男と女と銭湯と。

ある晩、とあるビルの屋上で、男と女のやり取りがありました

男。やや。夜風に当たりにきたつもりが、滅多なものを見てしまった。そんなところで、何をしているのです。

女。鈍い人。この世のすべてが嫌になって、このビルの屋上から、身を投げようとしているのです。

男。見たところ、まだお若い。人生には希望があります。生きていれば、美味しい食べ物に舌鼓を打てるし、家族とくだらない冗談を飛ばして笑いあえる。お望みであれば、温かい銭湯にも入れます。もちろん、あなたの身体に入れ墨が入っていなければの話ですが。

女。人生に希望はありません。私の舌はマヒしてしまって、食べ物を食べても何も感じないし、家族は酒びたりで暴力沙汰を起こし、監獄の中で内職をさせられています。封筒の中に、東京メトロのスタンプラリーのイベントの資料を詰めています。それに、私の二の腕には、入れ墨が入っています。キリストが回転寿司でカッパ巻きとツナコーンを食べています。

男。なぜあなたのキリストは軍艦巻ばかり食べるのですか。そういう愛くるしい入れ墨なら、銭湯には入れる気がします。

女。わかりません。しかし、そんなことはもう関係ありません。私はこれから死ぬのです。

男。そう悲観することはありません。どうですか。死ぬまで私と少しお喋りでも。

女。お断りします。と言いたいところですが、良く見ると、いい男。どうせ死ぬのです、死ぬ前に、いい男に抱かれるようにお話するのも、悪くありませんね。

男。話を整理しましょう。あなたは人生に悲観して、身を投げようと思った。そこで、このビルの屋上に目を付けた。近くに歓楽街がなく静かな町ですし、人通りの少ない道路に面している、身を投げるにはうってつけの場所だと思ったわけです。

女。見事な名推理。その通りです。

男。初対面の女性に褒められるのは満更でもありません。正直に言いましょう。私は嬉しい。これでこそ生きていた甲斐があるというものです。

女。あら、私もまだ誰かを喜ばせられる心が残ってたのね。

男。あなたは美しい。生きるべきです。死ぬことは、怖くないのですか。

女。もちろん、怖いです。言いようも、ないくらい。

男。ではなぜ…

女。その怖さが、生きていることを実感させてくれるからです。こちらに来てごらんなさい。下を見下ろすと、たちまち恐怖が襲ってきます。死ぬことは怖いです。しかし、これこそ、生きている実感なんです。

男。あなた、今まで、辛かったでしょう。よく、一人で、耐え抜いてきました。こんな事を言うのは初めてです。私は、あなたが好きです。多分、一目見たときから。

女。…期待、してもいいのよね?今度こそ幸せになれるって。…抱きしめてくださる?

男。願っても、ないことです。

女。恥ずかしい…その目、つぶってくれないかしら、油断していると、吸いこまれてしまいそうで。

男。御安いご用です。

女。動かないでください…!

男。銃、ですか。それはなんの真似ですか

女。私は殺人鬼です。こうしてビルの屋上で自殺志願者を装い、情にほだされた人間をビルの上から突き落とし、自殺に見せかけ人を殺すのです。

男。しかし、そんな物騒なものを使えば警察に足がつくでしょう

女。ご丁寧なご心配ありがとうございます。しかし、これは水溶性の弾で、特に人間の血液に反応し溶け、体内に残ることはありません。溶けた後は止血材になり血液が止まります、どうみても他殺には見えません。

男。あなたの二の腕のキリストが泣いていやしませんか。

女。泣いてなどいません。軍艦巻を食べています。

男。わかりました。お手上げです。降参しましょう。最後に我儘を言わせてください。あなたの腕のキリストに、キスをさせてください。

女。最後の晩餐というわけですか。殺人鬼と言えど、人の心まではなくしたくありません。どうぞ。ただ、あまりよだれなどはつかないようにしてください。アトピーがちょっとあるので、かゆみが出てきてしまいます。

男は、そのかぼそい腕を掴み、約束を破りました。キリストではなく、女の口に、キスをしたのです。

女。…今のキス、キリストに見られてないかしら…。

男。いいえ、軍艦巻きを食べていますから、気付いていないでしょう。
幸せは、神様も見逃してしまう様なささいなところで、起こってくるものです。

女。…あの…

男。なんでしょう。

女。幸せに、してくれますか?

男。少なくとも私は今、幸せです。あなたもじきに、幸せになれます。さあ、夜も明けてきました。ひとっ風呂浴びて帰りましょう。

女。でも、私にはこんな入れ墨があります

男。大きな声では言えませんが、私は銭湯を経営しているのです。あなたを銭湯に入れてあげます。

女。まあ。なんてお名前の銭湯なの?

男。「のぼせ湯」という名前です。

女。最近少し血圧が高いの。私のことまでのぼせさせないでよね。

男。心配しないでください。風呂上がりに、冷たい牛乳で、体を覚ましましょう。
もっとも、その後で、また身体が火照るようなことがないといいのですが。

女。・・・バカ。私はそんな女じゃありません。・・・でも、今日くらいは、そういう女で、いさせてください。

雀やカラスやそれから名前も知らない小鳥のちゅんちゅんだとかガァーガァーだとかホケキョホケキョだとかのさえずりと共に、男と女は静かにビルからいなくなった。

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長谷川恒希

東京で表現をしています、芸人です。昔は内閣総理大臣になりたかったです、人見知りなので外交とかできないなぁと判断しその後はサッカー選手、とんこつラーメン屋、バーテンダー、色んなものになりたかったんですけど、扉がどんどん閉まっていって、最後にたどり着いたこの仕事が大好きです。
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