【仮面ライダー見ない人向け】劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzerネタバレ感想【平成】

本投稿は、「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」「アベンジャーズ:エンドゲーム」のネタバレを含みます。仮面ライダー見てる人にとっては説明過多かもしれません。 


『お前たちの平成って、醜くないか?』

このショッキングなセリフから始まる予告編は、一見何を言っているかわからないが、設定も見た目も突飛な仮面ライダーに触れたことのある人間なら頷けるのではないか。

先日2019年7月26日、「平成最後の」怪作「Over Quartzer」が公開された。そもそも平成最後、20作目の「仮面ライダージオウ」のあらすじは、2018年現在、世界をもっと良くしたいと王を目指す少年:常盤ソウゴには2068年に最低最悪の魔王となる未来が確定しており、彼の意志を止めるために荒廃した未来からレジスタンスの少年:ゲイツと少女:ツクヨミがやってくる。未来で魔王の従者たる預言者の青年:ウォズはソウゴを時の王者=仮面ライダージオウへと変身させ、真の王となるには他の19人の平成仮面ライダーの力を集めなければならないとソウゴを導く。彼らの奇妙な三角関係は数多の仮面ライダーと触れ合うのちに友情となり、敵対していたはずが共闘するまでに至る…というものである。

メタネタが苦手な人にはおすすめしないが、それでも観客に向かって語りかけるのはウォズだけで、ウォズが持っている予言書が「仮面ライダージオウ」という歴史を作るために書かれたものなのでそこまでサムいメタ臭がしない(子供向けゆえなのか、狙った効果なのはわからないが)。

今回の劇場版は「ジオウ」真の最終回と銘打ち、テレビ版で継承できなかった(本作品では、キーアイテムであるライドウォッチという仮面ライダーの歴史・時間をストップウォッチ型に封じ込めたものを他の平成仮面ライダーから譲り受けることで彼らの力・存在そのものを”継承”することが王へのルートだとしている)仮面ライダードライブ(2014年、竹内涼真主演)の力を得るために、ドライブの開発者である博士の祖先を守るミッションが課せられる。彼の祖先は信長と交流のあったオランダ人の少女で、ソウゴたちは織田信長に接触するためタイムトラベルを行う。本作では織田信長はオランダ人の少女に一目惚れをし、彼女の面倒をつきっきりで見るためにゲイツを影武者にすえてしまう。しかし、彼の家臣である牛三は織田信長の威信を後世にマシマシに盛りまくって伝えようと伝記を書いていた。ゲイツの奮闘やソウゴの信長に対する「好きに生きるべき」という言葉もあって無事少女の未来は守られ、信長はオランダから銃を貰い受けて長篠の戦いに勝利、博士からドライブの力を継承することに成功する。一方、牛三はソウゴから聞いた「魔王」という単語が信長の(ほぼ創作である)伝記にふさわしいと用いる。これを見てソウゴは「史実と伝記は全く違うこともある」と悟る。

と、ここまでが序章。一年分のテレビ版を踏まえた仮面ライダー映画は情報量が多いのだ。

無事に20人の平成ライダーの力を得たソウゴは、用意された王座に導かれ、まさに王とならんとする…のだが、そこには先客が。

本作の敵であるISSA演じる「常盤SOUGO」である。彼は人の良さそうなソウゴに10年前から王たるビジョン・力を見せ続け、あたかも使命があるかのように錯覚させ、平成ライダーの力を集めさせた上で王座ごと奪うつもりだったのだ。SOUGOはソウゴに対し

『お前たちの平成って、醜くないか?』

と問いかける。凸凹の道だった平成。世界観もバラバラ、時間軸も設定もはちゃめちゃだ…だから、新しく平成を作り直す、そのために平成ライダーの歴史を全部集め、なかったことにしたのだと。ソウゴは幽閉され、ウォズは「君を『我が魔王』と呼ぶのも悪くなかったよ」と行動は全て予言書の通りにしたものだったとSOUGOの腹心へと舞い戻ってしまう。

信長がゲイツを影武者に仕立て上げたように、ソウゴも傀儡だった。全てを失ったソウゴの隣の牢から、壮年の男性が「偽物でも、君は選ばれたじゃないか」と声をかける。声の主は、木梨猛(演:木梨憲武)であった。劇中では明言こそされず、クレジットにも「木梨猛」と「Legend Masked Hero」の文言があるのみだが、彼は紛れもなく仮面ライダーの放映していない時期に「仮面ライダー」のパロディとして放映されたミニドラマの「仮面ノリダー」である。原作者は容認、制作側は否認と賛否両論を生みつつ昭和と平成の間、仮面ライダーの存在をお茶の間に感じさせ続けた影の功労者である。

そんな彼が、偽物でも君は仮面ライダーだと告げる。この言葉に奮起したソウゴは、SOUGOの元へ向かう。一方SOUGOは平成の時代に生まれたもののみを吸い込むタイムホールを空に開け、本格的に「平成のリセット」を行おうとする。

