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「お前はおれたちの子じゃない」から学ぶこと

「お前はおれたちの子じゃないから」

言葉の意味を理解するようになった頃から、そうやって言われて育ちました。父とも母とも、間違いなく血は繋がっていますが、そうやって言われて育ちました。

冷たーく暗ーい心が荒んでしまうような家庭だったのかというと全くそうではなくて、普通にごはん食べさせてもらって教育も受けさせてもらって沢山の愛情を注いでもらったと思います。

だから

「お前はおれたちの子じゃないから」

について、あんまり深く考えることもなかったのですが、やはり次第に大人になるにつれ、この親何言ってんだ…と思うようになります。それってどういう意味なの?と初めて本気で聞いたのは、たぶん中学生くらいだったかと。

父親から返って来た返答は、当時の私には到底理解できるものではなく、「…あっそう…」(まぁ特段害がなさそうな解答だからスルーしよう)と思いながら過ごしてきました。

が、最近になって、あの時父親が言いたかったことをやっと少しだけ理解できるようになった気がするので、今ここに書いてみようと思います。


ことばの真意

「お前はおれたちの子じゃないから」

を正しく言うと、

「お前はおれたちだけの子じゃないから」

でした。
私がスルーしていた父の返事はこうです。

「たまたまお父さんとお母さんのところに生まれてきたけど、子供は、社会の子供であって、お父さんとお母さんだけのものじゃない。だから子供をきちんと社会に出られるようにする責任がある。社会で生きていける人間を育てる使命がある。」


もしかしたら冷たいと思われるかもしれないですね。私は言われた当時、両親との距離を遠く感じましたし、哲学的というか宗教的というか、べたべたの親子関係とは程遠いさみしさがありました。

ただ、両親が私を愛してくれていないと思ったことはないので、あまり深く思い悩むこともなく。ちゃんと理解できなかったこともあり、そのままスルーしてました。


社会のあり方を考える

なんで今さらこんなことを思い出したかというと、社会で生きづらさを感じる人がいたときに、手を差し伸べられる社会であるのかどうか、ということを考えるようになったからです。

最近で言えば川崎の殺傷事件や、京アニ火災、大変衝撃的な事件が次々と起こります。あまりにも悲しいやるせない事件。

どうやったら防げるのか?評論家や専門家の皆さんだけでなく、SNSでも対策が考えられているのを見聞きします。

「登下校中に警官のパトロールを増やす」
「あえてばらばらに登校させて集団をつくらない」とか

「ガソリンを携行缶で売らない」
「螺旋階段がある建造物の消防法を変える」とか

ただ、各論だけの対策ではなくて、
そもそもこういう事件を起こす人物を生まない社会、減らせる社会への一歩も、同時に歩んでいかなければいけないのではないかと、思います。

親だけじゃ難しいこともあるでしょうし、むしろ親に恵まれなかった人も沢山いるでしょうし、おかれる環境はそれぞれだからこそ、社会が色んな足りない部分を少しずつ分担できたら、と思うのです。(この場合の社会というのは、私たち一人一人のことです。)だってその人たちは私たちの社会を作っている大切な一人に他ならない。自分たちの社会の一員がひとに危害を加えるも、幸せを一緒に創るも、自分たち次第ということになる。

…と考えていたら、
”子供は・人は、社会で育てるもの”
そういう感覚、わかるかも。と思ったんですよね。


夢物語で終わらないために

私の親は、私の友達にも怒ったり、注意したりしていました。実際友達から、「きょうこちゃんのおとうさん、怖い」「厳しくてかわいそう」と幾度となく言われました。子どもの頃はそれが嫌で嫌でたまらなくて、意図的に友達を近づけないようにしていた気がします。

でも、私の親が子供は社会のもの、と思っていたとしたら、それはなんら不思議なことではないわけです。

怒る叱る注意する、が大事なのではなくて、”相手を大切に思うこと”が大事なのだと思います。そのあらわれ方は、もしかしたら今の時代は怒る叱る注意する、じゃないのかもしれないですが…。

人の心の小さな変化を察して、理解して、丁寧に扱うこと=機微力は、夢物語を実現するための一つの手段としてとても有用なことと思っています。研究内容は、この記事に。

明日明後日何かが変わるわけではないけれど、じんわりじんわり、広がる未来を信じて今日も進みます!



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