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蘇我氏は実は滅んでいなかった...『日本書紀』が隠す乙巳の変の真実!

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蘇我氏は滅亡なんてしていなかった…
『日本書紀』が隠す蘇我入鹿暗殺事件の真相...
日本古代史最大のクーデター乙巳の変の真の首謀者蘇我氏の真実についてお話していきます!

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蘇我氏とは?



蘇我氏とは、6~7世紀の倭国での歴史の中で1番大きな足跡を残した中央豪族です。

蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたって大臣(オホマヘツキミ)となり、大王に蘇我氏の女性を嫁がせることで大王家の血縁となり飛鳥時代のヤマト朝廷での権力を掌握したことで有名です。

蘇我氏の正体については、こちらの動画で紹介しているので興味のある方はこちらをご覧ください。

そんな蘇我氏は、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変の後に滅亡した...と思っている方も多いかもしれません。

しかし天皇をも越えようとした蘇我氏は、中大兄皇子と中臣鎌足によって滅亡させられた!というイメージは、『日本書紀』が巧みにあることを隠蔽してたことで生じた虚構であり、私たちは『日本書紀』はまんまと騙されているのです。

乙巳の変とは


出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Irukaansatsuzu.jpg

『日本書紀』が何を騙そうとしているのかについて、迫る前に乙巳の変についてお話ししましょう。

乙巳の変とは、皇極4年である645年に飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)で朝鮮半島からの使者を迎える三韓進調という儀式が行われようとした日、蘇我入鹿が大極殿にて暗殺されました。

それに伴い、蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷も甘樫岡(アマカシノオカ)にて討たれ、蘇我系の皇子であった古人大兄皇子も出家。
これにて蘇我本宗家が滅亡したという古代史最大のクーデーター事件が乙巳の変です。

このクーデターの後に皇極女帝がヤマト王権始まって以来の譲位が行われ孝徳天皇が誕生し、孝徳天皇より始まる政治改革が大化改新です。

崇峻天皇を謀殺し、厩戸皇子の子である山背大兄王の一族をも滅ぼした蘇我本宗家は大王家までも凌駕しようとしていたため、天皇中心の国家を作りたい中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターを起こした…というのが乙巳の変の一般的理解ということになるでしょう。

乙巳の変の真の首謀者とは?


しかしその『天皇中心の国家を作るため中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターを起こした…』という一般的な理解が、『日本書紀』にいいように騙されているのかもしれません。

『日本書紀』は、乙巳の変の真の首謀者真の目的を巧みに隠しているのではないでしょうか?

まず乙巳の変の真の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足ではありません。
もちろんこの2人は乙巳の変で活躍はしていますが、私たちがイメージするような主役ではなく、脇役なのです。

では乙巳の変の本当の首謀者は誰か…
それは乙巳の変後に最大のリターンがあった孝徳天皇蘇我倉山田石川麻呂の2人です。

乙巳の変の目的を、『蘇我氏内の権力争い』『大王家の皇位継承問題』だと考えてみましょう。

蘇我氏は滅亡していない


一般的に、乙巳の変の後に蘇我氏は滅亡したと考えられていますがこれは間違いです。

乙巳の変で滅亡したのは、稲目から馬子、蝦夷、入鹿と続いていた蘇我本宗家のみです。

蘇我本宗家が滅亡した後、蘇我氏の族長の座は蘇我倉山田石川麻呂へと移りました。

蘇我氏族長の座が蘇我倉山田石川麻呂に移った後に、石川氏になっていったので乙巳の変の後に蘇我氏が滅亡したかのようにみえているのでしょう。

蘇我倉山田石川麻呂とは?

