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序文2 なぜ書いてすぐ発表しなかったか。

これは前回の記事の補足です。

なぜ書いてすぐ発表しなかったか、ということについて書きましょう。

これは実は正確な問いではないですね、実際、最初に書いた通り、過去にネット上に発表したり、冊子に書いたり、原稿として発表したものもあります。すでに閉鎖したブログに書いたものも、音楽に合わせて、ポエトリーディングで朗読したものもあります。

とはいえ、発表されなかったものの方が多いです。

理由はいくつかあります。

一つは、発表するためというより、自分自身の精神的な安定や楽しみのために書いたものだったからです。

二つ目は、内容に思い入れがあったり、納得のいく出来ではなかったので、推敲に時間がかかったものがあったから。

三つ目は、一時期詩の雑誌に投稿していたことがあり、投稿条件にネット上に公開されていないこと、というのがあったから。

四つ目は、推敲している間に自分自身の感じ方や考え方が変わってしまったために公開するタイミングをのがしてしまったから。

納得いかない処があっても、さっさと公開して次の作品に進んだ方が、合理的と思う方もいるかもしれません。

それは一理あると思います。

ただ、わたしの場合、ある種の完璧主義があるのと、作品において、ある程度納得のいく内容にしないと嘘をついている気がしたのでした。

自分の事をうまく説明できない、と前回の記事で書きました。

実際のところ、この現実の社会での生きづらさなしには、非現実的なものや、幻想的なもの、あるいは理想的なものへの強い願望なしには、自分の作品はつくられなかったでしょう。

幸運にも、今のわたしは経済的にも精神的にも安定し、ごく一般的な仕事もしています。

だとしても、それができるのは、わたしが創作することができるから、創作することが、自分にとって与えられた課題であり、生き甲斐だと、感じることができているからです(注)。

創作を通じて、自分の人生を、他人を、自分が決して出会うこともなく、知ることもない人を、認めることができること、創作を通じて、自分の人生を肯定できることが、いわばわたしにとっての理想だと思っています。

残念ながら、今現在、これまでわたしの作ってきたものが、その域に達しているとは到底言えません。

むしろ、こういうことを考えるようになってきたのはここ数年です。

そしてここに公開している作品のほとんどは、そういうことを考えるようになる前に作ったものです。

むしろだからこそなのかもしれません。今後どういうものを作るにしても、今まで作ったものに対して、区切りをつけておきたいと思った次第です。

※注:(無論他の理由もありました。人間関係に恵まれたことなどの幸運、宗教思想哲学精神医学などをある程度勉強し内省的になったこと、ASDの要素も持っているADHDと診断され薬を飲んでいること、などです)

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