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ジョン・ヘイダックが教えてくれたこと(その①)

2月2日から、埼玉県立近代美術館で、展覧会「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」が開催されています。展示のテーマは、「実際には建たなかった建築たち」。20世紀以降、国内外約40名の作家による図面・模型などが集められています。

展示される建築家の分析模型を、出身大学の研究室が作成することになり、たまたま僕がその作家で卒論・修論を書いていた縁から、ほんの少しだけアイデア出しをお手伝いする機会がありました。作家の名前はジョン・ヘイダックという人です。(あ、、展覧会レビューみたいな書き出しになってしまいましたが、距離の関係で行けてません。スミマセン。MoMAとかで巡回展やらないかな・・・なんて。)

過去の資料を見返すうち、このヘイダックという人の作品や言説を通して、建築家の創作姿勢について色々と学んだことを思い出しました。一方、当時の僕にはそうして学んだことを人に伝える意識と能力がすごく足りなかったり、そもそもnoteのような文章を広く・気軽に発信できるプラットフォームを当時は知らなかったりで。折角優れた思想に触れていながら、それを「知ってもらう」点についてはなんだか不完全燃焼だったこともフラッシュバックしました。

なので、この機会に、僕がジョン・ヘイダックという作家から学んだことについて、いくつかトピックに分けて書き留めてみようと思います。言うまでもないですが、展覧会と直接は関係なく個人的に書いているだけです。また、記事中では必要最低限の図版を出典付きで引用していこうと思いますが、何か問題があればご教示いただければ幸いです。

建築家、だけれども建てない

まずは、ジョン・ヘイダックがどんな人物だったのか、略歴にふれておきたいと思います。

ジョン・ヘイダック(John Quentin Hejduk , 1929-2000)は、アメリカの建築家・教育者。ニューヨークのブロンクス生まれですが、家系はチェコ・スロバキアがルーツ。

彼が最初に建築を学んだのは、ニューヨークにあるクーパー・ユニオン(1947年入学)。卒業後は、シンシナティ大学、ニューヨークの建築事務所、ハーバード大学デザイン大学院(GSD)を経て、フルブライト奨学金でローマ大学建築科に留学、ピエール・ルイジ・ネルヴィに師事します。

ローマからの帰国後、ヘイダックはテキサス大学で講師の職を得、そこで重要な人物と出会います。歴史家・批評家のコーリン・ロウです。「マニエリスムと近代建築」や「透明性」といった論考が著名なロウとの接触は、彼の思想・制作に大きな影響を与えるものでした。

テキサスでの教職の後は、I.M.ペイの事務所や幾つかの大学での勤務を経、1964年に教授として母校クーパー・ユニオンに舞い戻ります。ここで彼は教育の傍ら、数多くのプロジェクトを制作しました。前述のとおり、そのプロジェクトの殆どは実現をもとより想定しないアンビルトワークでした。クライアントのいないドローイングを、彼は描き続けたのです。しかし、アンビルト故、そこに描かれる内容は理論的で、その多くは詩的ですらありました。少なくとも70年代には彼の作品は国際的に認知されており、日本には1975年に雑誌a+uが特集号を刊行し、大きく紹介しています。

また、教育者としてもヘイダックは有名で、ロンドンAAスクールのアルヴィン・ボヤスキーと並び、当時からトップ建築スクールの名物教授として知られていたようです。現に、今日の建築界をリードするアーキテクトのうち、彼の卒業生は少なくありません。

歴史・・学びと編集

さて、この辺で具体的なトピックに移りたいと思います。最初のテーマは、「歴史」。先人の仕事を創作者としてどう捉え、自らの作品に結び付けるか、という問いです。

ここでは、ヘイダックのキャリア前期作品を見てみたいと思います。彼の多くの作品はシリーズ化されているのが特徴で、前期の代表作としては、「TEXAS HOUSE」や「DIAMOND HOUSE」と名付けられた作品群を挙げることができます。

1970年代頃まで、ヘイダックは「ニューヨーク・ファイブ」あるいは「ホワイト派」の一員として認知されていました。「ニューヨーク・ファイブ」とは、名前の通り当時ニューヨークで注目されていた若手建築家5人(ピーター・アイゼンマン、リチャード・マイヤー、マイケル・グレイブス、チャールズ・グワスミー、そしてジョン・ヘイダック)を一括りにした呼び名で、実際彼ら自身も共同で展覧会を開き、作品集『Five Architects』を出版したりしていました。