蘇我倉山田石川麻呂とは、蘇我馬子の子供で蘇我蝦夷からしたら兄弟、蘇我入鹿からしたら叔父にあたる人物です。

『日本書紀』では、乙巳の変の際に入鹿が暗殺されることを知っていた蘇我倉山田石川麻呂は、緊張のあまり上表を読む声が震え、全身から噴き出すような汗をかいていた...と記され乙巳の変クーデターの超脇役のように描かれます。

しかしこの蘇我倉山田石川麻呂が真の乙巳の変の首謀者の1人なのです。

その動機は、ヤマト政権で大臣(オホマヘツキミ)を独占していた蘇我本宗家を根絶やしにすることで、自らが蘇我氏の本家として権力を握ることができます。

その証拠に乙巳の変後、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の族長の座を手に入れ、ヤマト朝廷内でも右大臣の地位についています。

乙巳の変が起こった直後、それを目の当たりにした古人大兄皇子が「韓人が入鹿を殺した」と告げた…と言われています。

実は蘇我倉山田石川麻呂の母型の家系は、百済系渡来人だったといわれているのです。
蘇我倉山田石川麻呂が蘇我氏族長になった後に提出された蘇我氏の系譜は、
満智宿禰-韓子-高麗-稲目宿禰
と続いています。

蘇我氏の始祖は稲目で、稲目より前の人物は架空であるといわれていますが、この架空である満智~高麗までが朝鮮風の名前になっているのは、母型の血筋が百済系渡来人であったことに由来しているのではないでしょうか?

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我入鹿・蝦夷がいなくなることで、その恩恵を1番受けた人物でもあるのです。

大王家の皇位継承問題


そしてもう一人、乙巳の変の恩恵を受けた人物がいます。
それは、乙巳の変後に皇極天皇より譲位された第36代孝徳天皇です。

孝徳天皇に譲位した皇極天皇とは、女性の天皇です。
この当時、女性の天皇が成立するというのは『即位することに争いが起こらず、大王になる資格がある人物がいなかった』ことを意味します。

そしてこの時代は、大王は終身制で譲位という制度がまだありませんでした。
皇極天皇の前の女帝である、推古天皇は譲位という制度がなかったばっかりに大王位を継がせる皇子がいなくなってしまったという過去がありました。

なので皇極天皇が即位した時点で、『誰にどのように譲位をさせるか?』というのは大きな課題だったと思われます。

乙巳の変前夜の皇位継承候補者


出典:https://tadtadya.com/emperor-tenji-1/

乙巳の変が起こる直前の、譲位する対象になる皇位継承候補者は2人です。

1人は舒明天皇を父に持つ古人大兄皇子と皇極天皇の同母弟である軽皇子ことのちの孝徳天皇です。

古人大兄皇子の母は、蘇我馬子の娘であり、蘇我氏がバックアップする皇子でした。

一方、孝徳天皇は父も祖父も天皇ではありませんでした。
皇極天皇とは父も母も同じですが、舒明天皇の后となって天皇となった皇極天皇と違って皇位継承の優先順位としてそこまで高いわけではありません。

そのような状況で蘇我氏のバックアップを受け、舒明天皇を父に持つ古人大兄皇子が、孝徳天皇より皇位継承の面で優勢だったと考えられます。

1度、古人大兄皇子が大王になってしまえばその子、そのまた子へ皇位継承が進んでいくため、軽皇子こと孝徳天皇が大王になることは絶望的です。

孝徳天皇としては、武力で訴えてでも古人大兄皇子の即位を阻止しそのバックにいる蘇我本宗家をどうにかしなければなりませんでした。

蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変とは、自分の即位を確実なものとしたい孝徳天皇の大王家の皇位継承問題と、蘇我本宗家を滅亡させ自分が蘇我氏の族長になりたい蘇我倉山田石川麻呂の蘇我氏内での権力争いで引き起こされたクーデーターなのです。

中大兄皇子は皇位継承候補者ではなかった

乙巳の変前夜の皇位継承候補者は、古人大兄皇子と軽皇子こと孝徳天皇の2人だというと、「中大兄皇子も立派な皇位継承候補者ではないのか?」と思う方もいらっしゃるでしょう。

