【前半ネタバレなし】『9-nine-』感想 あまりにもノベルゲームとして優れているという話

 まず前置きしておきたいのが、久々にエロゲをプレイした(元々別に本数をこなしていたわけでもない)ので、俺の語ることが最新のエロゲ観とはもしかしたらズレているかもしれないが、許して欲しい。(丸っきり的外れでもないということを願いたい。)
 ノベルゲーム…というかエロゲと他の創作媒体の差異は一体どこにあるのだろうか。多くの人はこう答えると思う。自分で物語を選択し、展開させていく主体性の有無だと。俺もそう考えている。実際、多くのエロゲには選択肢を選ぶというゲーム性が存在し、プレイヤー次第でその後の展開が様々に変化する。それはすなわち、エロゲの魅力の1つとして、自分が物語に介入するという能動性が挙げられるということだ。言い換えれば、そのような主体的なゲーム性を欠いた、所謂一本道と呼ばれるタイプの作品はエロゲという媒体のポテンシャルを発揮できていないのではないかということになる。少なくとも、俺はそのような考えを持っていた。『9-nine-』に出会うまでは。
 『9-nine-』のシナリオは一本道である。エロゲの楽しみの1つである、誰から攻略しようかな、みたいな思考の介入を許していない。攻略するヒロインの順番は、最初から作り手によって決められているのだ。元々エロゲを読み物(受動的な創作媒体)としても認めることのできる俺にとって、それが嫌なことかと言われれば別にそうではないのだが、多少なりとも気ががりな点ではあった。しかし、プレイしてみると、俺のそんな心配は杞憂に過ぎなかったということが見えてきた。結論から言えば、『9-nine-』は一本道のノベルゲームであるという自身が持つアイデンティティを存分に活用している。一本道だからこそ、選択することの重大さを突きつけてくると言ってもいい。一見矛盾しているように思えるが、どういうことか。
 先ほど、エロゲの性質として自分で物語を展開していくことのできる主体性があると言った。それは極端に解釈すれば、最良の選択のみをしてゴールにたどり着くことが可能ということでもある。(所謂バッドエンドを全く見ずに読み終える。)また、攻略サイトなどを見ながら、プレイするユーザーも多いんではなかろうか。(上で偉そうにエロゲの主体性云々と語った俺も、恥ずかしい話ではあるが高い頻度で攻略サイトを利用させてもらっている。)そういうことを作り手側も理解しているからなのか、明確なバッドエンドが用意されていないゲームも多いように思う。(物語がどう転んでも一応ハッピーエンドには辿り着く。)つまるところ、俺が最初に豪語した、物語を自分で進めていくという主体性は、実はあまりエロゲを作る上で重要視されていなくて、媒体の特性として挙げるには不十分なのではないか。そのような見解が、ぽつりと浮かんでくる。しかし、『9-nine-』はそれを真っ向から否定してきた。『9-nine-』は挑んだのだ。エロゲのポテンシャルを最大まで引き出すことを。
 少し話は飛躍するが、人生において選択という行為は常に行われる。自分が下した選択次第で、人生はどのようにも変化していく。エロゲが持つゲーム性には、そのようなメッセージ性を見出すことも可能であり、それは決して乱暴なことではないと思う。さて話を戻すと、シナリオが一本道であると先ほど述べたが、それはトゥルーエンドまでまっしぐら、という意味ではない。その物語が内包する最高の可能性も、最悪の可能性も、プレイヤーは見ることを強いられる。都合良く選択をし、都合の良い展開だけを享受することが可能な多くのエロゲよりもむしろ、選択という行為が孕む恐怖を、選択という行為が孕むその意義を、我々に痛感させる。巧みな演出と共に、プレイヤーが物語世界の住人になれるよう誘っている。



 『9-nine-』が持つエロゲとしての魅力、その一番肝となるところをネタバレなしで語ったつもりだが、どうであろうか。上手く伝わっていれば、嬉しい限りだ。ここから先はネタバレを多分に含みながら『9-nine-』の感想を語っていくので、未プレイの人は是非プレイしてから再び覗きに来て欲しい。それでは。





 では改めて、ここからはもっと掘り下げて『9-nine-』の所感を述べていく。先ほどは『9-nine-』の魅力をネタバレ回避ということもあって強引にまとめたが、このゲームの魅力はもちろん1つどころではない。