彼らがグループとして認知されたのには理由があり、それは、主に1920年代のコルビュジェをリバイバルしたような白い形態を作品に使っていたから。だから「ホワイト派」という訳です。アイゼンマンの「HOUSE 2」、マイヤーの「スミス邸」、グレイブスの「ハンセルマン邸」などが当時の筆頭作といえます。

図版上から:House 2 、スミス邸、ハンセルマン邸
図版出典:『FIVE ARCHITECTS』Eisenman etc. / Oxford / 1975

ここで、ヘイダックの作品、「DIAMOND HOUSE A」を見てみましょう。確かに、ファサードからセットバックした丸柱と自由な立面、ブリーズ・ソレイユ、曲面壁、そしてピロティなど、コルビュジェを彷彿とされるエレメントが散見されます。その一方で、これを見て単なるコルビュジェの真似・二番煎じと断じる人もいないでしょう。どこか似ているんだけど、明らかに違う。参照元の理解をベースにオリジナルなものに組み立てなおす、編集的な設計態度といえます。

図版:DIAMOND HOUSE A
図版出典:『Mask of Medusa』Hejduk / Rizzori / 1989

「ニューヨーク・ファイブ」の作家たちが、コルビュジェ的な形態を共通して作品に用いた点は先に述べた通りですが、少なくともヘイダックに関して言えば、彼は他にも歴史のなかにたくさんの参照元を見出し、それを編集的態度によって自分の作品として成立される試みを続けていました。

最も分かりやすいのが、最初期のシリーズである「TEXAS HOUSE」の作品群です。名前が示すとおり、彼がテキサス大学にいた頃に制作された住宅シリーズで、7題の連作です。念のため付言すると、これらもすべてアンビルトです。

この連作のなかで、ヘイダックはパラーディオという古典的建築と、ミース・ファン・デル・ローエという(当時の)現代建築とを読みとき、編集し、作品化することを試行しています。例えば、最初の作品である「TEXAS HOUSE 1」は、パラーディオのヴィラ・ロトンダをかなりリテラルに下敷きにしています。そこに、ミース的なフレームとパネルの構成を与えている。1954年制作なので、彼がまだ25歳のときの作品です。

図版上・中:TEXAS HOUSE 1
図版出典:『7 HOUSES』Hejduk / IAUS / 1980
図版下:ヴィラ・ロトンダ

この「TEXAS HOUSE」シリーズで興味深いのが、7題の住宅に対して10年という長い歳月が費やされていること。その間に、彼の設計は段々と進化していくのです。構成が複雑化した「HOUSE 3」や、逆にかなりミニマムでミース風な平屋の「HOUSE 5」を経ながら、最終的には立体的な「HOUSE 7」に至っています。

図版上から:TEXAS HOUSE 3 / TEXAS HOUSE 5 / TEXAS HOUSE 7
図版出典:『7 HOUSES』Hejduk / IAUS / 1980

「HOUSE 7」ではパラーディオやミースといった参照元の影はすでに薄く、特に立面の表情はかなりオリジナルな感じがします。一方、プランにおいてはパラーディオのヴィラ構成を極限まで抽象化したといえる「9 SQUARE GRID」という秩序が見いだされ、応用されています。以降、この「9 SQUARE GRID」はヘイダックにとって重要なアイテムとして、作品やクーパーユニオンの教育課題のなかで用いられることになります。

図版:TEXAS HOUSE 7
図版出典:『7 HOUSES』Hejduk / IAUS / 1980

図版:9 SQUARE GRIDのスケッチ
図版出典:『Mask of Medusa』Hejduk / Rizzori / 1989

先人の作品を観察し、創作に反映する態度のきっかけは、コーリン・ロウとの邂逅にあると考えられます。ロウの主著である『マニエリスムと近代建築』の各エッセイが執筆・発表された時期は、ヘイダック、ロウがともにテキサス大学に在籍していた時期と大体オーバーラップします。ロウは、その中のエッセイの一つ「理想的ヴィラの数学」のなかで、コルビュジェとパラーディオのプランを並べて分析し、時代を大きく隔てた建築に内在する、偶然とは言い難い類似性を論じています。歴史からの分離を標榜したモダニズム建築と、古典的建築がその実つながっている(かもしれない)ことを説得力をもって語ったのは、世界中でも上記エッセイがはじめてだった筈です。このロウの知性との近接を通して、ヘイダックの中にも、先人の作品と創作者としての自身を結ぶ回路が開いていったのだろうと思われます。