しかしこのときに、血筋は申し分ないものの中大兄皇子は皇位継承候補者になるには時期早々でした。

それを理解するためには、当時の皇位継承のルールを理解しなくてはなりません。

この当時の皇位継承のルールは、男系であるということは絶対でしたが、ほかにも30歳を過ぎていなければいけませんでした。

乙巳の変が起こる645年では、中大兄皇子は二十歳くらいであり次期大王になるには若すぎたのです。

その証拠に、中大兄皇子が天智天皇として即位したのは乙巳の変の23年後の668年です。

そんな中大兄皇子が乙巳の変に参加した理由は、古人大兄皇子が天皇になってしまえばその次の世代の皇位継承争いで不利になること、とクーデーターの主犯である蘇我倉山田石川麻呂の娘を妻にもらっているため参加したということでしょう。

なんで中大兄皇子と中臣鎌足がヒーローになったのか?


ここまでくると、学校の授業で乙巳の変のヒーローとして覚えさせられた中臣鎌足は何をしていたのか...

もちろん中臣鎌足が乙巳の変に参加していないということはありません。
しかし従来言われているようなヒーローのような活躍ではありません。

せいぜい軍事に主体的に活躍した程度でしょう。

しかし、それなのになぜ中臣鎌足は乙巳の変のヒーローとしてイメージされてるのでしょうか?

それは『日本書紀』をはじめ、乙巳の変について書かれた史料が中臣鎌足を中心に描かれているからです。

中臣鎌足が中心に描かれている理由は簡単で、藤原氏と天皇家の深いつながりは、乙巳の変のときに中臣鎌足が中大兄皇子のちの天智天皇に付き従うことからはじまった…としているからです。

中臣鎌足はいわずとしれた、のちに長い間朝廷の中で権力を握り続ける藤原氏の祖です。

『日本書紀』自体が、中臣鎌足の子供である藤原不比等の権力下で書かれていますので、自分の父、のちに繫栄を迎える藤原氏の祖である中臣鎌足が乙巳の変で活躍した。ということにしたかったということです。

これの考え方は中大兄皇子にも共通です。
『日本書紀』は中大兄皇子の娘である持統天皇の時代に書かれました。
天皇中心の律令国家をつくろうとしていた持統天皇にとって、天皇を蔑ろにしていた蘇我氏を倒したのは父である中大兄皇子で、中大兄皇子が天皇中心の国家体制をつくる礎を築いたという視点で『日本書紀』を書かせているのです。

蘇我氏は石川氏になった


乙巳の変の首謀者は、孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂でしたが結局はこの2人は不遇な死を迎えることになります。

乙巳の変の後、のちに大化改新と呼ばれる政治改革を中心となって行う孝徳天皇でしたが、中大兄皇子や前の天皇である皇極天皇と対立。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に1人残され病気になって崩御してしまいます。

蘇我倉山田石川麻呂も乙巳の変後にも続いた蘇我氏内の権力争いの結果自害に追い込まれます。

乙巳の変後に右大臣になった蘇我倉山田石川麻呂でしたが謀反を起こそうとしていると讒言され、その讒言を信じた中大兄皇子と孝徳天皇の兵によって自害させられてしまいました。

しかし蘇我倉山田石川麻呂の死後も、蘇我氏内での権力争いやヤマト朝廷内での熾烈な権力争いが続きます。

しかし蘇我倉山田石川麻呂の子孫である連子(ムラジコ)の家系が生き残り、古代に起きた天下分け目の壬申の乱後も上級官僚を出し得る母体として存続し、新しい律令氏族”石川朝臣”として生き続けるのです。

まとめ

いかがでしょうか?
今回は、蘇我氏は滅亡していないという観点から古代史最大のクーデーターである乙巳の変を取り上げました。

今回の参考文献は、倉本一宏氏の著作『蘇我氏-古代豪族の興亡』遠山美都男氏の『新版 大化改新 「乙巳の変」の謎を解く』です。

2冊とも学術的に古代史に迫れる歴史学者の本なので、興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。








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