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聖和総合教育「建学の精神」      ~宮澤賢治を通して考える~


 この記事は、聖和学園短期大学1年生が履修する授業「聖和総合教育」で、「建学の精神」をテーマとしてお話しした講話の原稿です。密を避けるために、2021年5月10日(保育学科)、11日(キャリア開発総合学科)と分けて実施しました。

 こんにちは、学長の吉川和夫(きっかわ かずお)です。みなさんには、入学式と先日の70周年記念式典でお会いしましたが、儀式とは違って、こういう機会を頂けて嬉しいです。

 簡単に自己紹介させてください。宮城教育大学教授(音楽教育講座)を経て、2021年4月1日より学長職に就きました。そういう意味では、みなさんと同級生ですね。専門は作曲。宮教大でも作曲、音楽理論の授業を持ってきました。室内楽曲、合唱劇、オペラなど、いろいろな作品を作曲していますが、わかりやすいところでは、仙台市立錦が丘中学校や栗原市立若柳小学校をはじめ、いくつかの学校の校歌なども作曲しています。音楽学校ではない短大の学長が作曲家というのは、かなり珍しいことじゃないかなと思います。

 今日は、「建学の精神」についてのお話ですので、まず聖和学園短期大学の「建学の精神」についておさらいしておきましょう。ホームページに載っていますし、これまでにも聞いたり見たりしてきたことでしょう。

 自他を大切にし慈しむ「慈悲」の心、支えあい協力し合う「和」の心、「智慧」を学ぶ人間教育。
聖徳太子の教え「以和為貴」(和を以て貴し(たっとし)と為す)。仏教系の大学の多くがいずれかの宗派に属しているのに対し、本学はいずれの宗派にも属さない。(ホームページより)

 私は、仏教の専門家ではありませんし学長になってから日が浅いので、「建学の精神」について深く語ることはできません。そこで、今日はこの人を通して考えてみたいと思います。

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〇 聖和学園短期大学「建学の精神」~宮澤賢治を通して考える~

  ご存知ですよね。宮澤賢治さん[明治29~昭和8年(1896~1933)]、現在の岩手県花巻市に生まれた童話作家、詩人です。

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 いま「童話作家、詩人」と紹介しましたが、宮澤賢治については、さまざまなキーワードで語られます。例えば、

賢治をめぐるキーワード
童話 詩 イーハトーヴ 農民芸術 地質学 肥料設計 音楽 農学校教師 銀河・宇宙 動物・植物 自然現象・気候 日蓮 法華経

 この他にもまだまだあると思いますが、賢治はさまざまな分野に造詣が深かったので、文学のみならず、多くの視点から論じられています。最後のところに「日蓮」「法華経」とあることに注目しておきましょう。

〇 賢治の代表的な文学作品には、次のようなものがあります。きっと読んだことのある作品もあるでしょう。

銀河鉄道の夜 注文の多い料理店 セロ弾きのゴーシュ どんぐりと山猫 詩集「春と修羅」
他にも…風の又三郎 やまなし 鹿踊りのはじまり シグナルとシグナレス 虔十公園林etc.

 でも賢治の作品は、生前はほとんど知られていませんでした。生前に出版されたのは童話集『注文の多い料理店』と詩集(心象スケッチ)『春と修羅』くらいでした。賢治の死後、真価を見出した人々の尽力で、たくさんの作品が世に出ることになったのです。

〇 中でも、もっともよく知られているのが『銀河鉄道の夜』ではないでしょうか。

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 ジョバンニとカンパネルラという二人が、鉄道に乗って銀河を旅するという幻想的な物語ですね。ただ、タイトルは知っていても、実際にしっかり読んだことのある人はそれほど多くはないかも知れません。原文を読むのは案外難しいです。すらすら読める感じではありません。けれど、その世界に入っていくと、とても美しく切ない物語であることがわかります。

〇 このお話には、さまざまな不思議な人が登場しますが、印象的なひとりが「鳥を捕る人」(鳥捕り)です。

ジョバンニとカムパネルラは、銀河を走る列車の中で、鳥をつかまえるのが商売だという不思議な人に出会う。さぎや白鳥を捕まえる商売だというけれど、何だかあんまりよくわからない。妙になれなれしく話しかけてとぼけた話をしたり、列車の中と外を瞬間移動して驚かせたかと思うと、ジョバンニの持っていた切符を見て、これを持ってるとは大したもんだと大げさに褒めたり。ジョバンニはちょっと困ってしまうのだが、そんな姿をみているうちに、次第に「この人のほんとうの幸いって何だろう」と思えてくるのである。

 山形の合唱団じゃがいものために私が作曲した合唱劇「銀河鉄道の夜」の中の、この場面の歌を聴いてみてください。

♪=吉川 和夫作曲 合唱劇『銀河鉄道の夜』より "ジョバンニの切符"   合唱団じゃがいも(山形)

