きっと大丈夫。~私たちの人生会議~

人生の半分を海外で暮らしている。

ところが、去年3月半ばに日本に帰国して以来、あれよこれよと新型コロナウィルス感染症が流行し、夫のいる国へ戻れなくなった。そうして、高校卒業以来の両親との生活が始まった。

これまでの10か月の日本滞在中に両親も私も歳を1つずつ重ねた。父は90歳、母は88歳になった。母は認知症と診断されて3年。進行は比較的ゆっくりなんじゃないかと思うけど、それでも進んでいる気がする。日常生活に大きな支障や困りごとがあるわけではないけれど、そういう母を父がずっと一人で看てきたという事実にまず頭が下がる。立派な老老介護だ。

コロナ禍の前も年に数回は2週間から1か月ほど帰って来ていたけれど、こんなに長く滞在するのは初めて。もちろん最初からその予定だったわけではなく、当初は1か月で戻るチケットを買っていた。春に来て、夏が過ぎ、秋も終わり、冬になった。洋服も季節に合わせて準備しなければならなかった。痛い出費だ。

母は私にびた一文やろうとしない。それどころか、父になおこは早く(自分の住む国に)帰ればいいのにねと陰口を言っている。なおこは好かんと言ってる。聞こえていますけど。。。それらの言葉は私が十代の頃の名残だ。

私は母と仲が良くなかった。勉強のこと、部活のこと、友達のこと、全てのことに口うるさく言ってくる母が嫌いだった。母が私の引き出しやノートをこっそり見ていることを承知の上で「お母さん、大嫌い」とノートに大きく書いた。いい娘ではなかった。居心地の悪い家を出たくて県外の大学に進学した。大学進学後も関係は変わらなかった。何かと対立していた娘を許せなかったのだろう、好きになれなかったのだろう。その頃の感情が母には残っている。多分。

私のことをお客さんと言い、長居をしているやっかいな娘と思っている。自分の物を夫である私の父には譲ろうとするが、私にはしない。例えば、お菓子が余っていたら、自分で食べるか父に勧める。私の存在は無視だ。そういう母の態度に最初はいちいち腹を立て、情けなく感じていた。でも、ある時気付いたのだ。これは昔の関係を反映しているのだと。育児放棄や虐待をされていたわけではないが、決して愛情をもたれていたわけでもなさそうだ。母には私の2人の兄たちが絶対的存在なのだと気付いた。兄たちのことは記憶があいまいになった今でも褒める。なぜ母が私を邪魔者扱いし、嫌いだと父に言い、他人行儀であるのか、それは十代の頃の母娘の関係からきているのだと気付いた時、本当に心から納得した。だからと言って、全てを受け入れるほど私は人間ができていない。認知症という記憶や思考があやふやになっても私は嫌われているのかと。。。つらい。。。

本当は私は母の介護をしてはいけないのかもしれない。悪態をつくということが心の中で留まっていない日が訪れるかもしれない。それはまずい。

私がここにいることができているのは父の存在だ。

父は公務員で仕事に忙しく、夜中にお酒の匂いをさせて帰って来ていた。朝の洗顔から半日以上たって若干伸びてきていたあごひげをじょりじょりと私の顔に押し付けた。典型的な九州男児で母は父が第一だった。父は厳しかったけれど、一人娘である私をかわいがった。勉強やしつけのことなどに口うるさいのは母で、父は大きな決断をしなければならない時に口をはさんだ。まさに鶴の一声でどうにでもなった。私が就職するときも海外に行きたいと言った時も日本人じゃない男性と結婚すると言った時も大反対をして、説得されたけれど、最終的にゴーサインを出してくれたのも父だ。

そんな父が自身の死後について頻繁に語るようになったのは10年ほど前に生死をさまよう大きな病気をしたからだ。心肺停止、呼吸停止になりながらも病院での処置が早く、懸命な治療により一命をとりとめた。その前には喉頭がんになり、声帯を4分の3切り取って、今はしゃがれ声だ。その後も何度か危機を乗り越えてきた。

それ以来、父は事あるごとに自分が亡くなったらこうしてほしいと話す。持ち株を処分し、銀行口座をまとめ、お墓を永代供養で準備し、斎場も決め会員になっている。お坊さんのこと、連絡してほしい人、お葬式のこと、年金や保険、遺産のこと、相続のこと、そしておそらく平均寿命などの順番からいって残されるであろう母のことなどなど考えうる全てのことを話す。

