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3月21日

3月21日は河本緑石(義行)さんのお誕生日。
今年がなんと生誕120年にあたるんですが
同時にアザリア創刊100周年なんですね。
記念すべき年がきてしまったなぁといった感じですが
そんな特別な年に何ができるのか、
何処を向けばいいのか色々と考えています。
先日とある発見により(そのうち詳細について別の所で述べられることがあると思いますが)河本緑石の死が宮沢賢治の銀河鉄道の夜に描かれるカムパネルラの死を描かせる切欠のようなものになったのかも…という発見をするに至ったのですが
(モデル説と言いきるには弱いのであまりこれは言いたくありませんが可能性はゼロではない…的な)
そんな大変なことを経て鳥取に行ってきました。
様々な人の大いなるご協力とご好意によってアザリアや緑石自身に関する調査をさせて頂いているのですがやはり調べると沢山の事がわかります。

着ていた服がありました、描いた油画がありました、本に書いたメモもありました。
文字と白黒写真でしか感じてない人の存在とこういう形で「会う」というのはやはり彼が、彼らが「生きていた」ということを感じさせてくれます。

河本緑石という存在知る前に、彼より先に「カムパネルラ」に会い
カムパネルラのように人を助け亡くなった人、モデルという言葉に近い存在として認識することがこれまでもこれからも沢山あると思います。(なにをかくそう私もそうなのだ)

しかし彼の魅力は果たして「死」だけなのだろうか、
というと全然そんなことはなく彼が残した作品や彼が生きたこと、
彼と接し言葉を交わした人が「生きる彼」をうたっています。
残る逸話も立派なものばかりです、多くの人が好きだったんだなということがわかります。

彼の死は確かに劇的で、銀河鉄道の世界のように美しく悲しい話ではあるけれどそれでもやはり、死でしか語られない芸術家ほど悲しいことはない。
家族を愛し故郷を愛し芸術を愛し多くを残した彼はその時たしかに生きていたのだから。

今の、これからの私達に求められているのは
彼の死を思い描くことではなく
命を歌い世界を描き現実に悩み理想に走り続けた
「生きる河本緑石」を知ることではないのか?
 
銀河鉄道の夜はどこまでいっても
河本緑石のものじゃない、宮沢賢治のもの。
彼は物語の登場人物じゃなく、確かに百年前に生きていた人です。

私はそんな生きている河本緑石にこそ、知るべきことが多いと思うし
「鳥取県にいた文学者・芸術家河本緑石」は多くの人に知ってもらいたいと願います。
「カムパネルラではない河本緑石」を。


彼が生まれた3月21日という日ということで柄にも無くこんなことを書いてしまいました。

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