終わりの前の日

 いつものような週末、いつものような朝。今月2回目の土曜。床屋を予約してあったのに時間ぎりぎりまで寝てしまった。朝食を食べる時間は、もちろんない。
 顔を洗って服を着替えて、ネクタイは締めずにたたんでポケットに入れる。
 慌てたから階段で足を踏み外しそうになる。

 床屋まで徒歩8分のところを、小走り5分で到着。オレンジのパーカー姿の店長が、店の前をほうきで掃いていた。
 店長とあいさつを交わしながら店の中に入り、バーバー・チェアに座る。
 いつものように切り揃え、少し梳いてもらう。さっぱりといい気分になる。
 店長は帰り際、僕に小さな包みを渡した。なんでも、僕がここで散髪するのは今日がちょうど50回らしい。その記念のプレゼント。
 開けてみると、中身はつるりとしたシンプルなジッポのライターだった。いい趣味だ。僕は自然に頬が緩んだ。その顔を店長に向け、ありがとうと伝えて店を去った。

 腹が空いたので、喫茶店でモーニングでも取ろうと駅前を歩いた。しかし、駅前にある有名なチェーンの喫茶店は軒並み「CLOSED」の札を出している。仕方がないので、普段行かない駅の裏手を散策してみることにした。
 15分ほど歩いて、民家のような見た目のコーヒー専門店を見つけた。中を覗いてみると客の姿があるので、ドアを押して中に入る。
 「いらっしゃいませ」カウンターの中で初老のマスターが言った。
 カウンターの一席に座り、メニューを手に取る。
 書かれているのは、ブレンドと数種類のストレートコーヒー。それだけ。こりゃ、筋金入りの専門店だ。僕は朝食を諦めたけど、このマスターが淹れるコーヒーは試してみたくなった。マスターに敬意を表し、ブレンドコーヒーを注文する。
 油光りのする年季の入ったミルで豆を挽きながら、マスターは僕に話しかける。新顔の客がこの店に来るのは、今年に入ってから僕が初めてだと言う。
 カウンターの向こうに老夫婦が座っているが、その方たちはもう35年来のお得意さんらしい。この奥様にだけ特別に、メニューにはないマスター特製のモカジャバを出しているそうだ。
 マスターがそう言って笑うと、老夫婦は僕に笑顔で会釈をした。僕もその笑顔につられて、笑って頭を下げた。
 そうしているうちにコーヒーが出された。
 マスターのブレンドは、僕好みの深めでコクのある味わいだった。香ばしい香りが口から鼻に抜ける。
 その香りで、僕は煙草が欲しくなる。煙草ほどコーヒーに合うものはない。煙草の自販機は近くにあったし、ちょうど床屋の店長にもらったジッポもポケットに入っている。
 だけど、僕は一人苦笑して、煙草を買うのをやめた。彼女との禁煙の約束、明日でちょうど一週間なんだ。

 うまいコーヒーを飲んで、喫茶店を出た。季節もいいし、天気も最高。

 良い日だ。

 僕は駅に戻り、切符を買って、ホームで電車を待った。さすがに混んでいた。
 すぐに来た普通電車に乗る。いつもの普通電車に比べるとすごく混んでいる。しかも、大半の乗客は、3駅先の大きな公園に向かっているのだと思う。
 僕と同じだ。

 仲良くピクニックに出かけてきた家族。
 手が接着剤でくっついちゃってるんじゃないかというような高校生のカップル。
 携帯ゲーム機で夢中で対戦している中学生。

 僕は胸の中でつぶやく。
 あなたたちは、本当にこれでいいのですか?と。

 目的の駅で電車を降り、歩いて公園へ向かう。街路樹の桜がきれいだ。満開にはまだ少し早いけど、咲き始めには独特の清らかな美しさがある。
 桜の花の美しさには毎年心を奪われる。
 そして毎年、その儚さに胸を締めつけられる。
 なんだか感傷的だな、僕。
 公園についた。人でいっぱいだ。来てよかった。とりあえず、桜の一番きれいな場所を探そう。
 でも、花見のベストポジションはさすがに先客に押さえられていたから、僕は少し外れた斜面に座った。うん、ここからだって充分いい眺めだ。公園全体も見渡せる。
 例年見られる、学生や会社員の宴会組はいないようだ。酒臭くなくていい。見渡す限り、家族連れかカップルか友達連ればかりである。みんな、桜を眺めたり、サッカーやバドミントンに興じている。

ヒュイィィィィン!