『9-nine-』が描いたノベルゲームのメタ

 この作品の特徴として、プレイヤーが物語世界の中に存在するという点が挙げられる。それは主人公に感情移入するプレイヤーなどという次元の話ではなく、文字通りプレイヤーは物語世界の住人なのである。翔とは別に、自分が物語の中に存在するのである。それは何を意味するのか。
 通常そのようなメタ要素が作品に介入する際は、プレイヤーと物語の関係が希薄であるといったような論調で、否定的に描かれることが多いように思う。しかし『9-nine-』は逆に、プレイヤーのことを物語を俯瞰する神のような存在ではなく、登場人物達と並列の存在として語ることによって、プレイヤーが物語に大いに参画していることを強調している。これは『9-nine-』という作品をノベルゲームという枠組みの中で評価する際に、大事になってくることではないだろうか。
 もう1つ挙げなければいけないメタ要素として、翔がヒロインズ全員と付き合った経験があり、それをヒロインの1人(希亜)が把握しているということがある。こちらも先ほどと同様に、ヒロイン1人1人との関係が希薄で主人公の気持ちが上っ面のものだけにならないかという論調で、通常あまり良い要素として語られることは少ない。しかし『9-nine-』はそうではない。希亜は嫉妬しつつも(可愛い)、決してそのような翔を否定しない。翔がもがき苦しみながら、世界線を幾度も飛び越え、最良の結末を手に入れるために努力してきたことを希亜は知っている。そのような奮闘の末に、今の自分と翔があるんだと、希亜は誰よりも身近で理解している。このようなメタ要素の肯定から、それまでのノベルゲームの常識をひっくり返さんとする挑戦的なメッセージをひしひしと感じる。

視覚的快感に留まらない異能バトル

 異能バトル物が面白い理由は色々あるだろう。非日常を体験できるからとか、疑似的なヒーロー体験ができるからとか、もっと単純に、絵面がかっこいいからとか。もちろん例外なく『9-nine-』が面白い理由の中にそれらはある。イーリスとの最終決戦、ヒロインズが集結したイベントCGを見て、心が燃えあがらなかった人はいなかったのではないだろうか。俺は興奮が頂点に達していた。翔とイーリスの戦いを見ること以外の一切が、思考の外へと放棄されていた。視覚的な魅力が前面に出やすい戦闘描写を、静止画と活字によってここまで熱く描きあげれるものかと感服した。しかし、それだけに留まらないのがこの作品が一級品たる所以である。
 ユーザー同士の戦いは、心の戦いでもある。翔達(特にヒロインズ)はアーティファクトを通して、自分と向き合う。アーティファクトを知るということは、そのまま己を知るということを意味する。アーティファクトは人の心の強さに準拠した力だからだ。例えば、都はアーティファクトを通して自分の信念を再確認する。天は翔と自分の関係を改めて考え、その秘めたる想いを自覚する。春風は自分の弱さを認識し、克服しようとする。希亜は過去に囚われるのを止め、未来へ進もうとする。アーティファクトという超常的な力を手にしても、それを扱うのは人知を超えた存在ではなく、等身大の人間であるということを忘れてはいけない。それらが混同されることなく、人間ドラマとしてとても上手く展開されていた。読み進める中で時には応援し、共感し、そしてまた時には辛さを感じ、怒りを覚え、といったように登場人物と感情をリンクさせ、物語世界に自然と没入することができた。

“やり直す”とは“なかったことにする”のと同義なのか

 『9-nine-』はループ物としても、非常に高い水準を誇っているだろう。最良の結末を手に入れるために、何度も死に戻る翔。どれだけ戻っても、幸せな未来を手に取ることはできない。守るべきものがある翔に対し、敵である与一にそのようなものは何もないからだ。ただ淡々と、翔の守るべきものを破壊し、その心を折るだけでいい。この差はあまりにも決定的であり、2人の間に如実な差として表れている。腕を切られた翔が、ソフィーティアの呼びかけを無視し、希亜を抱きしめたシーン。BGMやイベントCGなどの演出も相まって、胸がギュッと締めつけられ、とても辛く、苦しく、涙なしには見られなかった。何度失敗してもやり直せるからといって、目の前で起こった事実は決してなくならない。希亜を、最愛の人を守れなかったという現実は、確実に翔の心を抉る。翔が感じた行き場のない怒りや悔しさごと消えるわけではないのだ。それを糧に与一を追いつめることになるのだが、それにしても、ただの1人の人間が背負うにはあまりにも重く惨たらしい感情である。そういうループ物ならではの絶望感が、目を覆いたくなるほど生々しく描き出されていた。だからこそ、正解にたどり着いた時の胸の高鳴りも、尋常ならざるものであった。

『9-nine-』で描かれる“悪”

