない。)



こういう感覚が空想ばかりしていたことによる弊害なのかもしれない。

結局のところ、自分は何も知る気がないのかもしれない。
何も知らずに空想の中に生きることを「自ら望んで選んだ」のかもしれない。世の中のことや将来のことなど興味がなかったのだ。

そうしたら、これが私の「自由に生きろ」の答えなのだろう。

ただ、好きに生きるための選択肢、世界の広さをもっと教えてもらってから野に放って欲しかったと心から思う。井の中の蛙、空の青さも知らない内に突然大海に出され困惑。

空は青いのくらい知っていると思ってたって、そりゃないよ、大海に出されてそれ自由にしろ!ってそりゃないよ。
大海の先に何があるかって、知らないし、泳ぎ方も知らないし、塩水だなんて、

ここは、どこでしょうね。

ばいばいまたね

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?