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湖国政界三国志

 この原稿は過去にFacebookのノートに公開したものです。それは滋賀県知事が「未来の党」を立ち上げて滋賀県政を混乱させていた時期に、滋賀県知事の原点を理解するため、過去の講演をノートにしてアップしたものでした。
 滋賀県では第4代野崎知事と第5代武村知事の間で革命があり、野崎県政以前の歴史が封殺される傾向にありますが、そこに息づく人と人のつながりは断絶することなく継続されています。過去を知ることは、現在やさらには未来を理解する一助にできます。
 「すまいる湖南」とは栗東市のまちづくり団体であり、平成21年度総会の講演として平成21年6月16日にお話ししましたが、すでにFacebookのノート機能は廃止されたため、改めてnoteに再録することといたします。

○はじめに

 本日は「すまいる湖南」の平成21年度総会にお招きをいただきありがとうございます。また、平素は湖南市政の運営に格別のご理解を賜っておりますことを、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。
 さて、湖南市も今ちょうど議会6月定例会の最中でありまして、本日も本会議をやっておりました。栗東市においても同じだと思います。6月定例会は6月1日から始まりましたが、2日から4日にかけて上京しておりました。2日と3日は全国市長会、4日は厚生労働省の精神保健医療福祉のあり方等に関する検討会への出席でしたが、その間、暇を見つけて神田神保町の古書街を散策してまいりました。
 神田の古書街は延々と続いておりまして、限られた時間を有効に使うために、自宅の蔵書メモを片手に、端の古書店から順番に入店して目当てとする古書を探し、その古書の値段、汚れ具合などをチェックしながら、一旦反対側の端の古書店まで一軒ずつ流し、そこからUターンして、保存状態に比べて値頃感のある古書を順番に購入していくという手法をとりました。その結果、下巻しか持っていなかった『木戸孝一日記』の上巻や『本庄日記』、『濱口雄幸日記』、そして『大本営陸軍部戦争指導班機密日誌』、『現代史資料 満州事変』などを購入することができました。因みに木戸孝一というのは戦前に文部大臣や昭和天皇の秘書長である内大臣などを務めた人物ですし、本庄日記の著者である本庄繁は陸軍大将で昭和天皇の侍従武官長、濱口雄幸は戦前の内閣総理大臣です。
 実は、中学の頃から昭和史を趣味としておりまして、こういう基本文献を手にする度に非常に心豊かになるのを感じられます。昭和史に興味を持ち始めましたのは、何と申しましても同時代史であるということと、激動の時代でもありあらゆる社会現象が詰め込まれていること、そして何よりも人間味が豊富であるということもございます。
 家に帰りましても、『高松宮日記』や『牧野伸顕日記』、『西園寺公と政局』や参謀総長杉山元による『杉山メモ』、『東條内閣総理大臣機密記録』、近衛文麿の『近衛日記』、石橋湛山の『湛山日記』、幣原喜重郎の『外交五十年』、吉田茂の『回想十年』、『芦田均日記』、『大野伴僕回顧録』、『佐藤栄作日記』、福田赳夫の『回顧九十年』など、新刊や古本が所狭しと書棚に並んでおりますが、戦前戦中戦後と、例えば政友民政二大政党、例えば軍部、例えば宮中、例えばGHQ、例えば自民党と、権力の所在とそれを巡るさまざまな戦いというものには、いつの場面でもものすごいエネルギーを感じます。しかし、歴史のおもしろさはこういった国の中央史にだけあるのではありません。昭和、特に都道府県知事が、官選知事といって内務省が派遣してきた時代から、民選知事となった戦後、地方自治が注目されてからの歴史というものも面白いところがたくさんあります。
 滋賀県においては、これまでの民選知事は、服部岩吉、森幸太郎、谷口久次郎、野崎欣一郎、武村正義、稲葉稔、國松善次、そして嘉田由紀子と8人を数えますが、それぞれどうして多士済々でありまして、ものすごい権力闘争をしているのであります。
 このうち栗東出身の知事は2人おります。最近の國松善次氏は(栗東市)出庭出身ですが、最初は稲葉稔氏後継として出納長の高井八良氏や大阪府副知事の吉沢健氏らと、2回目は共産党候補者と闘って知事の座を得ました。しかし、3回目は嘉田由紀子氏の“滋賀県初の女性知事を”、“新幹線新駅凍結”、“もったいない”という表側と政党の選挙サボタージュという裏側の両面からの攻めに破れております。
 本日は、テーマは何でもよいということでしたので、もう一人、栗東出身で戦後初めての民選知事となった服部岩吉氏をはじめといたしまして、第2代の森幸太郎氏、そして第3代の谷口久次郎氏という3人の歴代知事を軸とした“湖国政界三国志”というお話を、資料に拠りながら、させていただきたいと思います。