 与一という存在は異質だ。大抵、物語においては悪役にも、何らかのコンテクストが与えられる。それは安直な勧善懲悪物にするのを避け、悪を悪だと一蹴しないためだ。しかし与一はどうだ。多少のコンテクストは垣間見えるが、その多くは語られない。それは隠されているというよりも、初めから設定されていないという方が正しいだろう。つまり、与一には何もないのだ。悪になった理由も、悪をなす理由も。それはある意味で功を奏した。翔が与一を殺すのに、罪悪感を抱かずに済んだから。多くのリープ物で語られるようなトロッコ問題に、与一を当てはめず済んだから。理解の及ばない存在に対して抱く恐怖、そして理解の及ばない行動を繰り返すことに対する怒り。そこには相手のことを分かろうとか、相手のことを説得しようとか、そういう同情が挟まる余地など一切ない。リスクがないと判明した瞬間に、躊躇いなく翔の仲間を殺し、何度も殺し、そして遂にはとどめを刺すかのように、悲嘆に暮れる翔に最愛の人の死体を見せつける。むしろそんな相手にどうして敵意以外を向けることができようか。そのような純度の高い悪が相手だからこそ、どうしようもない絶望の底に叩き落された時は歯がゆく拳を握りしめ、逆にこちらが追いつめた際にはしてやったりと口角が上がりガッツポーズをとることができた。『9-nine-』は安直な勧善懲悪物なのではなく、高純度の勧善懲悪物なのである。

希亜が可愛いんだよ、希亜が

 俺が『9-nine-』を高く評価した理由、そして所感を言語化し形として残そうと思ったきっかけは、ほぼ『9ゆきいろ』にあると言っても過言ではない。それくらいの出来であった。(物語のクライマックスなので、至極当然ではある。)
 希亜のギャップがとにかく際立つ。他の√では一切弱さを見せることなく、常に毅然としていて、そういう意味で希亜を攻略するのが楽しみだった。翔達を信用していないから、弱音を表に出さないのではない。それが希亜の人格の中枢にあり、信念だった。自分の弱さから妹を失ってしまい、その責任から強くて格好良く、隙のないヒーローであろうとした。しかし、弱さを見せないということが、皮肉なことに希亜の一番の弱点となった。それを翔との出会いを通して克服していくというのが、『9ゆきいろ』の筋だ。
 アーティファクトによって、希亜は自身のトラウマと対峙する。死という概念を明確に捉えるには、恥ずかしながら俺はまだまだ未熟過ぎるが、妹の死がもたらした希亜の心の傷、そしてそれを乗り越えることがどれだけ難しく残酷なことであるかは身に染みて伝わってきた。相手が何であろうが、人を殺めるという行為を100%肯定するわけにはいかない。しかし、そうすることで救われる命があり、そして大切な人が守れるのであれば、それは立派な正義と言えるのではないか。翔の隣に立ち、ハッピーエンドを守ろうと悪を成敗する希亜の姿はどこまでも正義の味方であり、格好良いヒーローそのものとして俺の目に映った。
 翔の前で素の自分をさらけ出すようになってからは、可愛さが止まらない。まさに可愛さの暴力である。翔に声をかけられて一目ぼれするところが、希亜らしくて可愛い。アプローチの仕方がとても不器用で、けれども大胆で可愛い。他の枝での翔に嫉妬するところも可愛い。貧乳ヒロインはあまり好きにならない傾向にあるが、希亜に対してそんなことは微塵も関係なかった。それだけ内面の魅力が存分に引き出されていた。これは他の√でも言えることだが、ヒロインズをとても可愛く魅力的に描けていることも『9-nine-』の素晴らしい要素である。エロゲなのだから、そこは無視できない重要なファクターであろう。プレイする度に、推しが変わるほどであった。

まとめ

 『9ゆきいろ』の締め方がまだ続きがあることを匂わせるものであったが、『9ゆきいろ』読了後に衝撃が脳天を突き抜けたので、このように感想をまとめさせて頂いた。
 BGMやムービーなどの演出、そしてイラストにシナリオ、それぞれ高いクオリティを誇り、そしてそれらが密に絡み合い、総合芸術たるエロゲとして完成されている。物語への没入感は完璧だった。比喩でも何でもなく、『9-nine-』をプレイしている時に『9-nine-』以外のことに意識を割くのは不可能であった。
 時代を壊すのが芸術の役目だというのなら、『9-nine-』は間違いなく“芸術”そのものである。ノベルゲームの創作的立ち位置、役割をしっかりと理解し、そして前衛的な作風で物語を紡いでいる。そしてそれはしっかりと、プレイした人の心を掴んだのではないだろうか。

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