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松山奇談 八百八狸Ⅶ

第七席

ここ、江戸表の邸には脇坂五郎左衛門という人がいます。前々から国の奥平久兵衛の指示で、直次郎君を毒殺しようと、甥で医師の松本道斎に毒薬を調合させていました。

日柄もよく、脇坂の段取りでお囲みに於いてのお茶会が催されています。お茶というのは元は親密を旨として始めたものでございますが、今回は極めて危険なお茶会でございます。

直治郎君の御守役であるお局の菊の井さんは、当代の殿様に佐竹家から奥方が嫁がれた時のお付だった方で、今は御年寄を勤めています。その菊の井さんと脇坂に道斎、並びに若殿の直治郎君が一同に集まってのお茶会でございます。

道斎がお茶を点てまして、直治郎君の前にお茶碗を置きます。直次郎君は何も知らないので、お茶碗に手を掛けて飲もうとしますと、御縁に着座して朦朧(もうろう)としている老人が見えました。

齢七十有余、麻裃を着まして直次郎君の顔を拝し右手を上げまして、こうやって手を振り目をパチパチさせています。直次郎君は不審に思いまして、ちょっとの間は見入っていましたが、お茶を飲もうとしますと、また、彼の者が手を振って目をパチパチさせてきます。

そこは十五万石の若殿、幼年とはいえ生れた時から位があった人なので、普通の人とは違います。

(はてな)
 と思い、すっと立ち上ると、
「若殿何れへ参りまする」
「捨置け」
 といい、縁まで行き、
「これ、其方は何者か」
 というと、老人は、

「私はお父上様のお守役、山内輿左衛門殿の姿をお借りして、これへ参りましたお国表の奥山に住みます隠神という古狸で御座います。申すも恐れ多き事では御座いますが、貴方様の身が一大事で御座います。と申しますのは、そのお茶を召上ってはなりません。尚、申し上げて置きますが、今後、私の姿の見えました時は、御身に凶事があると思ってください。尤もどんな凶事災難があろうとも、私が神通力を以って貴方様を幾重にもお守り致します」

「山内輿左衛門という守役がいたことは、父上から聞いておった。隠神と申す神通力を持つ古狸がその姿を借りて現われたというのだな」

「如何にも左様で御座います」

脇坂にも、菊の井さんにも、道齊にも、この輿左衛門は見えませんし、声も聞こえませんので、この時の若殿の様子は、ただ独り言をいっているようにしかみえません。
 
直次郎君は元の席に着座すると、
「道齊、予は急に茶が嫌になった。止める…。菊の井戻ろうぞ」
 といって、すっと御立ちになりました。

これを見て、菊の井が、
「これはどうなされました。我儘な事を…。幼いとはいえ、お茶会での中座は宜しく御座いません」

「何と申そうと、予は嫌じゃ」
 と、むずかるのを、脇坂と道斎が止めさせようとしますが、若殿はお聞き入れにならず退席してしまいました。

この為に毒殺は失敗し、やり場を失った道斎が、脇坂五郎左衛門に、
「伯父さん、若殿が毒茶に気付くはずがありません。これはあの菊の井が『怪しい』と思って、目配せか何かで知らせたに違ない。そうでなければ若君が飲む寸前に、御立座された理由が分らない。ならば、若君を毒殺するには、先に菊の井の婆さんを片付けなれば、成就しないと思うが、伯父さんはどう思います」

「確かに…。だが菊の井を片付ける手立てはあるのか。常に用心深い婆さんだから、毒の入った物なんぞ、貰っても簡単には食うまい…。何か手立てを考えねば…」

「そうですね…」
 といい、頻繁に会っては相談致します。

ここ芝、兼房町に口入れの長五郎という者がおりまして、その子分に九郎助という者がいます。その九郎助の妻の花子は、菊乃井さんに目を掛けてもらい部屋子として働いているのですが、なにより常盤津を大変上手に語りますので、殿中でも評判の人でございます。

ただ、十八の時に、眼病を患い目が見えなくなっていました。菊の井さんは不便には思いましたが、御殿に置いておくことが出来なくなり、御宰(奥女中の供や買い物などをする下男)をしていた辛抱人の九郎助に相当の結納金を付けて嫁がせました。間もなく娘も生れ、おつると名付けて可愛がっています。

