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「純度ゆえの」

物事のすべてに意味があるとかないとか、そんなこと微塵も考えず、ただ「快」か「不快」かで判断していたティーンエイジャーの頃に、Nちゃんとは出会った。
Nちゃんは、わたしが当時アルバイトをしていた喫茶店にちょくちょく来ていて、そこでなんとなーく顔見知りになり、ポツポツ話すようになった。
Nちゃんと、いつもいっしょだったKちゃんも、ふたりとも背がすらりとして垢抜けていたせいか、人目を引くお客さんだった。
「さすがは宇都宮のお客さんだなぁ!」
だってここは黒磯、栃木でも最北端の山の麓。
なにより宇都宮は県庁所在地だし、「DEP'T STORE」の服を置いているお店もあれば、エスニック雑貨の金字塔、「むげん堂」もあったのだ。
90年代の話しです。

Nちゃんは、「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグくらいに短いベリーショートで、顔立ちも仕草もすごく中性的だった。
反対にKちゃんは、ふっわふわの柔らかそうなパーマの髪をゆるーくひとつに結んでいて、笑顔が今井美樹によく似ていた。
とにかく絵になるふたりだった。

NちゃんもKちゃんも、当時のわたしより5歳くらい上だったと思う。

ある日の会話で、「Nちゃんは普段なにをしているの?」と聞いたら、「宇都宮の駅ビルのなかの『アンデルセン』でバイトしている」と言った。
わたしは「アンデルセン」の胡桃パンがすごく好きだったから、「軽くトーストしてはちみつ塗って食べると美味しいよね!」と誉めた。

それから数日後、バイトが終わって家でのんびりしていたら、(なんでうちを知っているのかな)Nちゃんが訪ねてきた。
やたら大きな紙袋を持ってるなぁと思ったら、なかには胡桃パンが25個入っていた。直径25cmあまりの胡桃パンだから、その光景は圧巻、というか異様だった。
瞬時に、Nちゃんの気持ちを完全に悟った。
が、わたしはあまりにも未熟で、たちまち怖気付いてしまって、よそよそしくパンを受け取ったはいいがそのまま自室にこもり、家族の手前もあって、Nちゃんを追い帰してしまった。

それからしばらく、バイト先の喫茶店にKちゃんは来ていたけど、Nちゃんは現れなかった。

ある秋の日、痛烈な失恋をしたわたしは、高校をさぼってそのまま電車に乗り、燃え殻みたいにふらふら宇都宮の街を徘徊していた。
とりわけ店に入るんでもなく、人がいっぱいいるアーケードをよろよろ歩いていたところ、「おい!」と鮮烈に呼び止められた。
声の主はNちゃんだった。
「なんて顔してるんだ。こっちに来い!」
わたしの腕を引っ張り、路地裏の喫茶店に連れ込んだ。
Nちゃんと対面して座るような形で、わたしは果たして何を飲んだのだろうか?(今なら間違いなくビール1択だけど)

「おい、何があったのか話してみろ。言ってラクになることだってあるんだから」
Nちゃんは真面目に言った。
わたしは言える範囲で事の顛末を話すも、しばらく黙って聞いていたNちゃんは、「なるほどな」と頷き、それから確信めいた表情で、「おまえな、それはすごいことだぞ。今頃、みんな高校の教室でぼけっと授業を受けている中、おまえはすごく傷ついて、我を忘れるほどそのことについて考えている。没頭してる。真剣なんだよ、おまえのやっていることは」と言った。

Nちゃんから発せられた言葉をすぐに飲み込めるほど自分を客観視していないわたしは、「はぁ?」としかいいようがなかった。
それでもNちゃんはしきりに感心している様子で、「おまえはかけがいのない時間を過ごしているんだよ」と語気をつよめた。

Nちゃんの言葉を理解したのは、どれくらい経ってからだろうか。
ふと思い出しては、「今だったらNちゃんと友だちになれるはず」と、思い馳せつつも、実際に連絡するまでは至らなかった。


残念ながら、すでにこの世にNちゃんはいない。ひとづてにNちゃんの訃報を聞いたのは十何年も前になる。

最近、友人の訃報が重ねて届く。
偶然だが、共通しているのは故人の「純粋性」だ。
この世に生きながらにして、「純度」を保とうとする祈り。にんげんであることへの罪悪感。
そのために足枷となる肉体は、ただの皮なのだろうか。

「死」へ導いた星は、それらをまるごと認めてくれたのだろう、と思う。
ただ、「死」への一般的概念の外に導く「死」であることは確かであった。







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