○服部・森・谷口とは(3人の傑物)

 それでは、まず、この3人の傑物たちの姿をラフに整理しておきます。手元にちょうど昭和30年に滋賀日出新聞社が発行した『滋賀県人物名鑑』という書籍がありましたので、これに基づきまして3人をご紹介します。
 最初に紹介いたしますのが、ご当地出身の服部岩吉氏。項目が「人情味豊かに意思頗る強固/続々と不滅の功を樹てる」と題されておりまして、「明治18年11月20日栗太郡金勝村御園の生まれ、県立膳所中を卒業して大正3年金勝村助役となり、6年村会議員、9年5月村長に当選して5期重任し、12年には県会議員に当選、昭和2年2回目の当選をして県政壇上の闘士となり、7年から4回代議士に当選して厚生政務次官もつとめて来た。この間県畜産組合、県町村会長会、県農林組合連合会、大津酒造組合、滋賀県馬匹畜産組合などの会長をつとめること数しれず。政党は普選実施の時自ら『立憲青年党』を組織して郡内青年を牛耳って来たが、現在は自由党の長老であり、県下の政治家としては押しも押されもせぬ大御所である」と書かれております。「自由党の長老」というのは、『人物名鑑』の書かれた昭和30年当時のことであり、この年末にはいわゆる保守合同ということで自由民主党が誕生しております。

服部岩吉

 戦前は政友会滋賀県支部長として、昭和15年の大政翼賛会発足に伴う政友会の幕引きをしております。手元にあります昭和19年に発行されました『立憲政友会滋賀県支部党誌』にそのときの様子が描かれておりますが、昭和15年7月16日の党本部解散大会を受けまして、「吾が支部に於ても本部の解党に伴い支部解散の準備を進め、種々必要の手続を了して、9月8日午前10時半より大津市滋賀県教育会館に臨時総会を開会、出席者約150名。奥村常任幹事司会の下に、皇居遙拝・感謝の黙祷を捧げて後、丸橋顧問を座長に推薦、丸橋氏座長席に着いて支部解散の件を附議し信正総務より解散理由の説明ありて満場一致これを可決、ついで財産処分の件・党誌編纂の件を附議してこれ亦満場一致可決、服部支部長挨拶を行い、同氏の発声にて 天皇陛下万歳を唱和し、11時半閉会した」とされております。
 その後、昭和17年という戦時中に唯一行われた衆議院議員総選挙、いわゆる“翼賛選挙”に非推薦で立候補し落選しています。翼賛選挙といいますのは、蔵書のひとつである『戦時議会史』という本によりますと「すでに一部の地方選挙で実験済みの候補者推薦制度を衆議院議員の選挙にも適用しようとしたもの」で、「来るべき総選挙には、戦争目的完遂のために積極的に協力する有為の人材が選出されることが望ましい」とした東條首相の談話に沿って「翼賛政治体制協議会」が466名の候補者の推薦を行い、そのうち81%の381名が当選、反対した非推薦組の当選はわずか85名で、服部氏もここで非推薦候補者として滋賀選挙区5人の定員からは漏れたのでありました。こうした経過についての服部氏の思いは、氏の伝記であります『服部岩吉』に載っているはずですが、実はうちの書庫にあったはずで探したんですが、どうしても見つからなかったので、別の機会があれば触れることといたします。性格としては、毎日新聞社の『滋賀百年』に「岩吉をもじって“ガン吉”と呼ばれたほどの強い性格であった」と書かれています。
 次に紹介しますのが、森幸太郎氏。先の『人物名鑑』の項目では「7回目の代議士を捨て知事に/農水産の権威として期待さる」と題され、「明治23年7月20日東浅井郡竹生村弓削に生れて、長浜農学校を卒業し、時の政友会長老藤沢万九郎氏の推薦で政友会に入り先祖からの農業と土地柄水産に関係しながら政治運動に熱中し、……その間昭和2年9月県会議員に当選して以来4回県議に当選し、昭和12年に衆議院議員に当選して28年までに6回当選という猛者であり、以前に農林次官をつとめ、第2次吉田内閣の時広川弘禅氏の推挙で農林大臣に就任し、25年退職と同時に自由党顧問となり7月自由党代議士会長となり、26年には議会の農業使節としてアメリカへ渡った。性元来一徹もので鳩自党へ一時入党したが28年自由党に復籍し議会の懲罰委員長として、名声をあげて来た人であるが現在では日本民主党に属している」としています。鳩自党というのは鳩山一郎氏が吉田自由党から分派した政党です。