花子は常盤津の師匠で、月に六回、菊の井さんの部屋に上がっては浄瑠璃を語っています。一回につき二分頂きますので、月にすれば三両になります。他にも色々頂戴物もありますし、女中方が呼んでくれれば相当の御祝儀が頂けます。それに自宅では近所の子供を集めて、稽古をさせていますので生活は相当に楽で、結構な御身分でございます。

これを知っている道斎は、
「伯父さん、常盤津の師匠の花子は、菊の井の部屋へ時々上がっています。花子が持っていく物ならば、菊の井も心置きなく食べると思います。
花子は一生懸命に働いて稼いでいますが、夫の九郎助は博打は打つは女郎も買う。花子の目が不自由なのを幸に、色んな悪事を働いています。奴の親分の長五郎にいって、一つ取り計らって見ようじゃぁありませんか」

これを聞き、脇坂が、
「なるほど、いいところに気が付いたな」
 と、早速に長五郎の所へ使いをやります。

すると、長五郎は愛宕下の脇坂の小屋へやって来まして、
「長五郎、その方に少々頼みたい事があって来てもらったのだがの…。どうだ近頃は大分景気がいいようだが…」

「どう致しまして、旦那様の前ですが口入れ家業は付き合いがありまして…。それに、町人は直ぐにこんなことを申し上げるのですが、銭が儲からないのでしようが御座いません」

「そうか…。長五郎少々金の儲かる話だが」

「へえ、金の儲かる話なら結構で御座います。金にさえなれば親の首でも取れます」
ひどい奴があったもんでございます。

「大金とは言わん。二百両をその方に遣わすが、相談にのるか…。いや、別に難しい事じゃぁないのだ。その方の子分の九郎助の事だが」

「へい、一体どの様な御用で御座いましょうか」

「九郎助に五十両をやり、後の百五十両は貴様が取れ…。外でもないが、九郎助の女房の花子が菊の井の部屋に上がる際に、土産物の中にこの薬を混ぜて菊の井に渡してくれんか。成功すれば二百両やるが、取りあえず手付に百両やろう。九郎助には二十五両もやればいいだろう」

「へい」
 といって、聞いている長五郎も悪人という程じゃありませんが、大金の二百両が貰えるとなると、
(この仕事は危なっかしい)
 と考えましたが、金が欲しいので、
「委細承知を致しました」
 と手付を百両を貰い、毒薬を預って帰ると、下女に言付けて、裏に住む九郎助を呼びにやり、
「親分、何ぞ御用で御座いますかえ」
 と、早速やって来た九郎助に、
「九郎、景気はどうだ」

「へー…。ちっとも芽が出ません」
「そうか。ここに二十五両の金が遊んでいる。欲しければ、やろう…」

「結構で御座いますね。もう貸手さえあれば、どんな高利でも借ろうと思っていた処です」
「なぁ九郎、実はこうこうこういう事だが、お前の女房の花子は、菊の井さんの処に、月に六度行くそうだが、何か手土産でも持って行くのか」

「それはもう、菊の井さんは五目寿司が好物で御座いますので、行く時には二朱分の五目寿司持って行き、向こうからは返礼に甘い物を百疋分くれますので、結局二朱の物を一分に買い替えるようなもので、お土産というは表向きの事です」

「それは何よりだ。その五目寿司の中にこの薬を分らんように混ぜて、花子に持たせてやってくれ。成功すれば五十両になるが、今は手付金として二十五両だけやろう」

「へい…。寿司の中にこの薬を。何ですこれは」
「薬だ。どうせ五十両になる仕事だ。長生きする品物じゃぁねえ」

「まあようがす。預って置きましょう。菊の井さんには色々御厄介になっていますので、この位の御返しは当前でしょう」
 といって、毒薬を受け取り我家に帰りましてございます。

その晩夫婦は枕に着くと、花子が、
「ねえお前さん。夫婦になって、おつるという十一になる子まで授かることが出来たのは、偏(ひとえ)に菊の井さんのお陰だねぇ。寝た間も御恩を忘れてはすまないね」

「本当にそうだなぁ…。そういやぁ花子、親分の長五郎さんが、『大層この頃懐が苦しくなって仕様がねえ』というのだが…、お前明後日御屋敷に行く日だよなぁ。その時に五目寿司の中へ入れて貰いたいものがあるのだが、どうだぇ、金になる仕事だが…」

