自他境界が曖昧

ぼんやり、そうではないかと思っていたが、これについて詳しく調べていくと、まさしく私だ、と思った。
自他境界の線引きがしっかりとできていない。だから無駄に傷つき、人に干渉する。相手にとっても自分にとっても良くない。こうなった原因はなんだろうかね。

だが前よりマシになったのだと思う。
前は、「私がこう思っているのになぜこの人はこう思わないんだろう?」と思ったりしていた。
自分の当たり前に他人を当てはめ、その他人が自分の中の当たり前とは異なる行動をすると嫌悪感を抱いたりしていた。また、共感性羞恥を抱きやすく、相手がだらしなかったり大衆の前で目立つ行動を取ると自分が恥ずかしくなっていた。自分とは違う、「私は/俺はこう思うな〜」という意見を、自分に対する否定だと捉えていた時期もあった。
例えば感動系の映画を見た時、自分は泣くほど感動していたが、一緒に見た相手は涙を流さず普通に「いやーよかったねー」と言っていた場合、私は「え?これ普通泣く映画じゃない?この人ちょっと心が冷めてるんじゃ?」と、本気で思っていた。
自分は相手の思い通りになれるよう行動したいし、相手は自分の思い通りになって欲しいと、心のどこかで思っていたのだと思う。あまりにも曖昧な自他境界。

今は上記のことはないが、まだまだ曖昧な部分が多いと思う。
他人は他人、所詮別の人間なのだから、考えが違って当たり前。育った環境が違うのだから価値観が全く同じなわけがない。
と、気がつくまで時間がかかってしまった。ある日気がついたというのではなく、徐々に自分と他人とのズレを噛み締めていくうちに、己の認識がおかしい事に気づいていった。

自他境界は勝手に育つものではなく、生まれながらに備わっているものではないので、そうなると親や周囲の大人との関わりの中で生まれるものだ。自他境界とは何かをそれなりに掘り下げて調べた上で、私の自他境界が曖昧になった原因を考えると、これはもう間違いなく親が原因だ。
意見の押しつけ、不機嫌を物音で表す、失敗した時の「ほらね、言う通りにしておけばこうは…」、好みの否定、「○○(私)のために言っているんだよ」など。私は私であるという境界が侵されていき、親からの要望と自分の願いや嫌だという気持ちの境がわからなくなった。
小〜高校生あたりの親とのぶつかりを思い出すとげんなりしてきた。

最近は前よりもっと自他境界を意識して過ごすようにしている。意見の違いを感じても、「他人だから仕方ないか」と受け取れるよう努力している。すんなり受け取ることはまだ出来ていないように思う。

他人にうんざりした時にははっきりと自他境界ができる。あとちょっとナーバスな時もはっきりと境界がある。所詮他人、所詮他人、と思い言い聞かせることで自分の心を守っているのかもしれない。一番近しい存在と思える他人だけど他人じゃない存在の人間であったとしても、裏切る時は裏切るのだから、所詮他人〜と常々心のどこかで思うのがいいのかもしれない。
でもそれって少し寂しくもあるよね⊂(  ᴖ ̫ᴖ)⊃

私は私で他人は他人、この人にはこのくらいのライン、この人は深く関わりがあるから少しだけ曖昧にしても大丈夫、初対面のこの人はこのくらいだな、と上手く分けながら生活していきたい〜。

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