 突然、下品なアラーム音が鳴り響いた。鳴り響いたというより、大合唱が沸き起こったと言うべきか。
 鳴ったのは、公園じゅうにいる人々のスマートフォンや携帯電話。災害緊急警報の時に鳴る音だ。誰もが手を止め、その画面に見入っている。
 一瞬、何事かざわつくような空気になる。だが、一瞬だ。
 みんな何事もなかったかのように、遊びの続きに戻っている。
 僕も自分のスマートフォンを見た。見るまでもないんだけど。

 「X時刻まで 15:00」

 それを見たって、もうため息も出ない。僕はスマートフォンを内ポケットにしまった。

 その時、公園の入り口付近で大きな声がした。
 僕はすぐ異変を感じ取った。素早く立ち上がり、間を置かず走り出す。入り口まで100メートル近くある 。
 声のした辺りに小さな人だかりが出来つつあった。中央に男がいて、そいつを遠巻きに家族やカップルが取り巻いている。
 男は何か叫んでいるが、よく聞き取れない。ナイフのような刃物を振りかざしている。皆凍りついたように動かない。子供連れが多いから下手に動けないのだ。今誰かが逃げ出せば、パニックが起きるかもしれない。
 あの男を止めなければ。僕は、そのためにここに来た。
 男は辺りを見回したあと、正面にいた小さな兄妹に歩み寄った。こういう卑劣な手合いが狙うのは、いつだって自分より弱い者だ。兄妹の父親が、二人を後ろへ押しやって庇う。父親は無防備だ。男は、その父親にナイフを向けた。

 僕は腰のホルスターから拳銃を取り出した。今日に限り、最悪の場合には射殺の許可が出ている。
 走りながら銃口を犯人に向ける。まだ安全装置は外せない。人だかりがあるから誤射だけは避けなければならない。それに僕は、できることなら犯人といえど殺したくはなかった。
 「そこを動くな!」
 僕は一喝し、立ち止まって慎重に狙いを定めた。男の動きが止まったかに見えた。
 その時――
 大学生風の青年が、男の背後から石を投げつけた。男がそちらを向く。その隙を待っていたかのように、別の家族の父親らしき男性が男に飛びかかった。二人は揉み合いになり、僕は引き金を引けない。男はナイフを持った腕を闇雲に振り回した。僕はその尖った切っ先が、男性の胸に突き立つのを見た。
 しまった――
 こんな日に何やってんだ、あなたたちは。
 他人の為にそんな危険を冒すなんて。
 他人の為に――
 僕は痛恨の想いを噛み殺し、拳銃を二発撃った。男の肩と、膝に命中した。

 男は倒れた。
 僕は刺された男性に駆け寄った。奥さんらしき人が泣き喚いて男性にすがり付こうとするのを制しながら、状態を確認する。胸から血が流れ、苦しそうに呻いている。意識があるとはいえ、重症だ。
 救急車とパトカーが2台ずつ到着した。誰かが素早く呼んでくれていたのだ。
 犯人も刺された男性も、すぐに救急車に運び込まれた。男性の方には、奥さんと一緒に小学生ぐらいの男の子も乗り込んだ。男の子を残していく訳にいかないのだろうが、付き添わせるのもとても辛いだろう。
 僕のせいだ。
 僕があのとき、迷わずすぐに撃っていれば。

 騒ぎが収まったあと、公園は少し人気が少なくなった。
 ヒュィィンのアラームが、もう一度鳴った。
 あの男のように自暴自棄な行動に出る者がいることは、十分想定していた。
 明日未明に、もうこの世界は終わるのだから。
 突如出現した直径何千㎞という途方もない巨大彗星が、99.999%の確率で地球に衝突する。突如、なんて言われても、ブラックホール物理学とかワームホール理論とか言われても、僕にはサッパリである。とにかく、観測エリアの内側に、突然出現したんだそうだ。それ以上の説明はなかった。おそらくわかっていないんだろうな。
 逃げ場も対策も、何の選択肢も残されていない。人類滅亡どころか、地球ごと破壊されるとまで予測されている。そりゃ、そうかもな。一応、世界中のミサイルに世界中の核弾頭を積んで撃破を試みるそうだが、あまりにもスケールが違い過ぎて無駄な足掻きらしい。当たるかどうかも怪しいが。
 その彗星の予定到着時刻が明朝4時頃。今置かれているのは、だいたいそんな状況だ。