これを聞くと、花子はムカムカして、突然に夫の胸倉を押え、
「お前さん…」
「何をするんだ」
「お寿司の中に、何を入れるというんだよ」
「別に仔細もねえ、毒薬を入れるんだよ」

花子は涙を流して、
「毒薬だとぇ。お前さんは恩知らずだね。二人が夫婦になれたのは誰のお陰だい。みんな旦那様のお陰だよ。その御方に毒を呑ませようとは、まあ哀れでモノが言えやぁしない」
 と、泣き声で怒鳴ったので、おつるが目を覚まして、

「お親父さん、堪忍しておくれよ」
 と、泣き声で言った。これをみて九郎助が、
「つう、泣くな。何でもねえ…。花子、何をするんだ。べら棒め俺がそんな事をすると思うか。ちょっと、お前を試しただけさ」

「つまらないことをするじゃないか。本当かと思ってどれ程心配したか知れやぁしない。お前さんも疑り深いねぇ」
「俺も人間だ。恩になった事は忘れはしねぇ。間違ってもそんな事をするものか」
 と、その晩はおつると共に、夫婦は快く寝ましてございます。

翌日になると、子供衆がやって来まして常盤津の稽古が始まりました。九郎助は何を思ったのか糊屋の婆さんに、
「伯母さん。すまないがつうの髪を結ってくれないか。少し連れて行きたい処があるので」
 といって、二朱金(金貨の一種)を渡した。婆さんも二朱金となれば結構な話です。いつもおつるという子の髪を結ってやっているので、
「つう、御出で」
「あいよ」
 と、やって来たのを婆さんが髪を結ってやります。

その間に九郎助は、蛇の目寿司へ行き、二朱分の寿司を重箱の中へ詰めさせて帰って来ますと、婆さんに気付かれないように寿司を二つ三つ取って、そこに毒薬をパラパラと撒き、箸で掻き回して、その上に寿司を戻して、重箱の蓋をしました。

我家へ帰ると花子に気付かれないように抜き足で、タンスから着物を取出し、再び婆さんの処へ帰って行くと、おつるはチャンと髪を結えています。

そこで着物を着替させて、
「あの、御婆さん。おつうを連れて愛宕様へ御参りに行くので、若し師匠に聞かれたらそう言っておくれ。さあ行こうか」
 と、おつるの手を取って出掛けていき、御屋敷の御門前で、
「つうや」
「あい」

「お前、これを持って菊の井さんの御錠口へ行き、いつもの通り御末(そこに仕える侍女)が出てきたら、丁寧に挨拶して、菊の井さんのお部屋へ通されたら、『明日、母が参る予定ですが、少々加減が悪くって明日は上がれそうにありません。若しお待ちされていますといけませんので、今日お断り上がりました。これはわざと、おすもじ(寿司の美化語)を御覧に入れます』と言うのだ」

「あいよ」
 と、承知をしたのを確かめ、

「それから、お部屋に通ると、このお寿司をお前にくれなすっても食べちゃいけないよ。これを食べると、向こう様から饅頭だの、練羊羹だの、烏羽玉(漆黒の御菓子)だのという結構の御菓子を貰えないから、決してお寿司は食べちゃぁだめだよ」
 と、噛んで含めるように言って送り出し、自分は向こうの居酒屋に入り酒を飲んで、おつうの出て来るのを待つつもりでございます。

おつるは重箱を堤て、御錠口へ行き、
「菊の井さんのお部屋に通ります」
 というと、お松という御末が出て来て、
「おや、おつるさんお出かけかえ。さあこっちへお上がり」
 と、やがてお松が先に立って菊の井の部屋へ通します。

「おや、おつるかえ。能く御出でだねえ。どうしたえ、花子は…」
「あのー、御母あさんは何で御座います。加減が悪くって明日は上がる事が出来ません。もし、お待ちされていますと、恐れ多いので御断りに上がりました」

「おや、そうかえ、よく分ったねえ…」
「これはわざと、おすもじを御覧に入れます」

「はい皆さん、お聞きの通り明日は花子が加減が悪くって来れないのですって」
 といいますと、
「おやそうですか…」

 丁度お茶を召し上がっていた処だったので、
「早速にこのお寿司を、皆さんにお裾分けを致しましょう」
 と、木皿に入れてそこに出した。御中老方やその他の人々が遊びに来ていまして、
「有難う存じます」

