ザ・ロフト48周年記念パーティーを終えて 前編

ニューヨークには私の人生よりも長く続いているパーティーがある。

1970年のバレンタインデーの日に『ラブ・セイブス・ザ・デー』という名のハウスパーティーとして始まった。そう聞いただけで愛のボリューム満天感あり。この記念すべきラブラブパーティー、住居兼用した大きなスペースで続けられてきたことから人々の間で『ザ・ロフト』(以下:ロフト)と呼ばれるようになった。

その家の住人で、パーティーの創始者であるデヴィット・マンキューソは2016年11月14日にこの世を旅立った。私の母と同い歳の申年。そう想えば改めて72歳の若さでは惜しまれる。しかし、感傷に浸る以上に、何が今一番素晴らしいかと言えば、この特別なパーティーを現在進行形で運営している核なるメンバー達が未来に向かって前進していること。

自動操縦ができるようあらかじめ彼が残していった「古典芸術」。まだ登録されていない「無形文化遺産」が年四回実現され続けている今日。それ自体が奇跡。ようやくこの時点で自分にも何かができたらと思えるようになった。

パーティー前日と終了後にデコレーション用の風船隊として作ったり片付けを手伝ったら、踊っているだけでは分からなかった今迄に感じたことのない「充実感」や「愛着」がこのパーティーへ生まれた。風船の結び過ぎで赤くなった指先は痛かった。でもそれはそれでとても嬉しい出来事。


二年前、札幌でクラブの引越作業を手伝わせてもらったことがある、「プレシャスホール」の「ダイレクトに伝わってくる音」の身近さと鮮明さに涙があふれた。その音を取り巻く環境のあり方に突き動かされた。「晋南貿易ビル」が取り壊されるに先立って一旦閉店に入ると時だった。その時点で、その土地は、二週間毎晩踊らせてもらった場所となったと同時に、二度と踊りには戻って来れない場所にもなった。切ないも通り越し『手伝いたいモード』に突入していた心。

オーナーの悟さんに「どうしてニューヨークでは手伝わないのか自分でも分からない。」と言ったし「ロフトの値段は高い。」とえらそうに言っていた記憶もある。当時の自分には、そのパーティーに対する付加価値がほんとうの意味で見出だせていなかったと思う。なので札幌でのモチベーションの自然発生の仕方が自分自身にとっての理想的だった。

時間はかかった。けどニューヨークで少しでも手伝う機会ができて嬉しかった。誰に声をかけられたワケでも、プレッシャーを与えられたワケでもなかったのが今回。自発的に起こった時、じぶんのベストの力が発揮できる。しかも共同作業なので、する方にもされる方にとっても互いの好意で成り立っていることに爽快の風吹いた。

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。