(ちなみにコーリン・ロウは、ニューヨーク・ファイブ全体の理論的支柱でもありました。彼らにとってその影響力はとても大きかったようです。余談ですが、数年前ピーター・アイゼンマン氏の来日レクチャーがあった時、講義室でノートを開いて待ち構えていたら、「オレの師匠のコーリンはノートを取りながらレクチャーを受けられるのを嫌っていた。だからオレもそうする。閉じろ」と、言われたことがあります。その実ただ注意されただけなんですが、何十年という時を経ても薄れぬロウへの尊敬が見え隠れするようで、ちょっと感動を覚えたのでした。)

ここまで、先人の建築に対するジョン・ヘイダックの向き合い方について触れてきましたが、彼の歴史に対する知的関心は建築に留まるものではありませんでした。むしろ、建築以外の芸術にこそ彼は強く惹かれ、創作上も影響を受けていたようです。それを端的に伝えているのが雑誌『a+u』1975年5月号のインタビュー。

−誰からもっとも影響を受けましたか?
アンドレ・ジイドとマルセル・プルーストです。
−どんな作品からもっとも影響を受けましたか?
ジイドの『背徳者』とプルーストの『失われた時を求めて』です。

引用:『a+u 1975;05』, P75

インタビュアーは、多少ならず面食らったでしょう。建築家に影響を与えた作家・作品を尋ねて、いきなり文学が飛び出してくるのはちょっと予想外です。ですが、実際ヘイダックは文学からの影響をかなり意識していたようで、エッセイやインタビューなどの言説でも、相当な頻度で作家や詩人の名前が出てきます。

文学の他には、彼は絵画にも強い関心を抱いていました。コルビュジェが建築家と同時に画家であろうとした例もあるので、こちらはまだ分かるような気もしますが、ヘイダックの場合、絵画作品を分析的に見ることに心血を注いでいたようです。彼が行っていたレクチャーも、ジョルジュ・ブラックらキュビストの作品を分析・考察するものだったとか。

この建築外分野への関心は、彼自身の創作にも反映されていきます。端的には、文学からの影響はキャリア後期作品の世界観やナラティブ形式の表現、絵画からの影響は彼独自の図面表現・記譜法に反映が認められます。これらについては今後の記事で触れてみたいと思います。

さて、ここまで大雑把ながら創作者ジョン・ヘイダックの作品・思想の一端に触れてみましたが、彼を知ることが僕にとってどんな意味を持っていたかについて最後に述べ、今日のところは記事を終わりたいと思います。

本稿で紹介してきた通り、ヘイダックの作品は、建築史や美術史を参照した色々な要素が、編集的に構成されていました。彼の作品理解を少しでも深めようとするならば、その参照元を知ることが必要になります。例えば、「TEXAS HOUSE」であればパラーディオとミース。「DIAMOND HOUSE」についてはコルビュジェと同時に、実はモンドリアンが参照されています(このトピックについては改めて紹介したいと思います)。暗示的には、もっと沢山のソースがあるでしょう。建築だけでなく、言説に次々と登場するファインアートや文学も同様です。

教養も勉強もうんと足りなかった僕は、ヘイダックという作家を題材として卒論に取り組むまで、コルビュジェも、ミースも、ましてやファインアートや文学なんてロクに知りませんでした。なので、彼の作品や言説に触れるたび、毎回その参照元をイチから調べるような有様。しかしそれは、ヘイダックという作家をフィルターとして歴史を知るということに他ならず、彼が好んだ言葉を用いるなら・・・ヘイダックの仮面【Mask】を借りて過去を眺める経験ができたと言えるのかもしれません。

勿論それと同時に、一人の作家が、先人の成果をどのように自身の作品として再創造(リ・クリエイト)するか、という姿勢と手法の一端を垣間見ることもできたのです。

その言動への接触によって、常に自分の無知を自覚させられるような人、そしてその背後に広がる知的世界への憧憬を抱かずにはいられないような人が居ます。実際に出会える可能性は稀であるものの、そんな人こそ最高の教師の一つの姿であると僕は思っています。ヘイダックの作品を見て、言説を読むと、まさにそんな人物に接しているような気にされられます。2000年に亡くなってしまった彼に会ったこと、ましてや授業を受けたことなど無い僕ですが、それでも彼のことを「教師」と思う所以です。

(つづく)

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