両親が元気なうちに亡き後のことを話すことはタブーだと思っていた。だから貯金がいくらくらいあるとか保険のことだとか全く知らなかったけど、父が話してくれたことで色んな準備ができている。でも、それは今現在父が元気で死がちょっと遠いところにあるからかもしれない。もし、余命がわずかなどという日々だったら、こんなに明るく話せなかったかもしれない。だから、あっけらかんと遺言書の書き方の本を渡し、書いてもらった。兄たちともめるのはごめんだから。

こういう状況になって、思いがけず両親と暮らすことになり、濃い時間を過ごしている。若い時に勝手ばかりをして心配や迷惑をかけたお詫びのつもりで、せっかく与えられた貴重な時間、親孝行をせねばと思っていたけれど、歳をとって丸くなった父に助けられている。貴重な親子の時間を過ごしている。こういう日々があるとは考えたこともなかった。本当にありがたい。

ただし。。。

母となると話は別だ。

従来のケチな性格に認知症の症状が重なっているのか、とにかく私に対する態度はひどい。洗濯は私がしていて洗濯ばさみやハンガーが必要なのに、私に使わせたくないのかそれらを隠す。挙句に、自分で隠したのに私にないんだけどって言ってくる。母のタンスから幾つもの洗濯ばさみを出し、ここにあるよ、お母さんが自分で持ってきて入れたんだよって言っても急に知らんふり。ハンガーも隠す。それだけでなく、パンやお菓子も隠す。そして、食器棚などあり得ない所からひょっこり見つかる。お母さん、こんな所に入れないでって言うと、知らないの一点張り。短期記憶がほぼないので、知らないという返事は間違ってはおらず、本当に隠したことを覚えていないというのはわかっているのだけど、腹が立つ。

ただ、すぐ忘れることは悪いことばかりでもない。同じメニューでも珍しい料理だと初めて食べたと喜ぶ。さっきまで私に対して怒っていても、何かの拍子にそれを忘れ、楽しそうに笑う。母はその一瞬だけが事実なのだ。その時を生きている。それはそれで幸せなのかもしれない。

父亡き後に母の介護を一人でするのは無理だ。嫌われているという根底にあるものが邪魔をする。父はその私の複雑な思いを多分わかってくれるけれど、普段両親のことにほとんど関わっておらず、遠くに暮らす兄2人はわからないはずだ。ましてや愛されていた兄2人だ。わかるはずがない。母にのしをつけて兄たちに送ってやりたい。

父は次に万が一のことがあっても延命治療や胃ろうなどの措置は要らないと言う。父に一日でも長く生きてほしいと思っているのは確かだけど、管だらけにするのは嫌だ。本人も嫌がっているから、そういう時にはもういいですと言う自信がある。そうするからねと父にも言っている。母に対しても同じだ。どこかの施設や病院に入ることになっても、その入る時点でそう言うつもりだ。

こういうことをはっきり言えるようになったのは、父と長い間いろいろとたくさんのことを話してきたからに他ならない。

そして、今私は自分の子供たちに伝えている。私にもしものことがあっても延命治療などは一切なしと。管だらけになるのは勘弁してほしいと。。それから、亡くなったら海に散骨してほしいことも伝えている。多分海外を飛び回り、あちこちにいるであろう子供たちにいつでも会えるように海にいたいと。海はつながっているから。もう1つ、将来、私が認知症になって、子供たちのことを嫌いということがあっても、それは決して本心ではないこと。子供たちの顔や名前を忘れることがあっても、心から愛していることを今伝えている。

娘はこういう話をすると悲しいから止めてと涙ぐむ。でも、いつかくる死。今のところ健康だけど、必ずやってくる死。タブー視して話さないのは違うと思い始めている。それは父から学んでいると思う。家族会議というほどの大袈裟なものではないけれど、考えるきっかけや機会になっている。

父は日に何度もありがとうを言ってくれるけど、母からは表面的なありがとうをたまに聞くだけ。母の本心はもう聞けない。私をどう思い、何を考えていたのかわからない。それはすごく寂しい。それでも、新型コロナウィルスという未知のもののせいかおかげかわからないけれど、日本で両親との時間を過ごし、たくさんのことを考えた。先は見えない。でも、物理的にも心理的にも準備があるから大丈夫。そう思える。


#私たちの人生会議   #わたしたちの人生会議




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