森幸太郎

 最後に谷口久次郎氏ですが、項目は「農協関係の長には特殊の腕/豪放で農民の父という人物」と題され、「氏は明治19年6月15日伊香郡永原村庄にて久五郎氏の長男に生れ、小学校を卒業してから農耕に従事したという純粋の農耕者である。明治45年庄村購買組合理事となり、大正5年同組合が永原村信用組合と改まるや組合長に就任、昭和14年迄在任したが、県下最古の組合として度々表彰を受けた。大正6年6月村会議員に当選して昭和6年まで重選し、…10年9月に県会議員に3期重選し、其後は県下に於ける農業関係の各種組合には必ず長として引出され、県信用・経済・農業共済の各農業協同組合長として業界の第一人者を尊敬もされている。ヤンマーディーゼル永原工場顧問もつとめ、30年には農業中央会々長に就任した」とあります。

谷口久次郎

 このように、政友会代議士から戦時中に非推薦で落選した湖南の頑固者・服部岩吉、同じく政友会代議士から戦後の吉田内閣での大臣経験もある江東の雄・森幸太郎、そして農業界に君臨する湖北の野人・谷口久次郎の3氏が戦後20年間の県政を担うわけですが、その間には激しい権力闘争が繰り広げられてきました。それを順に見ていきたいと思います。

○最初の民選知事(服部王国の勃興)

 昭和22年4月5日、最初の知事選挙が穏やかな春の日和のもと実施され、有権者の73.2%が投票、翌6日に開票された結果は、自由党の元代議士服部岩吉氏が203,069票を獲得し、社会党の元京大教授・山本一清氏(90,130票)や無所属の藤居静子氏(24,631票)など3人を破って初当選しました。
 ところが、ここでひとつのドラマがありました。当時は、GHQが戦争遂行に協力した人物を「公務従事に適さざる者」として順次公職から追放しておりまして、大政翼賛会、翼賛政治会および一切の関係団体または機関に関係があった者がその対象者とされました。先ほど触れましたように、服部氏は昭和9年から戦時中にかけて金勝村の村長をしておりましたが、実は当時、市町村長は原則として大政翼賛会の支部長でありました。服部氏は翼賛選挙で非推薦となり落選しましたが、地元では金勝村村長として大政翼賛の一翼を担ったのであるから知事不適格、追放対象者なのではないかとの噂が流されたのでした。服部氏は「村長ではあったが、支部長を受けてはいない」とあくまで突っ張ったのですが、実際は、部下が服部氏に内緒で、大政翼賛会金勝村支部長としての服部氏の名を使用していたわけです。どの時代にも権力におもねって卑劣なことを平然と行う輩はいるわけですが、このため、せっかく選挙に当選したにも関わらず、服部氏の知事就任は難しくなりました。
 その服部氏を危地から救い出したのが、谷口久次郎氏と弁護士の信正義雄氏でした。市町村長を支部長にする役割の大政翼賛会滋賀県支部組織部長だった信正氏は「服部氏を金勝村の支部長にしようとしたがついに引き受けなかった」と証言し、谷口氏はすでに1月に公職追放されていたにもかかわらず、取り調べに際して一通の書簡を提出しました。その書簡は、戦時中に服部氏が谷口氏を訪ねたときに留守だったために置いていった手紙で、「大政翼賛会、翼賛壮年団に関して、自分のために協力を勧める友情には感謝するが、大政翼賛会への反対は信念であり、いくら勧められても参加し、協力するわけにはいかない」と、服部氏の反翼賛会の立場と信念が書かれていたのです。この書面が決定打となり、服部氏の追放問題は解決し、服部氏は谷口氏に深い感謝の念を持ちました。“服部王国”の誕生です。

