降り立った地で その270

 彼女がシャワーを浴び終わった後、僕も自分の寝間着を持って、シャワールームに赴き、一浴び終えて、ベッドルームに戻った。戻ってみると、彼女がベッドの上に胡座をかいて座っていた。スマホを見ながら、すでに封を開けた菓子を口にしていた。
「出たよ」と言うと、スマホから目を離して、僕の方を見る。
「先に始めてるよ。何飲む?」
「飲むっていうけど、何があるの?」
「本当はお水しかないんだけど」
「だよね」と言うと、彼女が楽しそうに笑う。決して酔っているわけではない。きっと最終日ということだから、旅の名残で上機嫌なのだろう。その気持ちはよく分かる。

「水だけでも、これだけのお菓子があるなら、朝まで食べ物には困らないね」
「そう思うでしょ?水だけじゃないんだよ」
「え?」と言うと、彼女は自分の体の後ろから大きなペットボトルを出してきた。
「それは何?何処から持ってきたの?」
「フロントの人に頼んだら、持ってきてくれた」
「え、ホテル内で売ってたってこと?」
「ガイドさんに相談したんだ。今から探しても、ドリンク売ってるお店ないから、どうしようって言ったら、フロントの人に掛け合って、余っている炭酸ジュースを分けてくれたの」
「そうなんだ」内心で感心しながらも、彼女の人徳に敬服する。僕だったら、間違いなく通用しないに違いない。
「まぁ、まぁ、さっさと座って。一緒に飲みましょうよ」
 彼女から言われるまま、彼女の隣に腰掛ける。僕にグラスを渡して、炭酸ジュースを注ごうとする。口振りは、まるで営業部長のようだ。そんな接待を受けたことはないが、ドラマでそんな人物を見たことがある。それを演じているとしたら、とても上手だ。日頃から練習しているのではないだろうか。

「おぉ、すまんねぇ」と言って、こちらも思わず乗ってしまう。両手でグラスを支えて、彼女に炭酸ジュースを注いでもらう。日常からこんなことをしているわけではないが、僕も乗りたくなる気分だ。
「まぁ、ぐいっと」と言われて、勢いよく一気に飲み込む。アンコールなら、ひっくり返るだろうが、ただのジュースだから、そんなことはない。
「相変わらず、いい飲みっぷりですね。社長」
「いやぁ、いい仕事をした後の一杯は格別だね」
「そうですねぇ。じゃあ、私も」彼女がグラスを持ち、僕の前に差し出した。炭酸ジュースが入ったペットボトルを手に取り、それを彼女のグラスに注ぐ。
「いつもありがとうね、ママ」
「え、ママ?どういうシチュエーション?」
「クラブのママ」
「あ、そうなの。えぇと、どう演じようかな」
 彼女が笑った顔を見て、笑い返す。楽しそうな笑顔を見ていると、何とも言えない不思議な安心感に包まれるのだった。

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旅行記小説

「空を飛んでみる」、「降り立った地から」をひとまとめに
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