 この事実がわかった時、各国政府は総力を挙げて緘口令を敷いた。このネット社会では奇跡とも言えるほどのことだが、約70時間のあいだ、この事はどこからも誰にも漏れなかった。

 残り48時間以降の対応は各国政府に任されたのだが、我が国が取った態度は、潔いと言ってよかった。
 国民へは30時間前に政府通達で事実を説明。
 警察・消防・自衛隊は通常待機。
 そして我々危機管理局と公安は、一般人に混じって各地の治安維持。私服警官も一部これに加わる。
 それだけだ。もっととんでもない事態になる可能性だって十分あったのに。

 だからこそ僕は、せめて自分だけでも、いつものように自分らしく過ごそうと思っていた。
 それなのに――
 床屋の店長は約束の時間にいつものように髪を切ってくれて、ライターまでプレゼントしくれた。
 喫茶店のマスターはこだわりのブレンドを淹れてくれ、常連の老夫婦を紹介してくれた。
 公園では、人々が愛する人と一緒にくつろぎ、楽しんでいた。

 ――あなたたちは、本当にこれでいいのですか?

 そんな問いは、意味のないものだった。
 僕だけなんかじゃなかった。
 誰もが、いつも通りに過ごすことを選んだ。いつもの幸せを大事にした。
 それは奇跡のようにも思えたけど、そんなに難しいことじゃなかったのかもしれない。

 それだから僕は、守らなくちゃいけなかった。
 あと3秒早く、騒ぎに気づいていたら。
 あと10メートル、入り口の近くにいたら。
 僕はなんて馬鹿なんだろう。なんて間抜けなんだろう。こんな近くにいながら、あんなに幸せそうな家族の笑顔を守れなかったなんて。
 僕は暗澹たる気分で立ち尽くしていた。
 ヒュィィンのアラームが、まるで絵空事みたいにもう一度鳴った。

 そこへ、警察官の一人が小走りにやってきて僕に告げた。
 「三崎さん、あの男性は一命を取り留めたとのことです」
 僕は安堵のため息をついた。最悪の事態だけは免れた。胸の中にあったどす黒い粘液のようなものが、いくらか押し流されていく気がした。
 「そうですか、よかった。ありがとうございます」

 傷の具合からして、緊急手術だったに違いない。救急隊も病院も、最善の対応をしてくれた。みんなで彼の命を救ってくれたのだ。世界の、終わりの前の日に。
 あの家族の最後の幸せな休日を守ることは出来なかった。だけど、最悪の終わり方だけは避けられた。

 次に鳴ったアラームは、今までのと少し意味合いが違う。
 この次にアラームが鳴ったら、それを合図に公共機関やライフラインの保守運用が停止するという、予告のアラームだ。あとは各インフラが無人の惰性で行けるところまで稼働し、そして止まる。予め通告されていた事だが、その後は電気も電話も使えなくなるだろう。
 サービス業やライフラインを維持してくれていた人達、警察・消防・自衛隊、そして政府以下我々の任務も終了だ。この日この時間まで毅然と任務を果たした同胞に、心からの敬意を表したい。
 もちろん、抗えない絶望の運命に立ち向かい、いつものように自分達の幸せを味わうことを選んだ皆さんにも。

 鉄道線路沿いにはずっと桜の木が並んでいる。まだ電車は走っていたけど、春風に舞う桜の花びらを浴びながら歩いて帰ることにした。
 桜の花の命は儚い。古くから誰もがそれを何かになぞらえてきた。だけど、今日の僕達ほど桜の儚さを想った者はなかっただろう。今までも、これからも。

 夕方には、優梨子が僕の部屋に来てくれる。
家族と過ごさせてあげるべきか迷ったけど、彼女は僕といたいと言う。だから僕は最後の時を、優梨子の肩を抱いて過ごそうと決めている。禁煙の約束も守ったよ。そんなときに、煙草臭い!なんて言われてはムード台無しだからね。

 線路沿いを離れてアパートに向かおうとしたとき、ポケットの中の衛星電話機が鳴った。公安と危機監理局用の専用端末である。電話を取ると、聞いたことない声の男が早口に喚いた。
 なんでも、彗星の予想進路が地球の700万kmほど手前で0.01mmずれたんだそうだ。
 700万kmで0.01mmとか言われても、僕にはサッパリである。