○谷口の引きずり出し(農協勢力の再建)

 最初に覇を唱えた実力者・服部岩吉氏の任期は4年です。2回目の知事選挙は昭和26年4月に行われ、再度立候補した服部氏は、職員組合に推された副知事岡本三良助氏を僅差で打ち破りましたが、このとき投票率は89.2%と過去最高を記録しています。岡本氏は内務省が任命した最後の知事で、“服部王国”においては旧支配層にあたる人物です。戦後初期、湖国は旧領主を副知事に取り込んだ服部氏の支配下にありましたが、有権者の9割が投票した結果を踏まえてみますと、“旧支配者”の造反を支持する反服部派が県民の半分近くいるということで、さしもの“服部王国”にも動乱の萌芽が見えてまいりました。
 ところで、この頃、戦後の超インフレ、それに対するドッジラインと称された超均衡財政というように経済財政政策が大きくブレたことにより、全国的に農協の経営が危機に瀕していました。湖国も例外ではなく、服部知事は滋賀の農協連救済策を部下に練らせ、農協4連の一元化による効率化という政策を採用します。農協法では県段階は4つの連合会に分割することが決められていてひとつに合併することはできませんので、蓋を開けたらたまたま1人が各連合会長を兼務してしまったということにしておいて、実質的な一元化を実現しようとしたのです。
 問題はその候補者でしたが、農協系統からは農業界の巨星・松原五百蔵氏の名前や野人・谷口久次郎氏の名前が挙がりました。県経済農協連副会長の大森正章氏あたりは足繁く県庁を訪れ、「谷口のおっさんでないと、県農協の立て直しはできんのや。知事も自分の県政中に、県農協を倒してはあかんやないか。なんとしてでも、谷久のおっさんを、県連の会長に迎えることに、同意して協力してもらいたい」と言って服部知事を口説き落としました。このあと、農協系統や服部知事の使者が公職追放解除後もいまだ湖北に引きこもっていた谷口氏のもとを頻繁に訪れます。
 一方、谷口氏が付けていました日記を読みますと、同じ時期に森幸太郎氏の使者から自由党県連幹事長への就任打診を受け、断っています。服部、森両氏から同時期に谷口氏へ働きかけがあったことは面白いところです。服部知事は谷口氏を県庁に呼び出し「農協連会長に就任してほしい」と要請、県議会などからの働きかけもあり、氏の日記では「だんだん決意が固まりつつある」、「引き受ける外なからん」と日々腹を固めていき、『滋賀県農業協同組合史』では自宅の囲炉裏端で「どれ、ワシが出るか」とつぶやいたとされています。これにより、農協という“地方勢力”の再編と形成がはじまりますが、当時その力はまだまだ小さなものでした。

○服部・森全面戦争(二大王国の抗争)

 昭和29年初秋、服部岩吉氏が昭和30年4月までの任期を全うせずに知事を辞任し、知事3選に備えるという噂が拡がりました。実際に服部氏は早期辞任の意向を固めており、自由党県連幹事長を上京させて県選出国会議員に根回ししてまわりました。戦後の知事選挙は昭和22年4月に全国一斉にスタートしましたので、当時は3選反対運動が全国的に広がっており、森幸太郎代議士が真っ向から服部知事の3選反対すなわち服部知事の早期辞任反対論をぶち揚げました。森派の県議にも服部県政が「側近政治」であるという批判とともに知事早期辞任反対が強く、農林大臣経験者である森氏を担ぎ出して服部氏の3選を阻止しようという空気が醸成されました。“服部王国”に対する反乱ののろしが上がったのです。
 一方で、服部対森という自由党同士の二大勢力の直接対決を回避するため、水面下では双方を引っ込めて自由党相談役の谷口氏を引っぱり出そうという動きが進みました。服部氏は快く両者の無条件同時退陣という長老仲裁案を了承しましたが、森氏は馴れ合い政治に反対し、知事選出馬の意向を固めます。谷口氏は「うちのばあさんは、知事公邸の女アルジには似合わんよ」と笑い飛ばしたといいますが、農協中央会副会長の吉田義美氏は谷口会長の顔に浮かんだ不満の表情を見逃さなかったといいます。
 森氏が呑まない以上、仲裁案が実現するわけもありませんので、服部氏は予定どおり11月に早期辞職。しかし、知事選告示になると社会党の花月純誠氏も参戦し、三つ巴の選挙戦が展開され、12日投開票の結果は、森幸太郎氏が157,554票を獲得して当選しました。因みに服部氏は97,945票しか得票できず、花月氏の104,357票にも及びませんでした。湖国は“森王国”の勢いが増し、“服部王国”は「反主流派」というかたちで片隅に追いやられていきます。

