見出し画像

「鋳型をなぞる」

人と人のあいだに起こる問題は、(特に血のつながりがあったりすると)、どういう訳かまるで「鋳型」があるみたいに、似たような出来事が起きたりする。
自分の親同士にあった確執を、気がつけば自分たち夫婦がそっくりなぞっていたり、親戚のあいだでかつて生じた問題が、なぜか近所の人とのトラブルの原因と似ていたり。

人はそれをカルマと呼ぶのかはわからないけど、問題の本質をよくよくみれば、登場人物が違うだけでほとんど同じに見える。

話は少しずれるけれど、うちの子どもたちは3人とも(当然のことながら)みんなそれぞれ違う。
ひとり目の子育てが思いのほかうまくいったら、ふたり目も無意識にそれをなぞる。でもやっているうちにはぜんぜん違うぞ、ってなってきて、「え?またいちからやり直し?」みたいになる。

子どもがまだ小さかったら、泣くとか叫ぶとかで気持ちを素直に出せる分わかりやすいけれど、成長するにつれなかなか見えづらくなって、おまけに「思春期」だ「反抗期」だと単純に括ってしまうともっと見えなくなる。

うちは長男がやたらと穏やかな赤ん坊だったので、「たいへんって聞いてたけど余裕じゃーん」と口笛吹きながら子育てしてた。
よく寝るし、たとえ起きてもご機嫌でベビーベッドでニコニコしてる。
「こんなに暇なら雑貨屋でもやろうか」と、赤ん坊が数ヶ月のとき、近所のママ友と雑貨屋を始めたくらい。
がしかし、見事にふたり目で思い切り梯子を外された。
寝たと思ってそーっと布団に置いたらたちまち泣く。また立ち上がって(座ったままの抱っこは許されない)抱っこして寝たなーって布団に置いたら泣くのエンドレス。上の子の分をしっかり取り返す、いやお釣りが出るほどだった。いわゆる、「セダカー」(感が鋭い)気質だ。

そこに追い討ちをかけるように、当時のわたしは猛然と忙しかった。
ギャン泣きする娘を保育園の先生やシッターさんの腕に押し込み、キュッと踵を返して仕事に向かう日々。信頼を寄せている保育のプロだから安心ではあるけれど、毎回、泣き声を背中で受けるのはなかなかしんどいものがあった。

その暮らしに止めを指すように311の震災が起きて、流れでやんばるの森の「ぽつんと一軒家」みたいな古民家に移住してからは、まるで犬猫みたいに家族で戯れ合うまいにち。
当時2歳の娘がアトピー持ちだったこともあり、毎夜患部をさすってやらないと寝付かない。なんだかんだ丸3年はさすり続けたかも知れない。とにかくさするのが効果的だったし、今思えばさすることができてよかったと思っている。

この間会った友人も、「ひとり目がだいぶしっかり者だったせいで、ふたり目もそういうもんだと思っていた」と同じようなことを言った。
ふたり目が思春期を迎えた頃、精神の状態が不安定になったのがきっかけで、はじめて「もっと愛情をかけて欲しい」というSOSを知ることに。
「ひとりひとり欲しい愛情の量は違う。ちいさいコップで満たされる人もいるけど、あの子の愛情のコップはすごく大きかったんだよねぇ」と。

そして、その友人の母娘関係は、かつて友人が抱いていた悩み(苦しみ)そのものであった。
「わたしが小さかった頃とあの子は怖いくらいによく似てる。わたしも母親に同じことを感じてた、ってことを今になってはっきり思い出したんだよ」

彼女は言った。「ほんとに全然気が付かなかったんだよ」

この件以来友人は、人前でも堂々と甘えてくるティーンエイジャーの娘の想いに答えるように、ハグし、肩を抱き寄せ、「ママ、もう離して〜」というまでくっついているのだそう。「当時の自分が我慢していた分、とことんやろうと思う」って。

どうしてそんな似たような、いやほとんど同じ構造の問題が生じるんだろうか。

まるで隣り合わせのメトロノームみたいに、いつのまにか同調している。
自分の周波数を変えない限り(簡単ではないと思うけど)、何度でも起こり得るのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?