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天保の飢饉と叢塚

天保の飢饉は、天保4(1833)~8(1837)年に、関東地方から東北地方の広範囲にかけて起きた飢饉で、享保の飢饉・天明の飢饉とともに江戸三大飢饉に数えられる。

この飢饉は、天保6(1835)年から8(1837)年にかけて最も甚大な被害をもたらした。

この時期の仙台藩は、天保4年は長雨による凶作同6年は冷害と洪水で大不作翌7年は大冷害で、今の5月中旬にあたる時期に季節外れの大雪があり晴天の日がなく、6月からはヤマセにより稲が枯れ収穫皆無という想像を絶する惨状だったという。

なお、仙台藩の人口は、天保3(1832)年には約49万5千人だったものが、天保10(1839)年には約40万1千人になったと記録に残る。

そんな凄惨な飢饉の様子を今に伝える、叢塚(くさむらづか)という石碑が、宮城県仙台市宮城野区に残されている。

今回紹介する2か所の叢塚は、天保7年の飢饉から3回忌にあたる天保9年に建立されたものである。

勝光山徳泉寺

1か所目は、勝光山徳泉寺(浄土真宗大谷派)です。JR榴ヶ岡駅から徒歩数分のところにある。

叢塚は、現在は本堂裏手にある境内墓地の一角にあるものの、もとは離れた位置にあったものを隣り合わせにまとめたのだという。

碑面には「丙申殍氓叢塚之碑」(へいしんふぼうそうぼうのひ)と刻まれている。「丙申」は、天保7年の干支のこと、「殍」は餓死者、「氓」は流民のことを指す。

碑の傍らに立つ案内板によると、叢塚が建つ徳泉寺と金勝寺だけで2700人が死亡し、穴を掘り死者を埋めた上に叢塚が建てられたとのこと。また、埋めた場所は現在は不明だという。

徳泉寺と金勝寺には、計4基の叢塚がある。ということは、単純に計算して1つの叢塚の下に700人が埋葬されたことになる。

松風山金勝寺

2か所目は、徳泉寺から徒歩約10分のところにある松風山金勝寺(曹洞宗)。

山門をくぐってすぐのところに、2基の叢塚があった。

こちらも碑面には「丙申殍氓叢塚之碑」と刻まれている。

余談だが、天保の飢饉関連の叢塚は、天保4年の飢饉の1回忌に営まれたものが仙台市内に3箇所(松月山桃源院・喜雲山光寿院・円光山光厳院大法寺)あるという。

飢饉で亡くなった人々のために建てられた供養塔(飢饉供養塔)は、東北から九州まで全国各地に見られるが、特に飢饉が頻発した東北地方に多いようで、「餓死供養塔」とも呼ばれている。

宮城県では東北地方のなかで唯一、飢饉供養塔の悉皆調査が実施されており、江戸時代に建てられた88基の飢饉供養塔が確認されている(『宮城縣史 22』)。

今回は天保7年の叢塚を訪ねたが、また機会をみつけて他の飢饉供養塔も訪ねてみようと思う。

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