○第三極・農政連の誕生(三国鼎立時代)

 服部氏を降した森知事は、旧長浜農学校出身で農水産界の重鎮、農林大臣までつとめ、さらには副知事にも京大卒の農林官僚・野崎貫一氏を据え、農政重視の姿勢を見せました。しかし、実際の農業政策は農協連とぶつかることが多かったといいます。森氏は毒舌家であり自信家でもあったとされ、人の好き嫌いを表面に出したので、反感を持つ人を増やしました。後に参議院議員選挙に出て落選した諏訪三郎氏なども当時は農政部次長として森知事の意向を着て横柄な態度に出たために、特に財政厳しい折、補助金を巡る確執が積み重なり、農協連側では政治力を結集する必要性に駆られます。
 農協連では森知事が「側近政治」を強めていることを批判し、興農政治連盟の設立を目指します。このあたり、服部知事の「側近政治」を批判した森氏が同じように「側近政治」に陥っていたというのは興味ある事実ですが、興農政治連盟設立の原動力となったのは吉田義美農協中央会副会長でした。農政連が農民票10万票という“大農協王国”実現の方針を固めたところ、森おろしを画策してきた服部派が近づいてきます。農政連に服部派の県議・元県議13人の勢力を合わせれば森再選を阻止できるということで、候補者の一本化を探りました。計算の結果、服部氏を立てるより谷口氏を立てた方が有利と出たため、服部氏は「さらば全力を応援に尽くそう」と述べ、それを聞いた谷口氏は「立とう」と言ったと滋賀日日新聞社の『人間風物詩』に載っています。つまり、“服部王国”と“大農協王国”が同盟を結んだのです。しかも、服部派は社会党へも協力を要請、後に参議院議員になる服部派の奥村悦造県議が社会党の矢尾喜三郎代議士や大和繁県議らと歩調を合わせます。いってみれば、保守という“中原”でのパワーバランスだけでなく、革新という勃興しつつあった“地方勢力”をも糾合している格好になり、“森王国”は次第に四面楚歌の状況となっていきます。
 ここで同盟を知らずに谷口擁立を警戒する森派の辻田太一県議が旧友の吉田氏に探りを入れますが「谷口さんは出ませんよ」とウソをつかれます。森知事が胃潰瘍で入院したので情報の収集分析が遅れ、森派の船野長人県議が谷口氏に面会してその出馬意向を知ったときに、ウソを知った辻田県議は大いに怒ったといいます。森派の宇野宗佑県議も谷口氏に軽くあしらわれますが、その後、辻田県議は谷口氏に出会って「知事選候補者が森、谷口の二本建となっているものを一本化する気はないか」と起死回生の“外交努力”を行いますが、「今の段階に至っては、既に時期は過ぎてしまっており、不可能である」と答えた場面が谷口氏の日記に残っています。
 さて、昭和33年10月1日、興農政治連盟が正式に設立されると、脅威を感じた“森王国”すなわち自民党県連は森知事の公認申請を党本部に行います。一方、元衆議院議長の堤康次郎氏をはじめ県選出自民党国会議員はこぞって谷口氏を推挙します。いわば、“宮廷勢力”が谷口支持を表明したかたちとなり、“皇帝周辺”にあたる自民党本部は困ってしまい、滋賀県に橋本登美三郎副幹事長を団長とする調査団を送り込みます。ところが、谷口氏に自民党の公認が降りると困るのが社会党と労働組合です。実は国政レベルでは警察官職務執行法改正問題で与野党が全面対決しているところなので、自民公認となれば協力できないといきり立つ労働組合と、いや森県政打倒が先決だとする社会党が揉めはじめ、自民党反主流派である服部派、農政連、そして社会党・労組という三派連合も空中分解の危機に直面しました。
 森か、谷口か。揉めに揉めた自民党本部は決定を先送りし続けますが、最終的には森氏を公認します。すると、待っていたかのように興農政治連盟、社会党本部が次々と谷口氏を推薦し、自民党県連は両陣営に分かれて反主流派は谷口支持となり、骨肉の争いを展開します。一方の森派は服部派の分派行動に除名をちらつかせて牽制するとともに、個人的に社会党員を第3、第4の候補者として擁立します。社会党はすかさず2人を除名、うち1人が辞退し、結局選挙は3名で闘われましたが、このとき服部氏は「勝つことはわかっている。何票スカスかが問題なだけだ」と意気軒昂でした。市町村長や農協組合長などは双方の陣営にはせ参じ、がっぷり四つに組んだ総力戦が展開され、労働組合もフル回転していきましたが、森陣営の怪文書戦略が、反発した谷口陣営の歯車を勢いよく回すことになったのは誠に皮肉でありました。
 雨の降る11月30日、68.9%の投票率を制したのは、現職自民党の森氏(159,303票)に3万票の差を付けた無所属の谷口氏(190,997票)でした。72歳の高齢知事の誕生でしたが、結果として、県選出国会議員は自民党も社会党もすべて与党となり、初めて滋賀県政界にオール与党体制がもたらされました。