 床屋まで徒歩8分のところを、小走り5分で到着。オレンジのパーカー姿の店長が、店の前をほうきで掃いていた。
 店長とあいさつを交わし、店の中に入り、バーバー・チェアに座る。
 いつものように切り揃え、少し梳いてもらう。さっぱりといい気分になる。
 店長は帰りに小さなプレゼントの包みをくれた。なんでも、僕がここで散髪するのが今日でちょうど50回めらしい。
 開けてみると、中身はつるりとしたシンプルなジッポのライターだった。いい趣味だ。僕はくすっと笑い、店長にありがとうと伝えた。

 腹が空いたので、喫茶店でモーニングでも取ろうと駅前を歩いた。しかし、駅前にある有名なチェーンの喫茶店は軒並み「CLOSED」の札を出していた。
 仕方がないので、普段行かない駅の裏手を散策してみる。
 15分ほど歩いて、民家のような見た目のコーヒー専門店を見つけた。中を覗いてみると客の姿があるので、扉を押して中に入る。頭上でベルがカランコロンとくすぐったい音をたてた。
 「いらっしゃいませ」カウンターの中から初老のマスターが言った。
 カウンターの一席に座り、メニューを手に取る。
 書かれているのは、ブレンドと数種類のストレートコーヒー。それだけ。朝食は諦めるしかなさそうだが、このマスターが淹れるコーヒーは試してみたい気になった。マスターに敬意を表する意味で、ブレンドコーヒーを注文した。

 年季の入ったミルで豆を挽きながら、マスターは僕に話しかける。新顔の客がこの店に来るのは、今年に入ってから僕が初めてだそうだ。ちょっぴり光栄な気分になった。
 カウンターの向こうに老夫婦が座っているが、その方たちはもう35年来のお得意さんらしい。この奥様にだけは特別に、メニューにはないマスター特製のモカジャバを出しているそうだ。
 マスターがそう言って笑うと、老夫婦は僕に笑顔で会釈をした。僕もその笑顔につられて、笑って頭を下げた。
 そうしているうちにコーヒーが出された。
 マスターのブレンドは、僕好みの深めでコクのある味わいだった。香ばしい香りが口から鼻に抜ける。
 その香りで、僕は煙草が欲しくなる。煙草ほどコーヒーに合うものはない。煙草の自販機は近くにあったし、ちょうど床屋の店長にもらったジッポもポケットに入っている。
 だけど、僕はもう一度くすっと笑い、煙草を買うのをやめた。
彼女との禁煙の約束、明日でちょうど一週間なんだ。

 うまいコーヒーを飲んで、喫茶店を出た。季節もいいし、天気も最高。

 良い日だ。

 僕は駅に戻り、切符を買って、ホームで電車を待った。さすがに混んでいた。
 すぐに来た普通電車に乗る。普通電車にしてはずいぶん混んでいた。僕は3駅先にある大きな公園に向かっているのだが、この乗客の大半は僕と同じ公園に向かっているんじゃないかな。

 仲良くピクニックに出かけてきた家族。
 手が接着剤でくっついちゃってるんじゃないかというような若いカップル。
 携帯ゲーム機で夢中で対戦している中学生の男の子。

 僕は胸の中でつぶやく。
 あなたたちは、本当にこれでいいのですか?と。

 目的の駅で電車を降り、歩いて公園へ向かう。街路樹の桜がきれいだ。満開にはまだ少し早いけど、咲き始めの美しさも趣がある。
 桜の美しさには毎年心を奪われる。
 そして毎年、その儚さに胸を締めつけられる。
 なんだか感傷的だな、僕。
 公園についた。人でいっぱいだ。来てよかった。とりあえず、桜の一番きれいな場所を探そう。
 でも、花見に一番いい場所は、さすがに先客に押さえられていた。僕はベストポジションから少し外れた芝生の上に座った。うん、ここからだって充分いい眺めだ。
 例年見られる、学生や会社員の宴会組はいないようだ。酒臭くなくていい。見渡す限り、家族連れかカップルか友達連ればかりである。みんな、桜を眺めたり、サッカーやバドミントンに興じている。

ヒュイィィィィン!

