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やりたいと思ったことはとっととやった方がいい

近所の商店街の靴屋でサンダルを買った。いわゆる便所サンダルではないけど、別に大したサンダルでもない。チラシについていた500円引きのクーポンを使って4000円ちょっとの本当にちょっとしたサンダルだ。それでも、試着した瞬間にそのフィット感と地面からの衝撃を吸収してくれる機能性に感動して、その3分後にはレジに並んでいた。

サンダルは別になくはなかった。ただし、15年くらい前に池袋のABCマートで買ったボロボロでサイズの合ってないものだった。15年一緒に過ごしたにも関わらず、そのフィット感のなさから割と最初の方から大事に使おうと思う気持ちが湧かず、経年劣化でソールがぺらっぺらになったことで地面からの衝撃をダイレクトに足裏に伝えてくれるようになってからは愛着すら感じることができず、以前住んでいたマンションでは換気のために玄関のドアに挟まれたり、ドアストッパーとして玄関のドアの下に挟まれるのが主な仕事だった。サンダルなのでたまに履くのだけど、すぐに足裏が痛くなるので10分程度の移動でしか履かれなかった。

「15年履かれたサンダル界」という業界があるとしたら割と悲惨な目に遭った方の分類に当てはまると思われるサンダルだったのだけど、特に捨てる理由が思いつかずにこれまでうちに居続けた。去年の夏が過ぎてから存在が頭の中から抹消されていたのでてっきりいよいよ去年は捨てたものだと思い込んでいたが、これを書く前に念の為靴箱を覗いたらまだいて本当にびっくりした。

そんなサンダルだったから、何年も前からサンダル欲しいなサンダル欲しいなと思い続けてはいた。思い続けていただけ。毎年思い続けているうちに夏が過ぎ、店頭からサンダルが消えて今年も買えなかったなと思っていたものだ。それが今日、娘の習い事の待ち時間に妻に何か買い物はないのかと聞かれたその刹那、「サンダルを買え」という雷のような天啓が降りてきて靴屋に行くことになったのだ。

試着した時の衝撃がまだ足裏にある。軽いし、バンドがちゃんと足にフィットしてくれるし、軽く跳ねても衝撃を足に伝えてこない。それまでの、もう汚れと汗を吸い切ってサンダルのベース的な部位が重たく硬くなってしまったサンダル、バンドが全く役目を果たさずに爪先がなんならサンダルよりたまに前に出てしまうサンダル、そうしたサンダルとしての機能を果たすことを放棄したが如きわが(これまでの)サンダルの存在意義が木っ端微塵に砕き散らすほどの圧倒的なフィット感と機能性を前に、この数年の数十時間のサンダル時間(サンダルのことを考えながら過ごした時間)がいかに無駄だったかをとことん思い知らされた。

ここから無理矢理主語をデカくしてまとめに向かうと、何かやりたいことがあるのならさっさとやったほうがいいと思う。もしやってみてダメでも、それは俺に合わなかった、もしくは次はこうやってみたらうまく行くかもしれないと思考が次のフェーズに進められる。上手くいったならもちろん、そのうまくいった時の自分の心の揺らぎから結果について考察することができるのでどっちに転んでもそんなに悪いことがないように思う。

あと、15年履いた方のサンダルはいい加減捨てようと思う。ちょうど明日は燃えるゴミの日だ。

より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。