『銀河鉄道の夜』には、「ほんとうの幸い」あるいは「まことのみんなの幸い」というようなことばが何度も出てきます。「みんなのほんとうの幸い」とは何だろう、どうしたら実現できるのだろうということを、ジョバンニは繰り返し考えるのです。

〇 もうひとつ、同じ作品から「蠍の火」の場面。
 銀河鉄道に乗り合わせた女の子が語る「蠍(サソリ)の火」の話。女の子は、海難事故に遭い船から投げ出されて、気がついたらこの汽車に乗っていたといいます。タイタニック号の事故(1912年)がモデルとなっているのかも知れません。女の子は、空に見える赤い火「サソリの火」について語ります。

イタチに追われて井戸に落ちた1匹のサソリ。死を目前にしたサソリは悔やむ。自分はこれまでたくさんの生き物の命を奪ってきた。それは自分が生きるために仕方のないことだけれど、今はイタチに食われそうになって逃げているうちに井戸に落ちて溺れかけている。こんなことなら、イタチのために自分のからだをくれてやればよかった。そしたらイタチは1日生き延びたろう。どうか神さま、この次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。

♪=吉川 和夫作曲 合唱劇『銀河鉄道の夜』より "蠍の火"        合唱団じゃがいも(山形)

 サソリは、今度生まれてきたときは、他者(他の者)の幸いのために、自分のからだを捧げたいと祈ります。「どうか神さま」という言い方が出てきますが、これはキリスト教の神を示すものではありません。「銀河鉄道の夜」の他の部分では、「キリスト教の神」を連想させる記述もあるのですが、賢治はそのようには書きません。ある特定の宗教ではなく、「超自然的な尊い存在」に対して語りかけているのだろうと思います。

〇 もうひとつ、とてもユニークな作品を紹介しましょう。
『ビヂテリアン大祭』という作品です。

 ビヂテリアン(ベジタリアン、菜食主義)は良いことかどうかについて、さまざまな観点から論争する場が設えられ、何組かそれぞれ違った観点から、ビヂテリアン賛成と反対の議論が行われるというものです。
現実の「ベジタリアン、菜食主義者」には、様々なレベルの人たちがいます。動物質のものは一切食べない、日本で言えばカツオのだしの入った味噌汁もいけないという考えの人たち、一方で、牛乳やチーズ、バターなどは生き物の命を取るわけではないから構わないという考えの人たち。

 これから聴いていただく部分は、動物と植物についての論争で、これから流す音源の前には、反対派の意見として、「動物はかわいそうだから食わないと言うならば、植物だってかわいそうになるはずだ。動物と植物の間の境目は曖昧で、動物だか植物だかわからない生物もある。動物がかわいそうだから食わないと言うのならば、水も飲むな。水の中にいるバクテリアが死んでしまうぞ(バクテリアはかわいそうじゃないのか)」という、ほとんど言いがかりのような極端な主張がされます。それに対する反論を聴いていただきましょう。この音源は、『論義ビヂテリアン大祭』という音楽作品として上演したもので、反対派は能狂言の演者さんが語り、ビジテリアンの主張は聲明(僧侶が経文にフシをつけて唄う)の様式で演じられます。

♪=吉川和夫作曲・音楽監督『論義ビヂテリアン大祭』より 国立劇場委嘱作品(1991年)


 いま唄っていたのは、海老原広伸さんという現役の僧侶の方です。「菜食主義が是か非か」という議論は、実はとても難しいですね。「ビヂテリアン大祭」の別の部分には、菜食主義反対派から「植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくない」という主張があって、それに対する菜食主義者からの反論は、「感覚が澄んで静まっている人、徳の高い人は、微妙な味覚を感じることができるのだ」というのですが、少し無理があるようにも思います。そう言われても、やっぱり動物性食品は美味しいですもんね。

 賢治自身、「ものの命を取るのはいけないことだ」ということで実際に菜食主義を始めますが、栄養のバランスが取れずに体を崩してしまいます。ベジタリアン(菜食主義)が是か非か、どこまで徹底すべきなのか、これはどこかで考えることをやめないと、思考を停止しないと、体調を崩したりして自分自身が生きることに行き詰ってしまいます。菜食主義について考えながら感じたであろう賢治の迷い、苦しみは、保阪嘉内という親友に宛てた手紙によく表れていると思います。皆さんにお配りしたプリントの裏面に【参考】として載せておきましたので、後ほど読んでみてください。

〇 さて、賢治の父・宮澤政次郎は浄土真宗の熱心な門徒でした。賢治自身も浄土真宗を信仰していましたが、のちに熱心な法華経信者となります。賢治は、父に向かってことあるごとに法華宗(日蓮宗)への改宗を迫りました。賢治と父とは、家業を巡って微妙な関係でしたが、それに加えてこうした宗教的な軋轢もあったのです。たまたまこのふたつの宗派の対立を描いた面白い古典芸能があるので、ご紹介しましょう。能狂言『宗論』です。