「さあ、つるもおあがり」
「いえ、私は頂戴致しません。こちらを頂戴しますと、お饅頭だの、お練羊羹や烏羽玉だのが頂戴出来ませんからお寿司は食べません」

「おやま―、利口のようだが子供だねえ…。お前の好きなものは全部あげるから、おあがりよ」
「そう…。色んなものを下さるなら頂戴します」
 と、箸を取って食べようとします。

これを食べると命の危ない…。今、まさに食べようとしたその時、天井から一匹の蛇が落ちてきました。

このような立派なお部屋で、天井から蛇が落ちるのは、不自然でございます。
座敷の中をニョロニョロと這ったので、一同が、
「あっ」
 といって、驚き逃げ出すやら、転ぶやらの大騒ぎ。おつるが引付を起こしたので、菊の井さんは直ぐに医者を呼び手当をさせたので、気は付ましたが大分虫を起したようでございます。

この騒動の間に蛇はどこかへ行ってしまいいません。

さて、この座敷にどうして蛇が出たのか、さあこれには理由のあって、人の精というものは実に恐ろしいもので…、花子は九郎助がおつるを使って菊の井に毒を飲ませようとしているとも知らず、子供達に稽古をしていると、三味線の糸が三本ともブツと同時に切れました。

ハツと驚いて、
「皆さん少し待っててくださいね、糸が切れましたので。あのつうや…、おつるや…、九郎助さん…、若し向こうの伯母さん、つうはどうしましたかねえ」

「つうさんね、九郎助さんが連れて『愛宕様へ御参りに行く』と言ってね。私が髪を結って上げましたよ。そうして着物を着かえて出かけましたよ」
「何か持っていましたか」

「九郎さんが蛇の目寿司を買ってきて、七色唐辛子のようなものを入れていたよ」
 と聞き、花子は驚いて立ち上り路地まで駆け出しましたが、
(モー間に合わない。如何に欲とはいえ、九郎さんも情けない。旦那様に何かあったらは何と申し分けをしよう。あぁ、神も仏もないのか)
 と、再び我家へ引き返して、手早く鏡台の引き出から剃刀取り出し、喉へ一突き、
「キャッ」
 といって、それきり果てました。

稽古に来ていた子供は驚いて、
「あれあれ」
 といって、表へ飛出していきます。

花子が死んだ時刻と、菊の井の部屋に蛇の出た時刻は同じだったという事ですので、花子の精神がここに来たっていう事でしょうか。

さて、九郎助は居酒屋に入って酒を飲み、おつるが出て来るのを待っていますが、中々出て来ません。

「おい、一升持って来てくんな」
 というと、そこにいた若者が、
「九郎さん大分出来上っていますね…。こっちは五合と手酌だがまだ出てこない」
「もう一升かけてくんねえ」

よく飲む野郎でございます。
(はて、どうしたのかなぁ。嫌な予感がする。まさかあの寿司を食ちゃぁいねえだろうな)
 と、心配していると、
「来た来た」
 と、側にいた人が大声で怒鳴るから、
(何だ)
 と思っていると、一匹の蛇が居酒屋に飛び込んで来ます。

「いやぁ酒の好きな蛇だな。居酒屋へ入るとは。本当に不思議だ…」
 段々と九郎助の傍に来ますので、九郎助が煙管の雁首でギューと蛇の頭を押えると、ぐるぐるっと絡み付いて来きました。

煙草の脂は蛇には毒だといいますが少しも恐れずに巻き付いていきます。九郎助はその煙管を持ったまま居酒屋を出ますと、向こうにあるの溝へ投げ込みます。

すると、どういう弾みだったのか塀にぶつかって戻って来ると、九郎助の首にグルグルと巻付き、
「うーん」
 といって、九郎助はそのまま倒れます。

居酒屋で飲んでいた人達はこれを見て、
「イヤァ蛇の野郎、煙管と間違えて九郎に巻きつきやがった。早く行ってやれ」
 といって、飛び出しますと、蛇はもう何処にもいません。