○森幸太郎最後の挑戦(地方勢力の群雄割拠)

 その後、谷口氏は自民党県連の森派とも和解をしたので、いわば各勢力が同盟を結ぶ“連合王国”ともいえる極めて安定した県政運営を行いました。しかし、4年経ちますと谷口知事はもう76歳になります。誰もが谷口氏は1期で辞めるものと考えており、特に森県政の副知事を務めた野崎貫一氏は野に下って昭和37年の知事選に向けて着々と出馬準備を始めました。

堤康次郎

 谷口氏は“宮廷勢力”である堤康次郎氏に対し、上原茂次大津市長に知事を譲りたいと話しますが反対されます。一方、森幸太郎氏は服部岩吉氏に出会い、知事選出馬の意思を表明します。また、上原市長は谷口知事に出会い出馬をしたいと話しますが、すぐに谷口知事、堤代議士とも否定的なコメントを発表し、結果的に宙ぶらりんになります。さらに社会党が独自候補の擁立に動きはじめたため、対する自民党は服部、森、谷口、そして堤、それぞれの思いが複雑に絡みながらも、自民党独自候補を擁立するという根本方針をようやく決めます。すると、早速森氏は森派の元県議を集めて後援会組織を引き締めにかかりますが、その翌日には野崎貫一氏が森派現職県議を集めて出馬表明、自派勢力を内側から食い破られた森氏は「失礼だが、ボクの副知事をやったくらいで、野崎君に県政を任すことはできない」と激怒し、慌てて出馬表明した様子が新聞に載っています。
 上原氏は自民党だけでなく、社会党、民社党にも推薦申請しました。自民党県連は、これで上原大津市長、野崎前副知事、森前知事の3人から表明を受けたばかりか、現職の谷口知事の態度が未定なのに困惑します。県連会長の宇野宗佑代議士が収集案を表明するとした矢先に、今度は谷口知事が「再出馬を決意するに至った」と記者会見します。谷口氏は無所属の上、オール与党県政を指向します。自民党単独県政を目指す森氏とは正反対の方向でしたので、オール与党の県政か自民単独の県政かが大きな争点になりました。
 野崎氏、森氏は自民党すなわち“皇帝”に対して公認申請しますが、谷口氏は自民、社会、民社各党に推薦申請をし、“連合王国”を再現したいという姿勢でした。そこで宇野県連会長は事態収拾のための5原則というものを3人に提示しますが、この中には、推薦候補者に決まったときには自民党公認とさせるという一項目が入っていました。これは各党に推薦申請した谷口氏だけに対する圧力となりますね。
 ここで花月純誠元代議士が民社党に出馬意欲を示し、民社党と上原市長を慌てさせます。民社党は社会党に相談し、推薦申請してきた谷口知事が自民党公認候補となるつもりかを問いただしますが、谷口知事はこれを否定、堤代議士も宇野県連会長を「特定候補だけを有利にするようなやり方は行きすぎだ」と厳しく批判します。しかし、民社党も社会党も次第に労働組合からの突き上げを受けていきます。民社党では上原市長を革新統一候補にと社会党に働きかけますが、社会党では7名の県議全員が谷口知事を支持します。それにもかかわらず、労組側は打倒谷口県政を掲げました。そのため、社会党の西村代議士は谷口知事に推薦困難と伝えます。
 結果的に、谷口氏も自民党公認に傾く宇野5原則を容認せざるを得ず、出馬を断念した上原市長を除き、森、野崎、谷口の3人に新たに出馬表明した県議の丹波重蔵県連副会長を含め、自民党県連総務会で候補者を選考することとしました。まず、野崎、丹波両氏に辞退を求め、森氏と谷口知事の会談をセットしましたが物別れとなりました。最終的には自民党としては谷口知事の再選を支持しますが、これを不服とした森、野崎両氏は出馬をします。手駒を失った社会党は池内源蔵県議を擁立、上原氏を失った民社党は花月氏に要請しますが固辞され、一方、共産党の中川半次郎氏が出馬を表明し、最終的には5人による選挙となりました。
 まさに“戦国時代”の様相を呈する乱立ぶりで群雄が割拠します。宇野県連会長は「私情を断ち切った」と宣言して元主君の森氏ではなく谷口支持を鮮明にしますし、オール与党体制を強く主張していた堤氏と堤派県議も最後は党議に従い谷口支援部隊となります。今回は逆に谷口支持の自民党主流派が森、野崎支持の反主流派に処分をちらつかせ、野崎派の5県議は離党届を出して独自の動きをしましたが、12月2日の投開票の結果は、谷口知事の再選となりました。