ゲイツはウォズに一騎打ちを仕掛け、最初は敵対していた自分たちはソウゴの人柄に惹かれた似た者同士だと投げかける。

SOUGOの開けた穴に吸い込まれながら、ソウゴは自分の人生を回顧し、「王様になりたい」と願ったのは誰かに言われたからではなく、嘘を吹き込まれるもっと前の夢だったと思い出す。その瞬間未来の魔王がソウゴに語りかけ、自分自身の力をライドウォッチとしてソウゴに手渡す。ソウゴは「凸凹で何が悪い、一瞬一瞬必死に生きてきた平成は悪い時代ではなかった」と魔王から継承した新たな力をもってSOUGOに挑む。街に溢れた怪人たちを、「予言書の通りではなく、好きに生きればいい」とソウゴの言葉から考えたウォズ、ゲイツが迎え撃つ。彼らの手の届かない所には、歴代の平成ライダーが力を貸していた。

そして、ネットで限定配信されていたセルフパロディとも言える「仮面戦隊ゴライダー」や舞台版の「仮面ライダー斬月」の限定の姿、連載中の「仮面ライダークウガ」から飛び出した”漫画の”クウガが参戦し、まさに「凸凹」である平成ライダーたちがSOUGOの手下たちを食い止める。

最後には仮面ライダーの代名詞たるライダーキックで、SOUGOの変身・巨大化した姿がもつ盾を貫通してトドメをさす。その痕は「平成」の字になり、小渕総理が「平成」を掲げたあの瞬間のように爆発四散するのだった。

これは、令和初の仮面ライダー映画である。しかし、製作陣は「平成の締めくくりに」とした。私はこの映画をあえて平成最後で最大の問題作であったとしたい。

実際に平成最後に上映されたのは「仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER」だったのだが、こちらは仮面ライダーがテレビの中の物語で、それをあざ笑うかのように現実世界に介入し破滅させようとした敵に対し、確かに仮面ライダーは絵空事でも自分たちはそこにいたと信じ、仮面ライダー好きの少年ーつまり、我々のことであるがーを守るものであった。こちらは仮面ライダーを応援してくれた人たちへ、作り物でも、過去の作品でも、誰かのヒーローでいたい、という一種の”エモさ”があったが、こちらは平成を経験した全ての人たちへ、仮面ライダーが出した「平成」への答えである。

見返せば醜い歴史だったかもしれない。のちに語られるのは美化された物語かもしれない。しかし我々が生きたその瞬間が間違いなはずがないと。幾度となく仮面ライダーをメタ的に捉えてきた「ジオウ」がついに「平成」を概観することになった。巷では「元号の私物化」とも言われるが、先だって公開された「アベンジャーズ:エンドゲーム」が10年をもって「ヒーローもの」を子供・オタク向けのものから解き放ったのをわずかでも意識しただろう(製作時期が数ヶ月レベルとも言われる仮面ライダー映画でも、エンドゲームのストーリーを下敷きにできる訳もないが)。仮面ライダーなりの「ヒーロー映画」のあり方を模索した直近の2作品は歴代興行収入一位にまで上り詰めたエンドゲームのように評価はされないだろう(しかも、ジオウが一年のうちで何度もやってきた『タイムトラベルで過去のヒーローからキーアイテムを奪い戦う』という構図を、ジオウが当時のキャストを揃えずともストーリーを作れるように苦労したのに対し、主役級キャストが目白押しのヒーローたちを老けさせ、若返らせ、セットも再現し、全員を最終決戦に駆り出し見せ場を作るという離れ業をやってのけた)。「エンドゲーム」や他の映画に比べればつじつまも合わなければ説明不足だし、平成ライダーの歴史を消しても平成がひっくり返る訳ではない。そんな欠点すら「これが俺たちだ、俺たちの作品なんだ」と肯定されてしまえば、(半ば開き直りでも)言い返せる訳がない。


オタクたちが便宜上つけた「平成ライダー」という言葉がいつの間にか公式となり(実際には、平成の間にも公開された作品があり、2000年の「クウガ」(オダギリジョー主演)以前の作品が昭和ライダーとしてカウントされている。本作の敵はこれら『平成だけど昭和ライダー』をモチーフとしている。)改元と20作品目が重なったのは奇跡的なものだろう。この奇跡とそれを作品にした仮面ライダーの情熱を、我々は語り継がなければならない。平成ライダーとともに歩んできた私には、ジオウの終了を持って平成は終わり、次なるライダーの登場によって令和が始まると言っても過言ではない。平成ライダーは最後にとんでもない伝説を生んだ。「クウガ」のオープニングの歌詞にあるように、「伝説は塗り替え」られ、令和の時代により素晴らしい作品に出会えるよう、我々も彼らとともに瞬間を力強く生きなければならない、と強く思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?