「九郎、しっかりしろ」
「もう駄目だよ。野郎死んでらあ。兎に角、医者を呼んで来よう」
 というので、早速医者に見せると、
「到底助からない」
 という事だったので、兼房町の家へ知らせようとしますと、そちらでも『九郎助の女房が剃刀で喉を突いて死んでいる』といって、大騒ぎしていましてございます。

長五郎はそれを聞き、目玉がひっくり返る程驚きました。自宅では花子が、隠岐様の前の居酒屋では九郎助が、夫婦ともに普通ではない死に方をしている。

九郎助の親分のなので、御検視から下された死骸を引き取りましたが、二つ同時に葬儀を出すとなると、中々百両やそこらの金では足りません。

その上、九郎助の娘のおつるが御殿から送られて帰って来たので、これも仕方なく引き取り世話をする事になり、いずれも悪の報いでございましょうか。

金の出所がないので、長五郎は脇坂の邸に行きまして、
「さて、旦那。こういう理由で私がおつるを引き取って世話することになりましたが、実に百両や百五十両の金を貰ったところで、なかなか足りません。どうか旦那、恐れ入りますが、元はと言えば貴方のお頼みからこういう事になりましたので、協力をお願いしたいと思い、今日御小屋に上がりました。旦那、今度は酷い目に合いましたぜ」

「いやぁ気の毒千万。金が入り用ならばやろう」
 といったが、脇坂は腹の中では、
(こういう者を生かしておくと、お金が無くなれば、又来るに違ない。金をやらなけれは下郎のことだ、他人に喋るに違いない。この際、殺しちまったほうが、悪事も露見しまい)
 と考え、悪党だけに色を見せずに、
「約束通り金はやるぞ」

「旦那、他に御手当を頂戴しとう御座います」
「よしよし、他にも金子をやろう。なんにしても一盃飲め。たった今、良い魚が入って、道斎と飲んでおったところだ。さぁ一杯飲め」

「有難う存じます」
 と、酒を頂戴していると、
「さあ、ここに金子が二百両ある。今回の骨折り、それと、入用に取って置け」
 と、いって前へ並べられると、長五郎はにこにこ笑いながら、
「どうも旦那、多分に有難う御座います。それじゃ御辞儀なしに頂戴致します」

「長五郎、もう一盃飲め…。道斎、昨日貰った方の酒も飲ましてやれ」
 と、目配せすると、道斎が、
「さあ、長五郎これは伊丹の名酒だ。一盃飲め酌をして遣わそう」
「どうも恐れ入ります」

 といい、盃になみなみと受けた酒をグイと見事に干しました。
「ああ、結構の御酒で有難う存じます」
 と、礼を言っている内に、
「うぅん」
 と、長五郎が呻きだしたかと思うと、忽ち面色が変わって来ました。

それをじっと見ていた脇坂五郎左衛門は、
「道斎、効目は大層なものだな」

「左様で御座います…。少し分量を多く致しましたから、早う御座います」
 これを聞くと、長五郎が、
「旦那、私を毒で殺すので…。旦那、殺すつもりですか」

「甚だ気の毒だが、その方には死んで貰う」
「若し、ダ…ダ…旦那…苦しい」
 と、血を吐きながら立ち上った長五郎、脇坂を目掛けて飛び掛って行きますのを、脇坂が、
「エイ」
 と、一刀の元に斬りました。長五郎は、
「うぅん」
 といって、前にのめりに倒れると、そのまま息が絶えてしまい。

「伯父さん、お斬りなすったのですね」
「飛び掛って来たので斬り捨てた」
 と、刀を拭いピタリと鞘に納め、合羽籠のなかに油紙を敷いて、血が垂れないようにして、死骸を入れると、下男の久助を庭に呼び、
「久助、その方に手当を五両やるので、これを持って、門を出る時『洗濯物だ』といって芝浦まで背負って行き、海の中へ捨ててくれ」

「へい旦那様、中身は何で御座いましょう」
「中は死骸だ」
「へぇ、死骸で御座いますか」
「驚くな、五両やるから捨てて来い」

「五両…、有難う存じます。五両になれば結構で、持って参りましょう」
 という事で、久助が日暮に洗濯物だと門に断って背負い出したのですが、芝浦には行かず、何処をどう間違えたか、数奇屋河岸の方に行き、玉川という居酒屋へ飛び込んで飲み始めました。