 突然、下品なアラーム音が鳴り響いた。
 鳴り響いたというのとは少し違うな。大合唱が沸き起こったというべきか。
 鳴ったのは、公園じゅうにいる人々のスマートフォンや携帯電話。災害緊急警報の時に鳴る音だ。誰もが手を止め、その画面に見入っている。
 一瞬、何事かざわつくような空気になる。だが、一瞬だ。
 みんな何事もなかったかのように、遊びの続きに戻っている。
 僕も自分のスマートフォンを見た。見るまでもないんだけど。

 「Xタイムまで 残り15:00」

 軽くため息をついて、スマートフォンを内ポケットにしまった。

 その時、公園の入り口付近で大きな声がした。
 僕はすぐ異変を感じ取った。素早く立ち上がり、間を置かず走り出す。入り口まで100メートル近くある 。
 声のした辺りに小さな人だかりが出来つつあった。中央に男がいて、花見客がそいつを遠巻きに取り巻いている。
 男は何か叫んでいるが、よく聞き取れない。ナイフのような刃物を振りかざしている。皆凍りついたように動かない。子供連れも多いから下手に動けないのだろう。今誰かが逃げ出せば、パニックが起きるかもしれない。
 あの男を止めなければ。僕は、そのためにここに来たのだから。
 男は辺りを見回したあと、正面にいた小さな兄妹に歩み寄った。こういう卑劣な手合いが狙うのは、いつだって自分より弱い者だ。兄妹の父親が、二人を後ろへ押しやって庇う。父親は無防備だ。男は、その父親にナイフを向けた。

 僕は腰のホルスターから拳銃を取り出した。今日に限り、最悪の場合には射殺の許可が出ている。
 走りながら銃口を犯人に向ける。人だかりがあるから誤射だけは避けなければならない。それに僕は、できることなら犯人といえど殺したくはない。
 「そこを動くな!」
 僕は一喝し、立ち止まって慎重に狙いを定めた。男の動きが止まったかに見えた。

 その時――
 大学生風の青年が、男の背後から石を投げつけた。男がそちらを向く。その隙を待っていたかのように、別の家族の父親らしき男性が男に飛びかかった。二人は揉み合いになり、僕は引き金を引けない。男はナイフを持った腕を闇雲に振り回した。僕はそのナイフの切っ先が男性の胸に突き立つのを見た。
 しまった――
 こんな日に何やってんだ、あなたたちは。
 他人の為にそんな危険を冒すなんて。
 他人の為に――
 僕は痛恨の想いで、拳銃を二発撃った。男の肩と、膝に命中した。

 男は倒れた。
 僕は刺された男性に駆け寄った。奥さんらしき人が泣き喚いて男性にすがり付こうとするのを制しながら、状態を確認する。胸から血が流れ、苦しそうに呻いている。意識があるとはいえ、重症だ。
 救急車とパトカーが2台ずつ到着した。誰かが素早く呼んでくれていたのだ。
 犯人も刺された男性も、すぐに救急車に運び込まれた。男性の方には、奥さんと一緒に小学生ぐらいの男の子も乗り込んだ。男の子を残していく訳にいかないのだろうが、付き添わせるのもとても辛いだろう。
 僕のせいだ。
 僕があのとき、迷わずすぐに撃っていれば。

 騒ぎが収まったあと、公園は少し人気が少なくなった。
 ヒュィィンのアラームが、もう一度鳴った。

 あの男のように自暴自棄な行動に出る者がいることは、十分想定していた。
 明日未明に、もうこの世界は終わるのだから。
 突如出現した直径何千㎞という途方もない巨大彗星が、99.99%の確率で地球に衝突する。突如、なんて言われても、ブラックホール物理学とかワームホール理論とか言われても、僕にはサッパリである。とにかく、観測エリアの内側に、突然出現したんだそうだ。それ以上の説明はなかったが、おそらくわかっていないんだろう。
 逃げ場も対策も、何の選択肢も残されていない。人類滅亡どころか、地球ごと破壊されるとまで予測されている。そりゃ、そうかもな。
 一応、世界中のミサイルに世界中の核弾頭を積んで撃破を試みるそうだが、あまりにもスケールが違い過ぎて無駄な足掻きらしい。そもそも、当たるかどうか。
 その彗星の予定到着時刻が明朝4時頃。今置かれているのは、だいたいそんな状況だ。

 この事実がわかった時、各国政府は凄まじい堅固さの緘口令を敷いた。現代のネット社会ではありえない程のことだが、約70時間のあいだ、この事はどこからも誰にも漏れなかった。