旅の途中の浄土僧と法華僧が、旅籠で同じ部屋に居合わせる。信じる宗派が違うということで、法文(教義)について問答を交わすが、自分の派の教義こそが正しいと主張して譲らない。やがて、浄土僧は踊念仏で「南無阿弥陀仏(なもうだ)」と、法華僧は踊題目で「南無妙法蓮華経(れんげきょう)」と唱えて争うのだが…。
                            ♪=山本 東次郎 山本則俊

 大声で自分の宗派の法文を唱えてエキサイトしていくうちに、つい相手の法文を唱えてしまい、「しまった!」となります。この場面の後、二人は「阿弥陀も法華も隔てはない。これからのちは二人の名を『妙阿弥陀仏』と名乗ろう」と仲良く謡い舞うのです。

〇 プリントには【参考】として、先ほどお話した保阪嘉内宛ての手紙と、賢治の最もよく知られている『雨ニモマケズ』を載せておきました。

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『雨ニモマケズ』手帳


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『雨ニモマケズ』は、おそらく誰かに読んでもらいたいという意図はなく、小さな手帳に無造作に書きつけられたメモ、つぶやきです。後ほど改めて読んでみてもらえるといいなと思います(手帳の写真にシャープペンを置いたのは、大きさをわかってもらうためです)。

 ここで、作曲を専門とする者として、お話をちょっと脱線させてください。作家や詩人には、「目と意味で書くタイプ」と「耳を働かせて書くタイプ」があると思っています。賢治は間違いなく、耳を働かせているタイプだと思います。賢治の作品に現れるオノマトペは(オノマトペというのは擬音語、擬態語。「雨がザアザア降っている」とか、「風がビュウビュウ吹いている」などという「ザアザア」「ビュービュー」がそれにあたりますが)、とても多彩で面白く、それだけで1冊の本になるくらいです。例えば、『風の又三郎』にある「どっどど どどうど どどうど どどう」という激しい風の音、蟹の子供の会話「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」(『やまなし』)、稲こき機械の「のんのんのんのん」という音や、怒った象が「グララアガア、グララアガア」と吠える声(『オツベルと象』)、など、迫力があり、またファンタスティックなイメージにあふれています。「目と意味」だけで耳を働かせていなかったら、こんな多彩なオノマトペは発想できないでしょう。オノマトペに限らず、賢治のことば、特に「童話」のことばは、私にとっては自然に旋律を持ってきてくれるように思えます。


さて、あなたにとって「慈悲」「和」「智慧」とは。。。

 話を戻しましょう。さて、今日の話の中に、最初に挙げた「慈悲」「和」「智慧」と共鳴する部分はあったでしょうか。皆さんは2年間で卒業していきますけれど、その後の人生においても、末永くこの学校に関わった私たちすべてを包みこみ、育み、守ってくれるもの、それが「建学の精神」であるというふうに、私は思います。押しつけたり、叩き込んだりするものではなく、包みこんで守ってくれるものであると考えたい…と思っています。今日、皆さんは「感想文」を書くことになっていると聞いていますが、あなたにとっての「建学の精神」について、性急に結論を導く必要はありません。これから先、みなさんの長い人生において、心のどこかに小さく燃える火のように持ち続けたならば、将来にわたってみなさんを守り包み込んでくれるもの、それが「建学の精神」ではないかなと私は思います。

 これで今日のお話を終わります。最後まで聴いてくださってありがとうございました。

【参考】
・ 「私は春から生物のからだを食うのをやめました。けれども先日「社会」と「連絡」を「とる」おまじないにまぐろのさしみを数切れ食べました。また茶碗蒸しをさじでかきまわしました。食われるさかながもし私のうしろにいて見ていたら何と思うでしょうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまずそうに食っている』『怒りながら食っている』『やけくそで食っている』『私のことを考えて静かにそのあぶらを舌に味わいながら、さかなよお前もいつか私の連れになって一緒に行こうと祈っている』」
・ 「もしまた私がさかなで、私も食われ私の父も食われ私の母も食われ私の妹も食われているとする。私は人々のうしろから見ている。『あぁあの人は私の兄弟を箸でちぎった。隣の人と話しながら何とも思わず飲みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横たわっていた。今は不思議なエンチームの作用で真っ暗なところで分解しているだろう。われらの眷族をあげて尊い惜しい命をすててささげたものは、人々の一寸の憐みをも買えない。」
(保阪嘉内あて手紙 一九一八・五・一九)



雨ニモマケズ                            雨ニモマケズ 風ニモマケズ 
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決して瞋(イカ)ラズ 
イツモシヅカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンヂョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ 
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ
(手帳に書きつけられた無題の詩もしくはメモ 一九三一・十一・三)



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