○三国時代の終焉(統一帝国の誕生)

 激戦のあとの処理としては、谷口知事が当選会見で革新政党すなわち成長著しい“地方勢力”に理解を見せる一方、“森王国”残党である5人の離党者については派閥抗争に走ったものとして厳罰で望む意思をみせました。翌日には勝利した自民党主流派県議たちが強硬論を吐きましたし、県警の選挙違反対策本部は森、野崎両陣営の違反事案を次々と検挙していきます。しかし、そのうちに自民党では離党組5人の処分は除名まで行かずにうやむやとなる一方、社会党を離党した県議の入党も認めます。このあたりがまことに自民党的です。
 3ヶ月後の翌38年2月4日、森幸太郎氏は失意のまま東京で死去します。病床でその報に接した服部氏は「森はうまいことしよった。わしより先に死んで」と夫人に語りました。2年後の昭和40年4月23日、堤康次郎氏が心筋梗塞で急逝、11月23日には服部氏も3年間の闘病生活ののち亡くなってしまいます。
 谷口氏はこの3人を評して、服部氏は正直な政治家、森氏は政治的卓見があり、堤氏には偉大さがあったといいましたが、この3人に谷口氏を加えました4人が、あるときは手を繋ぎ、あるときは勢力を伸ばし合い、代議士や知事の座を争ったりするたびに、湖国の政界には大きな波紋が起こったわけで、一般に保守王国には内紛がつきものとされますが、保守王国・滋賀県の内紛ほど激しく長く大規模な例は滅多になかったといわれます。ところが、3人が相次いでこの世を去ったことによりまして、自民党県連は谷口氏のもとで一本化することになりました。谷口氏は革新政党にも協力を呼びかけ、ようやく平和が訪れたのです。
 乱世の英雄たちが渾身の力をこめて争い、実現できなかった湖国統一が、何ら計算されたわけでなく全く突然に実現した格好でありましたが、湖国の“三国鼎立時代”が終焉を迎え、昭和49年に武村正義氏による“易姓革命”が起こるまで、谷口氏の後を受けた野崎欣一郎氏のもとで“統一帝国”は安定を続けることになります。

○おわりに

 このように、身近な歴史をひもといてみても、激烈な権力闘争があり、何度も政権が入れ替わり、今に至っているわけです。その後の大きな地殻変動でも、野崎-武村間、そして國松-嘉田間というようにございますが、いずれも関わっている人物の系譜を遡ると、本日は時間の関係で紹介できなかった人も含めて、こうした三国時代の人々とも不思議とつながってまいります。いろいろねじれながら、人間関係が交錯して現在があるということですので、過去を知って未来につなげていくということは大切なことではないかと思います。特に、今の栗東市にとってはそうした広い視野でものごとをみることが大事だと思いますので、本日はこうしたお話をさせていただきました。予定を4分ほどオーバーして申し訳ありませんでしたが、ご静聴ありがとうございました。

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