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僕は僕以上にはなれない。僕は僕の100%以上の力は出せない。僕が僕らしくあるためにできることをやっていこう。

思い立って徒然に書いてみた。
別に何かテーマがあるわけでもなく。

先日、日本に10日間ほど一時帰国した。
日本に帰る飛行機の中で映画を見た。
新海誠の「秒速5センチメートル」を初めて観た。

見終わって思った率直な感想。
見なきゃよかった。
だって機内で見るのに適してないよ。

涙が、、、止まらなかった。
ずるいや、、、
泣かないわけいかないじゃないか。

ふと、子どもの頃を思い出してみた。
中学生のころの僕、高校生のころの僕、
大学生のころの僕。
あのころ、
僕はどんな大人になりたかったんだろう。
大人になった僕は
どんなふうに過ごしていたかったんだろう。

大学を出て、
僕はドイツに渡った。
就職活動を一切しなかった。
働くという選択肢を持とうともしなかった。

ある人は「勇気あるね」といった。
ある人は「人生終わったな」といった。
ある人には「きっと大丈夫だよ」といわれた。
ある人には「そうやって逃げていればいいじゃないか」といわれた。

たぶん、どれもがあっていて、
たぶん、どれもがあっていなかった。

あのころの僕は、
なぜかたくなに働くことを拒んだのだろう。
なぜかたくなに
日本にいることを受け入れなかったのだろう。

日本にいてもできることだって
たくさんあったはず。
日本にいたらできることだって
たくさんあったはず。

本に書いたり、
記事に書いたりしているけど、
ドイツでやりたいことが見つかったから
というのも確かだし、
日本を出たかったというのも確かだ。
そして、僕のことを本当に誰も知らないところへ行きたかったというのも確かだろう。

僕は、ただ僕らしくありたかった。

でも当時の僕には何が僕らしさかなんて
わからなかった。
大人でもないし、子供でもなかった。

きっと日本では《僕》を
見つけることができないし、
《僕》を見つけてもらうこともできないと
思ってしまった。

だから僕に必要だったのは、
《リセットボタン》だったんだと思う。
もう一度、
最初からやり直したかったんだと思う。
もう一度、
最初から作り出したかったんだと思う。

いびつな形でくみ上げられた積み木。
そこまでバラバラなわけではないんだけど、
それなりの形を保つことはできるんだけど、
でも僕らしい組み立て方はできないと
確信せざるをえない。
そんな感じ。

世間体と本当の自分の間にあるギャップ。埋めようにも埋める見当がつかないほどあったギャップ。

でもそんな僕だったから、
ドイツに渡ったからといって
すぐに何かできるなんてこともなかった。
シンプルな実力不足。

あの頃の僕は、
できる自分を演じるために、
できるようになる自分を演じるために、
プロテクトして、
フィルターをかけて、
意地を張って、
ごまかして、
たぶん何度も、
いや、きっと何度も自分にうそをついて、
どこかに偽らずにいられる空間があるって
思い込もうとしていたのかもしれない。

10代のころに抱いた夢は誰にも揺さぶられないほどがっしりしているともいわれる。でも、7歳のころの夢を17歳のころには忘れているように、10代のころに抱いた夢がある日忽然と消えていくなんてこともよくあったりする。

消えた夢も、潰えた夢も、
浮かんでいる夢もたくさんある。
でもどれもが僕の夢であり、僕だった。

子どもの頃の僕は、
大人の顔色を窺っていた。
素直に自分の気持ちを出せないでいた。
大人受けしそうな答えを探して、
でもそのままだとなんか嫌だから
ちょっとずらした答えを書いて、
それはだれにもばれてないって信じて、
たぶんだいぶ大きくなるまで、
僕はそんな人間だった。

年齢を重ねて、
いろんなところへ行って、
いろんな人にあって、
いろんな経験をして、
いろんな成功をして、
いろんな失敗をして、
ちょっとは成長したと思うけど、
ひょっとしたら、
今もまだそうなのかもしれない。

きっといまも、
見栄っ張りな自分はどこかにいる。
人間は誰にでも
いいところと良くないところがある。
誰にでも得意なことと不得手なことがある。
誰にでも好きなことと嫌いなことがある。

僕はサッカーの育成指導者をしていて、
育成指導者とは、大人とは、
親とはこうあるべきですよと、
メッセージを常に出していて、
日本に帰っては講習会をして、講演会をして、
でも僕自身だって実践するのは大変だったりする。

サッカー選手として
特別なキャリアがあるわけではなくて、
高校の部活ではずっとホケツだったわけで、
指導者としてもトップレベルのクラブで
華々しい成果を残しているわけでもなくて。

理想の指導者像、大人のあり方を伝えようとしている自分だけど、もちろん僕が当たり前に理想の立ち振る舞いができているわけではない。

言わなくていいことを口にして、
そんなつもりじゃないのに相手を傷つけて、
自分の心のライフを回復するので手いっぱいで、
相手だって傷ついているのがわかっているのに、
僕の口はそれをとどめることができなくて、
また余計な一言を放出してしまうことがある。

自問自答したり、
自暴自棄になったりしたりもする。
どこかで無理をしていることに
思い悩むことだってある。
自分の心をなかなか取り戻せなくて、
じっと部屋の片隅に
座り込んでしまうことだってある。
グラウンドの真ん中に寝そべって、
夜空を見上げたりしてしまう。

こんなはずじゃなかったのになぁとつぶやいて、
そういう自分を嫌だなぁって思うんだけど、

でも、、

そういうふうになるのも含めて自分なのだ。

だから僕は目をつぶって深呼吸をする。

ネガティブスパイラルな自分と向き合うのって、
思っている以上に大事だったりするのだ。

生きているといろんなことがある。
毎日毎日様々なことが襲ってくる。
どれだけ整理して、プランして、
チェックリストを作って
《こなそう》とするけど、
何もかもをイメージ通りに
できるなんてことはほとんどない。

チューニングをし直すための《儀式》はいろいろあって、人それぞれいろんな心のギアチェンジのやり方があると思うけど、

そんな中、僕は《泣く》っていう感情も、
結構大事なことなのだと思うのだ。

だいぶ話が遠回りになったけど、
機内で映画を見て
人目をはばからず涙を流したとき、
ずいぶん心が軽くなるのを改めて感じたんだ。

映画を見て、
本を読んで、
人と話をして、

感動して、
哀しくて、
寂しくて、
悔しくて、

心揺さぶられて涙を流して、
何度も目元をぬぐって、

で、そうしているときって、
すごくいろんなことが頭の中をぐるぐる回って、
いろんな言葉が浮かんでは消えて、
いろんな思い出がハローアンドグッバイで、
しばらくすると心と頭がすっきりしてたりする。

そして知らないうちに、
びっくりするほど肩に力が入っていて、
驚くほど自分にプレッシャーをかけていて、
思いもよらぬほど高いノルマを自分に課していることに気づくのだ。

僕は僕以上にはなれない。
僕は僕の100%以上の力は出せない。
無理をしたって、
ひずみが自分に返ってくるだけ。

そんな大事な普遍的なことを
どうして僕らはすぐに忘れてしまうのだろう。

深呼吸をしよう。
深呼吸ができるところにいこう。
そしてまた歩き出そう。

僕の笑顔がゆがまないように。
ゆがんだ僕の笑顔を見て
子どもたちが困らないように。
ゾンビみたいになった僕を見て
家族が途方にくれないように。
「最高のトレーニングだったよ!」
そういって帰っていく
子どもたちの笑顔を守るために。

ファイト

またつらいことがあったら、
この文章を読み直してみたいと思う。


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