普段とは違い、懐に五両という金があるので、大層を決め込み飲んでいると、四つ(午後十時)の鐘が鳴りました。

「若しお客様。今、四つで御座います。もう店を仕舞うので、恐れ入りますが御帰り下さい」
 と、催促され気が付いて、勘定すませ居酒屋を出ますと、亭主が、
「もしもし、お客様」

「仲間はしているが、居酒屋に呼び返される覚えはない。勘定は今払ったぜ」
「御勘定は頂きましたが、貴方はが持って来られた合羽籠を忘れて出ましたので、御呼び止め致しました」

「合羽籠、成程、道理で軽くなったと思った」
 と、合羽籠を担いでみると、酔っていたのでよろよろしています。

「御危のう御座いますよ」
「大丈夫…。酒を飲んだらいやに重くなりやがった。エイヤァ、いい心持ちだ」

ふらりふらりと、数寄屋橋の角のある柳の木の後まで来まして、
「あぁ、くたびれた。馬鹿に重い野郎だ。舌切り雀の文句じゃないが、昔から重い葛籠には録な物が入ってない訳だ。合羽籠の中は死骸だ」

昼間はこの辺には懸茶屋が出ていますが、夜分の事でなので、シーンとして茶店も葦簀で囲っています。

久助が小便をしようと、合羽籠を茶店の角に置いている床几に載せますと倒れてしまい、合羽籠は転げ落ちて、そのまま堀の中へドブンと落ちてしまいました。これを見た久助は、
「やあ!これは妙だ。旦那は『芝浦へ捨てて来い』と言ったのに、道を間違えてここへ来たが、余程水に縁があるとみえて、お堀の中に落っこちやがった。構わねえ、『芝浦に捨てた』といって、帰ろう」

呑気な野郎もあったものです。その儘、久助は脇坂の小屋に帰りましてございます。

夜が明けると、深いと思われていた掘りが案外浅く、合羽籠が水から半分出ています。御見付の役人が引き上げて蓋を取ってみますと、年の頃は四十五位の血だらけの男の死骸が入っています。

御目付当番の榊原内匠は吃驚(きっきょう)して、町奉行の中山飛騨守に願い出ますと、直ぐに御検視の役人が来まして、年齢や衣服、又は人相などを取り調べてまとめると、吉田という待合茶屋で休息をしてございます。

一方、兼房町の長五郎の家では、九郎助の娘のおつるが、
「伯母さん、あのね。数寄屋橋のお堀の中に伯父さんが死んでたとさ。そうしてねえ、今、御検視の御役人様が御出でになって、御茶屋にいるんだって…。それから伯父ちゃんは血だらけになっていたんだって」

「いやだよこの子は…。つまらない事をおいでないよ。伯父さんが帰って来ると叱られるよ」
「ほんとに死んでたんだってよ」

長五郎の女房が考えたのは、
(一昨日、出たぎり帰っていない。普段から喧嘩早い人だから、間違いでもしやぁしまいか)
 で、故に早速に仕度をして数寄屋橋へ行くと、まだ役人方は、吉田という茶店にいます。

長五郎の女房が近づくと、
「なんだ」
「私は兼房町の家主が由兵衛の店に住んでいる、長五郎の妻で御座いますが、夫が宿を一昨日出たきり、帰ってきません。お堀から上がったという死骸をどうか見せて頂きたいと存じます」
 というと、御役人の取り次ぎで死骸を見てみると、長五郎に違いない。

「これは確かに私の夫で御座います。どうか、お引渡しをお願いします」
「長五郎は一昨日、何処へ行くと言って出たか」

「はい、『隠岐様の御家中で脇坂五郎左衛門様の御小屋に用がある』といって出まして御座いますが、それきり帰宅を致しておりません」
「はあ、左様か」
 と、一通り調べると長五郎の妻に死骸を引き渡し、女房は泣く泣く夫の死骸を引き取りました。

しかし、悪を以って悪を凝らす、天の配剤は旨い具合に出来ているものでございます。

さて、御上に於いては、
(隠岐様の御屋敷が怪しい)
 と、思いましたが、町奉行は手入れが出来ませんので、それとなく調べていました。

そこに、国表の水野吉右衛門の家来市助が、水野様の書面を携え、江戸表の老臣水野勘解由に大事な謀を以って注進するという一席は、次回に詳しく弁じます。


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