 我が国が取った態度は、潔いと言ってよかった。
 国民へは政府通達で30時間前に事実を説明。
 警察・消防・自衛隊は通常待機。
 そして我々危機管理局と公安は、一般人に混じって各地の治安維持。私服警官も一部これに加わる。
 それだけだ。もっととんでもない事態になる可能性だって十分あったのに。

 だからこそ僕は、せめて自分だけでも、いつものように自分らしく過ごそうと思っていた。
 それなのに――
 床屋の店長は約束の時間にいつものように髪を切ってくれて、ライターまでプレゼントしくれた。
 喫茶店のマスターはこだわりのブレンドを淹れてくれ、常連の老夫婦を紹介してくれた。
 公園では、人々が愛する人と一緒にくつろぎ、楽しんでいた。
 ――あなたたちは、本当にこれでいいのですか?
 そんな問いは、意味のないものだった。
 僕だけなんかじゃなかった。
 誰もが、いつも通りに過ごすことを選んだ。いつもの幸せを大事にした。
 それは奇跡のようにも思えたけど、そんなに難しいことじゃなかったのかもしれない。

 それだから僕は、守らなくちゃいけなかった。
 あと3秒早く、騒ぎに気づいていたら。
 あと10メートル、入り口の近くにいたら。
 僕はなんて馬鹿なんだろう。なんて間抜けなんだろう。こんな近くにいながら、あんなに幸せそうな家族の笑顔を守れなかったなんて。
 僕は暗澹たる気分で立ち尽くしていた。
 ヒュィィンのアラームが、絵空事のようにもう一度鳴った。

 そこへ、警察官の一人が小走りにやってきて僕に告げた。
 「三崎さん、あの男性は一命を取り留めたとのことです」
 僕は安堵のため息をついた。最悪の事態だけは免れた。胸の中にあったどす黒い粘液のようなものが、いくらか押し流されていく気がした。
 「そうですか、よかった。ありがとうございます」

 傷の具合からして、おそらく緊急手術だっただろう。救急隊も病院も最善の対応をしてくれた。みんなで彼の命を救ってくれたのだ。世界の、終わりの前の日に。
 あの家族の最後の幸せな休日を守ることは出来なかった。だけど、最悪の終わり方だけは避けられた。

 次に鳴ったアラームは、今までのと少し意味合いが違う。
 この次にアラームが鳴ったら、それを合図に公共機関やライフラインの保守運用が停止するという、予告のアラームだ。あとは各インフラが無人の惰性で行けるところまで稼働し、そして止まる。予め通告されていた事だが、その後は電気も電話も使えなくなるだろう。
 サービス業やライフラインを維持してくれていた人達、警察・消防・自衛隊、そして政府以下我々の任務も終了だ。この日この時間まで毅然と任務を果たした同胞に、心からの敬意を表したい。

 もちろん、抗えない絶望の運命に毅然と立ち向かい、いつものように自分達の幸せを味わうことを選んだ皆さんにも。

 鉄道線路沿いにはずっと桜の木が並んでいる。まだ電車は走っていたけど、春風に舞う桜の花びらを浴びながら歩いて帰ることにした。
 桜の花の命は儚い。古くから誰もがそれを何かになぞらえてきた。だけど、今日の僕達ほど桜の儚さを想った者はなかっただろう。
今までも、これからも。

 夕方には、優梨子が僕の部屋に来てくれる。
家族と過ごさせてあげるべきか迷ったけど、彼女は僕といたいと言う。
 だから、禁煙の約束を守ってよかった。
 僕は最後の時を、優梨子の肩を抱いて過ごそうと決めている。そんなときに、煙草臭いなんて言われたら、ムード台無しだからね。

 線路沿いを離れてアパートに向かおうとしたとき、ポケットの中の衛星電話機が鳴った。公安と危機監理局用の専用端末である。電話を取ると、聞いたことない声の男が早口に喚いた。
 なんでも、彗星の予想進路が地球の七百万キロメートルほど手前で一ミリずれたんだそうだ。
七百万キロで一ミリとか言われても、僕にはサッパリである。

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キッド

不定期に小説作品を掲載します。 推敲前の未完成品や公募落選作品などのお恥ずかしい作品が中心になります(と、予防線を張っておきます笑)。 双極性障害。
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